スキップしてメイン コンテンツに移動

幼子と指導者

「幼子と指導者」

ルカの福音書18:15~27

 

今日の聖書箇所の記事は、マタイやマルコにも見られる記事です。けれどもマタイやマルコではこの記事の前に、パリサイ人による「離婚」についての質問が書かれているのに対して、ルカだけが「パリサイ人と取税人の祈り」の記事を記しています。これには何か理由がありそうです。パリサイ人は自分が神の律法をすべて守っていること、律法に従って断食し、十分一献金をしていることを胸を張って神に感謝をささげているのです。ところが取税人は、自分が罪人であることを自覚し、うつむき胸を叩いて「神様、罪人の私を憐れんでください」と神にあわれみを請う祈りをしています。どうでしょうか。先のパリサイ人は、今日の個所に出てくるユダヤ教の指導者と重ならないでしょうか。そうです。自分は神の律法を完璧に守っていると主張しているところが共通しているのです。そんなことを頭の片隅に置きながら、今日の本文に入ります。

イエスさまに祈っていただこうと大勢の人が押し寄せてきました。そして「人々は幼子たちまで連れて来た」とあります。新共同訳では「乳飲み子までも連れて来た」となってます。多くの人々がイエスさまの話しを聞こうと、また病をいやしていただこうとイエスさまの元に集まって来ていました。ところが弟子たちは赤ちゃんや幼子についてだけ拒絶し、叱ったのです。子どもたちにはイエスさまから祝福を受ける価値がないということでしょうか。いつの時代でも子どもたちは軽んじられ虐げられています。ところがイエスさまは逆に弟子たちを叱りました。そして弟子たちに叱られてしゅんとしている子どもたちをそばに呼び寄せ抱っこして、「神の国はこのような者たちのものなのです。」とおっしゃったのです。人々は驚きました。2427節を見ると、人々は金持ちに代表されるような多くをもっている者こそ神の国に近いという考え方があったとことがわかります。確かに旧約聖書では信仰者はみな経済的にも祝福されているのです。アブラハムしかり、イサク、ヤコブ、ダビデやソロモンなどみな裕福です。人々はイエスさまが「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょうか。金持ちが神の国に入るよりはらくだが針の穴を通る方が易しい。」と話すのを聞くと、驚いてすかさず「それでは、だれが救われることができるでしょう。」と疑問を発しています。イエスさまの言われることは当時の常識をくつがえすものだったのです。けれども富んでいる者、力ある者、能力の高い者が神の国に近いとすると、何の力も能力も財産もない子どもたちはどうなるのでしょうか。神の国から一番遠い存在になってしまいます。ところかイエスさまは、幼子を抱いて神の国は彼らのものだとおっしゃいました。

 

さて神の国の話題が出たということで、一人のユダヤ教の指導者がイエスさまに質問をします。「良い先生、何をしたら、…永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」と。今しがた「子どものようにならなければ神の国に入れない」と聞いたばかりなのに、「何をしたら」と問う指導者は、永遠のいのち(神の国)を受け継ぐためには、何かをしなければならないと決めつけていて、そこから抜けられないようです。先ほども言いましたように「何をしたら」が基準なら、幼子たちは一番神の国から遠くなってしまうではありませんか。

また「良い(尊い)先生」との呼びかけも「道徳的に良いことをする模範としての先生」との意味でしょう。それに対しイエスさまは、「良い方は神おひとりのほかだれもいません」とその発言を正しています。もちろんイエスさまは神ですから、良いお方なのですが、彼の言うような「良いお方」ではありません。つまり自分のものさしをあてて、「あなたは基準に達している」という良いお方ではないのです。ですから完全な義なるお方、天の父なる神さまを指し、「良いお方は、神おひとりの他はありません」とおっしゃり、自分のものさしを人や神にあてるのではなく、むしろ神のものさしを自分をあてなさいと言っているのです。そしてイエスさまは十戒の後半部分を彼に問います。神のものさしをあてたのです。

「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの父と母を敬え。」そして神の国に入るにはこれらを守ることだおっしゃいました。「何かをすること」「道徳的行為」から抜け出ることのできない彼のところまで下りてきて、同じ土俵でまず彼に問われたのです。すると指導者は、よくぞ聞いてくれたとばかりに胸を張って「そのようなことは子どもの頃から完璧に守っている」と答えます。先のパリサイ人と同じです。11節「『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』」やっぱりこの二人は自分の義を主張しているという点で似ています。そんな彼にイエスさまは言います。「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。神のものさしに達していないことがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」そしてそれを聞くと、この指導者は非常に悲しんだとあります。イエスさまはひどいことを要求すると思うでしょうか。ひょっとしたら皆さんもこの聖書の記事を読む度に、イエスさまは厳しいな~、そこまで要求しなくてもいいのに…、本当にこんなことしないと永遠のいのちをいただけないなら、私もムリだわと思うでしょうか。でも実はイエスさまは文字通り全財産を捨ててイエスさまに従うことを要求しているわけではないのです。もしそうなら、12弟子のようなほんの一握りの人しか御国の約束、永遠のいのちを得られなくなってしまいます。イエスさまは実はこの指導者に気づいてほしいことがあったのです。それは彼の「欠け」です。神のものさしに達していない寸足らずの部分です。「一つの欠け」、けれどもそれは「致命的な欠け」でした。それに気づいてほしくてあえてイエスさまはこのようなできもしないことを言ったのです。

 

さて、それは何でしょうか。それは「人は神の戒めを守り得ない罪人であることを知る」ということです。彼はそのことに気づいていない。それが彼の「欠け」だったのです。この指導者は胸を張って「私は少年のころから、神の戒めをすべてを守って来ました」と言いました。けれどもこの指導者は、実は十戒で最も基本となる第一戒をすでに破っているのです。第一戒は何でしょうか。「わたし以外にほかの神があってはならない」という戒めです。この場面でイエスさまはこの指導者に問いかけています。「あなたにとって神は何なのか?あなたのお金なのか、財産なのか、それとも神であるわたしか?」お金は正しく儲けて、正しく用いれば悪いものではありません。しかしお金を神さまより愛するなら、それは偶像礼拝になります。他のどんなものも同じです。家族や健康、時間や趣味や仕事、どれも悪いものではありません。良いものです。けれどもそれらが神さまより大事になってしまったり、神さまより頼りにしたり、これこそ私を幸せにしてくれるものだとするならば、それは偶像礼拝になってしまうのです。マルチン・ルターはこう言いました。「金と財産を持っている時、人はどれほどうぬぼれ、安心し、誇っているか。それは人がそれを奪われる時どれほど失望するかを見れば明らかである。」と言いました。つまり健康が取り上げられたら、家族が離れていったら、仕事がうまくいかなかったら…。私たちはどれほど失望するでしょうか。ひょっとしたらこの指導者と同じように悲しんでイエスさまのもとを去っていくかもしれない。そうです、私たちはみな第一戒を犯している罪人です。イエスさまは彼にそれに気づいてほしかった。ですからこの指導者にあえてチャレンジしたのです。

ではこの指導者はどう応答すればよかったのでしょう。「イエスさま、私は自分の財産を捨てられません。すべてを投げ打ってあなたについて行くこともできません。私は罪人です。どうぞこんな私をあわれんでください。」とそう答えたならば、彼は幼子のように、また先の記事に出てくる取税人のように神に受けれられたのです。多くを持っている、こんなことをしてきた、自分は完璧だという態度で神の前に出るのではなく、何も持たない幼子のように、また自分の罪を恥じる取税人のように「罪深い私を憐れんでください」と胸を叩いてみ前に出ればよかったのです。

そしてもう一つのことにも触れたいと思います。みなさん十戒の本質をご存知でしょうか。それは「神を愛し、人を愛すること」です。そして愛するとは、その愛する対象のために自分を捨てることなのです。自己犠牲が伴います。親は子どもを愛します。ですから自分の持っているものを子どものために喜んで捨てます。時間もお金も労力も心も惜しみなくささげられます。ですから、この指導者が本当に神の戒めを守っているというならば、「あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。」というイエスさまに「はい、どうぞ」と言えたはずですし、「そのうえで、わたしに従って来なさい。」と言われたら、「はい、従います」と言えたはずなのです。それができなかった彼は、やはり神の戒めを守っているとは言えません。そして神の戒めを守ることが救いなら、彼は救われません。もちろん私たちもです。

けれども「神を愛し、人を愛する」という神の戒めを完全に守り切ったお方がおられます。どなたでしょう。イエスさまです。イエスさまは人を愛してご自身をささげ十字架にかかり、父なる神のみこころに従いきることによって神の戒めを全うされました。こうして神の戒めに従えない私たちに代って完全に従いきってくださり、救いの道を開いてくださったのです。18:27 イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」そうです。人は神の戒めを守ることによっては救いを達成し得ない。けれども神は、イエスさまを通して救いの道を開いてくださった。神にはできるのです。

 

最後に先日柴田先生が説教で語ってくださった聖書のみことばをお読みいたします。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。」(ヨハネの黙示録3:17)ここからがスタートです。自分の貧しさ、罪深さ、何も持っていないことに気づくことです。自分の欠けに気づくことです。神さまは、私たちがこの富める指導者のようではなく、何も持たない幼子のように、ただ主のあわれみにすがることを求めておられるのです。

 

天の父なる神さま。私たちは、あなたの求められる聖さと愛の基準には到底達し得ない者です。けれどもイエスさまは私たちに代り、神と人とを愛し抜いてくださいました。そんなあなたの前にへりくだり、幼子のように低くなって、ただあなたのあわれみにすがることができますように。主イエス・キリストの御名によりお祈りします。アーメン


コメント

このブログの人気の投稿

いのちがけで逃げなさい(創世記19:1~38)

「いのちがけで逃げなさい!」 創世記 19 章 長い聖書朗読になりました。前半のソドムが滅ぼされるところと、後半のロトと娘たちの近親相姦の記事を分けて扱おうとも思いましたが、「いのち」と「滅び」について、神さまの御思いと、人間の思いの落差というカテゴリーでくくれると思い、一気に読むことにしました。 ソドムの町には、み使い二人だけで来たようです。アブラハムが天幕を張っていたヘブロンからソドムまでは、約60キロ。アブラハムのところには、「日の暑いころ」(18:1)に訪れていますから、その後ゆっくりアブラハムのおもてなしを受けたとしたら、夕暮れにソドムに着いたというのはあり得ないのですが、そこはみ使いですから、超自然現象だと理解したいと思います。 み使いたちが到着すると、ロトがソドムの門のところに座っていました。当時は、長老格の人たちが、町の広場や門のところに座り、民を裁いていたと言います。また後に、ソドムの人が、ロトを批判して「こいつはよそ者のくせに、さばきをするのか!」と批判していますので、ロトは、ソドムの町でも知恵と人格において一目おかれていたことをうかがい知ることができます。 またロトは、アブラハムといっしょにいたころの「神の民」として生き方や文化、習慣みたいなものも残っていました。そしてもちろん、堕落したソドムにあっても、創造主なる唯一の神を信じていました。旅人を見ると、アブラハムと同様、立ち上がって彼らを迎え、丁寧にお辞儀をして、「ご主人がた、どうか、このしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊りください。」と申し出ています。み使いたちが、ソドムを訪れた目的は、神さまのもとに届いた、虐げられている者たちの叫びが本当かどうか見極めるということでしたから、「いや、私たちは広場に泊まろう」と答えたのですが、この町の治安の悪さを知っているからでしょうか、ロトは、「そんなこと言わないでぜひ!」としきりに勧めたので、み使いたちも折れて、ロトの家に泊まることにしました。 しかしその夜、事件は起こりました。ロトの家の周りに、町中の男たちが、若い者から年寄りまで集まって来きたのです。そしてロトの家を取り囲んで叫びます。「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。彼らをよく知りたいのだ!」この「知りたい」というのは、何も「お名前は?」「趣...

サラの死と埋葬(創世記23:1~20)

「サラの死と埋葬」 創世記12章1~20節   サラが天に召されました。127歳でした。今の私たちの感覚からすると非常に長寿ですが、アブラハムが召されたのは175歳ですから、それを思うと、当時としてはそれほど長寿だとも言えないかもしれません。聖書にはたくさんの女性が登場しますが、亡くなったときの年齢が記されているのは、なんとサラだけだそうです。このことからも、アブラハムだけでなく、サラも聖書の救いの歴史の中で重要な役割を果たしていたことがわかりますね。 サラの生涯は幸せだったでしょうか。いろんなことがありました。夫が神さまから呼ばれたことによって、住み慣れた土地を離れなければなりませんでした。たいていの女性は定住志向ですから、寄留者として生きなければならないことは、サラにとってはつらいことだったことでしょう。時には、いのちの危険があるようなところに寄留することもありました。そんなときには、決まって夫アブラハムは、自分のことを兄だと言ってくれと頼むものですから、彼女は2回もその土地の王に召し抱えられる危機に遭いました。それは、サラの美しさのゆえでした。最近はルッキズムと言って、容姿が美しいことが幸せの条件のように思われています。確かに美しいことで得をすることもあるかもしれませんが、美しさゆえの悩みもあるようです。美しさゆえの誘惑があり、落とし穴があるからです。 けれども、サラの生前の一番の悩みは、やはり子どもがいないことでした。一時は自分で子を産むことをあきらめて、女奴隷ハガルを夫に与えて、彼女によって子をもうけようとしました。けれども、実際に身ごもったハガルを見るのは耐えがたく、ハガルに辛く当たり、彼女が逃げ出すぐらいひどくいじめたのでした。そんな事件があった後、不思議な3人の旅人が来て、「来年の今ごろ、サラに男の子を産む」と告げました。その時サラは、天幕の陰に隠れて、思わず心の中で笑ったのです。ところが神はご真実で、サラは本当に身ごもり、一年後には子どもが与えられました。その時サラは、すでに90歳。しかし、子どもが与えられた喜びに浸る日々もつかの間、今度は女奴隷ハガルの子イシュマエルが邪魔になります。そして、イサクの乳離れの祝いの席で、イシュマエルがイサクをからかったことを機に、夫にイシュマエルを追い出すようにと攻め寄り、とうとう二人を家か...

約束の子の誕生(創世記21:1~21)

「約束の子の誕生」 創世記 21 章1~21 21章の1節から8節までは、喜びと笑いに満ちています。とうとう、アブラハムとサラとの間に子どもが生まれたからです。この子の誕生は、まさに神さまによる奇跡でした。聖書はそのことを強調しています。1節「主は約束したとおりに」、「主は告げたとおりに」、2節「神がアブラハムに告げたその時期に」。また、それが神の御力の表れであることを示すために、神さまが「来年の今ごろ」と告げたまさにその時期に生まれたこと。また、その時アブラハムは100歳だったこと(サラも90歳だったこと、)。そして、生まれた子が、主が告げたとおりに、男の子だったことを語っています。 そしてもう一つ。聖書は、このイサクの誕生は、アブラハムのためだけではない、サラのためであったことも示しています。1節では「(主は)サラのために行われた」、6節では、「神は私(サラ)に笑いをくださいました」とあるように、神さまは、サラを覚え、顧みてくださったのです。 生まれてきた子は、イサクと名付けられました。「彼は笑う」という意味です。日本で、この「笑う」という字を使ってイサクと読ませる名前を持っている男の子はいるか調べてみました。ありました!笑いを作ると書いて、「笑作(いさく)」と読ませています。 「笑い」とは言ってもいろんな種類の笑いがあります。17章ではアブラハムが笑い、18章ではサラが笑っています。どちらも不信仰から来る笑いでした。神さまが、アブラハムとサラの間に子どもを授けると約束しているのに、そんなことあるはずがない…と言って彼らは笑ったのです。けれども今回の笑いは、喜びと賛美の笑いでした! よくクリスチャンは、3 K (固い、厳しい、暗い)と言われますが、私たちクリスチャンこそ、この喜びの笑いがふさわしいのではないかと思います。私たちの教会の役員会は、よく笑います。がはは、がははと笑いながら、1時間半ぐらいが、あっという間に過ぎていきます。神さまはご真実なお方で、私たちの教会の必要をご存じで、よい計画を持っておられる、それを信じているから笑いが絶えないのだと思います。アブラハムは祝福の基と言われましたが、笑いの基でもありました。私たちクリスチャンも、家族に笑いを届け、学校や職場に笑いを届けるものでありたいですし、私たちの教会も、地域に笑いと希望を届け...