スキップしてメイン コンテンツに移動

「御霊によって祈る」(エペソ6:18)


「御霊によって祈る」

エペソ人への手紙 6:18

 

今日の聖書箇所は、今年の年間聖句です。昨年の年間聖句は第一ペテロの2章2節。生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めなさい。」でした。そして今年のテーマは祈りです。「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」エペソ人への手紙618節の前半部分です。

さあ、「祈り」と聞くと皆さんどう思うでしょうか。ある人は、「祈りか~、苦手なんだよね」と思うかもしれません。わたしもそうです。聖書や信仰書を読むのは、時間さえとればむしろ容易いですが、祈りは時間をとったうえで、集中しないといけない。これが難しいのです。今日は、そんな祈りが苦手という私を含めた皆さんのためのみことばです。

 

 さて祈りの目的は何でしょうか。何でも行動に移すには動機と目的が必要です。この個所では祈りの目的は「強められること」だと言っています。さかのぼって10節を見るとこうあります。「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい」。「終わりに言います。」というのは、この手紙を書いたパウロが、文末にどうしても言いたいことを書いたということでしょう。またこの時パウロはローマの獄中で鎖につながれていました。そしていつ裁判が行われ、処刑されるかわからない状況にあったのです。そのことを思うと、ひょっとしたら人生の最後という意味で、「終わりに言います」と言っていたのかもしれません。とにかくパウロは、文末にかなり強い調子で「強められなさい」と言っています。そして、11節、13節、14節で立て続けに「堅く立ちなさい」と3度も言っているのです。

 どうして強められて、堅く立たないといけないのでしょうか。最近は、「ゆるい」という言葉を頻繁に聞きます。社会全体が疲れていて、緊張しているので、ゆるさを求めているのかもしれません。けれどもパウロは、強められるように、堅く立つようにと言っています。なぜでしょうか。それは悪魔の攻撃があるのでそれに対抗するためです。「悪魔」については続けて補足説明があります。「悪魔」とは、「支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊」(12節)です。そして悪魔は16節にあるように、私たちを攻撃して火矢を放ってくるというのです。どんな火矢でしょうか。祈りに関して言うならば、「そんな祈ってどうなるの」「現状は変わらないよ」「神さまは聞いてはおられない」「あの人は信仰もないし祈ってもいないけど何をやっても成功してるじゃない」ということでしょう。私たち信仰者は、心の声としてこんな火矢を浴びせかけられたことが、少なからずあるのではないでしょうか。悪魔の攻撃の目的は、私たちが神の愛を疑うことです。神はあなたのことを愛していない。何も気にかけていない、そう思わせることです。そして神の愛への疑いを抱かせることなのです。ですから強められなさいとと言っています。自分で強くなろうとしても無理です。私たちの中にはそんな強さはありませんから。でも大丈夫。「強められなさい」は受け身です。「主にあって、その大能の力によって」私たちは強めていただけるのです。

 そしてパウロは言うのです。「神の武具を身に付けなさい」と。「腰には真理の帯」「胸には正義の胸当て」「足には平和の福音の備えをはき」そして「信仰の盾」を取るように。そして「救いのかぶと」をかぶり、「御霊の剣、つまりみことば」を取なさい。と言っています。今日は一つひとつについて説明はしません。今日注目したいのは祈りです。これらの武具の総仕上げとして「祈りなさい」と聖書は言っているのです。

 さて、「祈り」は「瞑想」でも「念じること」でもないと補足したいと思います。神さまを知らない人でも瞑想する人はいます。実際は最近そんな本が流行っているようです。一日のはじめや夜に瞑想することを勧め本なども出ています。また「念じる」ことによって意識を集中させ、目標を達成できるということも実際にあるようです。けれどもこれらは、祈りとは全く違います。祈りは人格的な関係の中で行われます。子どもがお父さんやお母さんに話しかけるように、神に話しかけるのが祈りなのです。そして私たちが祈る相手は、私たちの「主」です。「主」とは私たちの上に立つお方、従うべきお方です。例えば、江戸時代厳しい年貢の取り立てに苦しむ農民は、村役人を代表者にして領主に負担の軽減を訴える、という方法をとりました。もしこのような決められた手続きをふまないで直訴すると重い罰を受けたのです。本来「主」にお願いするということはそういうことなのです。けれども私たちはイエスさまの十字架の贖いによって神の子どもとされたので、子どもがお父さんにお願いするように直訴してもよいことなったのです。祈れるということは、私たち神の子どもたちに与えられたすばらしい特権だということを知っていただきたいのです。

 

 さて、次に今日の中心聖句18節を見てみましょう。祈る時の態度について詳しく書かれています。 まずは「あらゆる祈りと願いによって」ということです。祈り(プシュケー)と願い(デエーシス)はどう違うのでしょう。ある注解者は「祈り」というのが「一般的な神への依頼」で「願い」が「個別的な神への依頼」と言っています。まあ、その区別は重要ではないでしょう。なぜならここでは「あらゆること」を祈りなさいと言っているのですから。あらゆることです。大きなことも、小さなことも、自分のこと、自分の身の回りのこと、そして世界規模のこと、とにかくあらゆることです。私も日常的に小さなことを祈ります。例えば買い物をする前には、「無駄な買い物をしないように」と祈り、車の運転をするときにも「事故に遭わないように」と必ず祈ります。ある注解者は「祈ることを思い出さないことがないように」といういい方をしていました。何しろ神さまがあらゆることを祈っていいと言ってくださっているのですから、祈らない手はありません。

 次に「どんなときにも」とあります。これは順境でも逆境でもということだそうです。逆境の時は私たち必死に祈るかもしれません。でも順境の時はどうでしょうか。私たちはなかなか祈れないのが正直なところでしょう。しかも「御霊によって祈りなさい。」とあります。大丈夫です。私たちが祈る時には、助け手なる聖霊は、さっと私たちに寄り添い、私たちの祈りを助けてくださるはずです。

 「絶えず目を覚まして」とあります。私などは眠りをこよなく愛する人間なので、絶えず目を覚ましてなどと言われると、無理かもと思ってしまうのですが、みなさんはどうでしょう。けれども考えてみれば、悪魔が私たちを攻撃して、火矢がビュンビュン飛んでくる中で、私たちは果たして寝られるでしょうか。問題は私たちが攻撃にさらされているということを自覚しているかどうかということです。11節に見るように、悪魔は策略家です。巧妙に私たちに攻撃を仕掛けてくるのです。ですから私たちは霊の眼を開いて、絶えず目を覚まして祈らなくてはいけないのです。祈りのバリアを張り巡らし、悪魔に隙を与えないのです。

 「すべての聖徒のために」とあります。教会の兄弟姉妹のために祈りましょう。いっしょに教会生活をしていると、私たちは兄弟姉妹の祈りの必要が見えてきます。教会はキリストのからだです。互いのために祈りたいと思います。そしてもっと視野を広げ、宣教師のため、迫害下にある教会のため、日本中の、また世界中の教会のために祈りましょう。なぜなら聖書は「すべての聖徒のため」と言っていますから。ひとりではそんな広い視野では祈れない、そんな皆さんのために水曜日の祈祷会があります。ぜひ一緒に祈りましょう。

 そして最後、「忍耐の限りを尽くして」とあります。他の訳では「根気よく」とあります。私たちは待つことが苦手です。特に現代はインスタント化、スピード化が進んでいますから、祈りに関してもすぐに返事が得られなければ、あきらめてしまうのです。そしてなぜ神さまは祈りに答えてくださらないのかと不平を言い、先ほど言いました悪魔の火矢にまんまと射貫かれてしまい、ああ神さまは祈りを聞いて下さらない、私のことを愛していないのだ。神さまなんていないのだと神への信仰(信頼)を失ってしまうのです。祈り始めるのは意外に容易いです。けれども祈り続けるのが難しい。私たちは忍耐の限りを尽くして祈りたいと思います。

 

最後に冒頭でも話しましたが、パウロは獄中で鎖につながれて、この手紙を書きました。けれども彼から出てくる言葉は、なんて力強いのでしょう。「福音の奥義を大胆に知らせることができるように」「語るべきことを大胆に語れるように」と「大胆に」「大胆に」と言っているのです。そうです。祈りは繋がれてはいないのです。祈りは、悪魔に対して最強の守りであり、最強の攻撃なのです。私の母は祈りについて大胆な人でした。父がネフローゼで入院し、みるみる腎臓の機能が衰え、とうとう腎不全となり、人口透析にするために腕に穴をあけました。そして障がい者手帳ももらい、人工透析を10回ほどしました。そんなある日、母が家で祈っていると、父の病室に行って祈るように示されたと言うのです。もう夜中でしたが、母は病院に行き、父のベッドの横でひざまずいて祈ったと言うのです。途中看護師さんが来て、母の存在に気づきぎょっとしたのですが、母が「お祈りしているのです。」というと、黙って去っていきました。その晩は特に何も起こりませんでした。ところが次の日、私の妹から母に電話がありました。教会の人がいい病院を紹介してくれたと言うのです。母は、ああ神さまが道を開いてくださったとわかり、すぐに転院手続きをしました。そして数カ月の治療を受け、なんと父は完治したのです。私は祈りという点では、本当に母の大胆さに倣いたいと思っています。祈りは繋がれてはいないのです。祈りは自由です。祈りは無限です。

 

さて最後結びです。よく祈りは呼吸だと言います。赤ちゃんが生まれてくるとすぐに産声をあげます。それは呼吸を始めることを意味しています。同じようにクリスチャンも生まれたらすぐに呼吸を始めなければ霊的に死んでしまいます。けれども呼吸は一度覚えれば、自然にできるのですが、祈りはそうはいかない。だからパウロはこうやって私たちを励ましているのです。というより、パウロ自身が祈ってほしかったのです。私のために祈ってほしいとここで懇願しているのです。そういえばイエスさまも十字架に架かる前にゲッセマネの園で祈られたときに、弟子たちに祈りのサポートを頼みました。けれども疲れていた弟子たちは、起こしても起こしてもまた眠りに落ちてしまい、祈れなかったのです。私たちの祈りを必要としている人がいます。カルヴァンはこんな風に言っています。「兄弟たちの窮乏が我々の心を動かさざるを得ない。」「教会の肢の中に、苦しんで、我々の助けを必要としている者が誰もいない、というときがあるのだろうか。」今年私たちはますますお互いのために祈りたいのです。祈ることは、神に信頼することです。祈りましょう。


コメント

このブログの人気の投稿

いのちがけで逃げなさい(創世記19:1~38)

「いのちがけで逃げなさい!」 創世記 19 章 長い聖書朗読になりました。前半のソドムが滅ぼされるところと、後半のロトと娘たちの近親相姦の記事を分けて扱おうとも思いましたが、「いのち」と「滅び」について、神さまの御思いと、人間の思いの落差というカテゴリーでくくれると思い、一気に読むことにしました。 ソドムの町には、み使い二人だけで来たようです。アブラハムが天幕を張っていたヘブロンからソドムまでは、約60キロ。アブラハムのところには、「日の暑いころ」(18:1)に訪れていますから、その後ゆっくりアブラハムのおもてなしを受けたとしたら、夕暮れにソドムに着いたというのはあり得ないのですが、そこはみ使いですから、超自然現象だと理解したいと思います。 み使いたちが到着すると、ロトがソドムの門のところに座っていました。当時は、長老格の人たちが、町の広場や門のところに座り、民を裁いていたと言います。また後に、ソドムの人が、ロトを批判して「こいつはよそ者のくせに、さばきをするのか!」と批判していますので、ロトは、ソドムの町でも知恵と人格において一目おかれていたことをうかがい知ることができます。 またロトは、アブラハムといっしょにいたころの「神の民」として生き方や文化、習慣みたいなものも残っていました。そしてもちろん、堕落したソドムにあっても、創造主なる唯一の神を信じていました。旅人を見ると、アブラハムと同様、立ち上がって彼らを迎え、丁寧にお辞儀をして、「ご主人がた、どうか、このしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊りください。」と申し出ています。み使いたちが、ソドムを訪れた目的は、神さまのもとに届いた、虐げられている者たちの叫びが本当かどうか見極めるということでしたから、「いや、私たちは広場に泊まろう」と答えたのですが、この町の治安の悪さを知っているからでしょうか、ロトは、「そんなこと言わないでぜひ!」としきりに勧めたので、み使いたちも折れて、ロトの家に泊まることにしました。 しかしその夜、事件は起こりました。ロトの家の周りに、町中の男たちが、若い者から年寄りまで集まって来きたのです。そしてロトの家を取り囲んで叫びます。「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。彼らをよく知りたいのだ!」この「知りたい」というのは、何も「お名前は?」「趣...

サラの死と埋葬(創世記23:1~20)

「サラの死と埋葬」 創世記12章1~20節   サラが天に召されました。127歳でした。今の私たちの感覚からすると非常に長寿ですが、アブラハムが召されたのは175歳ですから、それを思うと、当時としてはそれほど長寿だとも言えないかもしれません。聖書にはたくさんの女性が登場しますが、亡くなったときの年齢が記されているのは、なんとサラだけだそうです。このことからも、アブラハムだけでなく、サラも聖書の救いの歴史の中で重要な役割を果たしていたことがわかりますね。 サラの生涯は幸せだったでしょうか。いろんなことがありました。夫が神さまから呼ばれたことによって、住み慣れた土地を離れなければなりませんでした。たいていの女性は定住志向ですから、寄留者として生きなければならないことは、サラにとってはつらいことだったことでしょう。時には、いのちの危険があるようなところに寄留することもありました。そんなときには、決まって夫アブラハムは、自分のことを兄だと言ってくれと頼むものですから、彼女は2回もその土地の王に召し抱えられる危機に遭いました。それは、サラの美しさのゆえでした。最近はルッキズムと言って、容姿が美しいことが幸せの条件のように思われています。確かに美しいことで得をすることもあるかもしれませんが、美しさゆえの悩みもあるようです。美しさゆえの誘惑があり、落とし穴があるからです。 けれども、サラの生前の一番の悩みは、やはり子どもがいないことでした。一時は自分で子を産むことをあきらめて、女奴隷ハガルを夫に与えて、彼女によって子をもうけようとしました。けれども、実際に身ごもったハガルを見るのは耐えがたく、ハガルに辛く当たり、彼女が逃げ出すぐらいひどくいじめたのでした。そんな事件があった後、不思議な3人の旅人が来て、「来年の今ごろ、サラに男の子を産む」と告げました。その時サラは、天幕の陰に隠れて、思わず心の中で笑ったのです。ところが神はご真実で、サラは本当に身ごもり、一年後には子どもが与えられました。その時サラは、すでに90歳。しかし、子どもが与えられた喜びに浸る日々もつかの間、今度は女奴隷ハガルの子イシュマエルが邪魔になります。そして、イサクの乳離れの祝いの席で、イシュマエルがイサクをからかったことを機に、夫にイシュマエルを追い出すようにと攻め寄り、とうとう二人を家か...

約束の子の誕生(創世記21:1~21)

「約束の子の誕生」 創世記 21 章1~21 21章の1節から8節までは、喜びと笑いに満ちています。とうとう、アブラハムとサラとの間に子どもが生まれたからです。この子の誕生は、まさに神さまによる奇跡でした。聖書はそのことを強調しています。1節「主は約束したとおりに」、「主は告げたとおりに」、2節「神がアブラハムに告げたその時期に」。また、それが神の御力の表れであることを示すために、神さまが「来年の今ごろ」と告げたまさにその時期に生まれたこと。また、その時アブラハムは100歳だったこと(サラも90歳だったこと、)。そして、生まれた子が、主が告げたとおりに、男の子だったことを語っています。 そしてもう一つ。聖書は、このイサクの誕生は、アブラハムのためだけではない、サラのためであったことも示しています。1節では「(主は)サラのために行われた」、6節では、「神は私(サラ)に笑いをくださいました」とあるように、神さまは、サラを覚え、顧みてくださったのです。 生まれてきた子は、イサクと名付けられました。「彼は笑う」という意味です。日本で、この「笑う」という字を使ってイサクと読ませる名前を持っている男の子はいるか調べてみました。ありました!笑いを作ると書いて、「笑作(いさく)」と読ませています。 「笑い」とは言ってもいろんな種類の笑いがあります。17章ではアブラハムが笑い、18章ではサラが笑っています。どちらも不信仰から来る笑いでした。神さまが、アブラハムとサラの間に子どもを授けると約束しているのに、そんなことあるはずがない…と言って彼らは笑ったのです。けれども今回の笑いは、喜びと賛美の笑いでした! よくクリスチャンは、3 K (固い、厳しい、暗い)と言われますが、私たちクリスチャンこそ、この喜びの笑いがふさわしいのではないかと思います。私たちの教会の役員会は、よく笑います。がはは、がははと笑いながら、1時間半ぐらいが、あっという間に過ぎていきます。神さまはご真実なお方で、私たちの教会の必要をご存じで、よい計画を持っておられる、それを信じているから笑いが絶えないのだと思います。アブラハムは祝福の基と言われましたが、笑いの基でもありました。私たちクリスチャンも、家族に笑いを届け、学校や職場に笑いを届けるものでありたいですし、私たちの教会も、地域に笑いと希望を届け...