スキップしてメイン コンテンツに移動

キリストのものとされて生きる(Ⅰコリント6:19-20)

 

齋藤五十三

 本日は『ハイデルベルク信仰問答』を皆さんと一緒に味わいたいと願っています。馴染のない方もおられると思いますので最初に信仰問答とはどういうものか。短く触れておきたいと思います。 

1. ハイデルベルク信仰問答

 教会にとって、信仰の内容を共有することはとても大切です。主イエスは、信仰告白の上に教会を建てると言われました。そのように兄弟姉妹が信仰を共有し、一緒に告白するための教材として2000年にわたって使われてきたのが信仰問答です。ハイデルベルク信仰問答は、宗教改革の時代の古都ハイデルベルクで生まれました。出版の理由は教会の中にあった、信仰理解を巡る混乱です。聖餐について様々な考え方がありました。ですから教会を信仰において一致させようとの意図をもって書かれたのです。一致が目的ですから、多くの人を受け入れる間口の広いスタンスになっていて、文章も穏やかなものになっています。それがよく現れているのが第一問です。 

1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。[1]

答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。

 この方はご自分の尊い血をもって わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力から わたしを解放してくださいました。

 また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。

 そうしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜び またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。 

 印象に残るのは、「ただ一つの慰めは何ですか」との問いかけに対し、「わたしが … 真実な救い主イエス・キリストのものであること」というやり取りです。このやり取りの土台はⅠコリント619-20節。今朝はこの御言葉を通して、「自分は何者なのか」を思いめぐらして頂きたいのです。 

1.    驚きの問い

<Ⅰコリント619-20節>

 19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。 20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。 

 「知らないのですか」という、驚きの言葉は、手紙の中で何度か繰り返されます。コリントの教会にはこういうことがいくつかあったのです。キリスト者なら、知っているはずの大事なことなのに、まるで知らないかのような様子が教会の中に見られる。だからパウロは言うのです。「知らないのですか」と。

 大事なことを知らない現実。もちろん教会を取り巻く環境が、人々の目を曇らせていた、ということがあると思います。直前の13-17節では「遊女」が例えとして用いられます。また6章前半で「淫らな行い」「偶像礼拝」などの罪が指摘されます。そのようにコリントの町のモラルは乱れていました。でも、それは今の世の中と何ら変わらない、人間の罪の現実でした。

  朱に交われば赤くなる。環境が悪いと、それがいつしか当たり前となり、自分が何者であるかを忘れてしまうことがあります。私たちは、「自分が何者なのか」を見失わないようにしたいと思います。それが、私たちの「命綱」だからです。

 私は以前、台湾の宣教師でした。先日、東京基督教大学で学びたいという、中国の方とオンラインでお会いしました。楽しかったです。私は思い出した。自分は中華圏で宣教師だったのだと。人は、自分が何者かに気付く時、立ち位置を思い出し、前を向いて踏み出す力が湧いてくるのだと思います。

 コリントの人々は、自分が何者であるかが見えなくなっていたのです。悪い時代に生きていると、流されて、自分が何者か見失ってしまう。それは今の時代もそうですね。だから、でしょう。パウロは目を覚まそうと訴える。「あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは代価を払って買い取られたのです」と。

 「買い取られた。」これは奴隷を売り買いする奴隷のマーケットをイメージしている言葉です。私たちは以前、奴隷だった。どんな奴隷か。「罪の奴隷」です。でも、そこから買い取って、自由にしてくださったお方がいる。買い取るには代価が必要でした。キリストの命の代価です。「命の代価」が必要なほど、罪の現状は深刻でした。だから、高価なキリストの命が必要だった。キリストは、命を捧げてもいいと、それほどに私たちを尊く思ってくださったのです。そうやって私たちは奴隷の身分を解かれ、神の子ども、今や「聖霊の宮」となったのでした。「知らないのですか。」これが今の私たちです。 

2.    「からだを買い取る」丸ごとの救い

 御言葉が語るのは、キリストの十字架による救いです。でも、注意して欲しいのは、「代価を払ってからだを買い取る」という特別な書き方です。単に「心の問題」だけではないのです。「罪の問題」だけを言っているのでもない。「からだを買い取って」存在まるごと、生きる場所を変えてくださったのです。

 ここで考えて欲しい。私たちは、「キリストの救い」を小さく考えていなかったでしょうか。それは心の問題、罪の解決の問題だけであるかのように。「からだを買い取る」キリストの救いは大きいのです。私たちの生きる場所を変えてくれる。罪の奴隷から神の子どもへ、乞食から、神の国の王子、王女へと生きる場所が変わった。思い起こされるのは放蕩息子の例えです。彼は落ちるところまで落ちて、自分が何者かを思い出し、「家に帰ろう」と一念発起、生活の場所を父の恵みで移すことができました。

 このように私たちの人生を丸ごと買い取って、生きる場所を変えてくださるのがキリストです。そこでは命の代価が支払われました。だから私たちは、その尊い犠牲に対し、私たちの人生丸ごとで応えていく。それが20節です。「ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」神は、大変な痛みと犠牲を払いました。そして、私たちは神の子どもになった。人は、自分が何者かを知るとき、新しい生き方へと踏み出していくのです。 

3.    HC1

 ハイデルベルクの1番が、「唯一の慰めは何ですか」と問いかけるのに対して、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのもの」と答えているのは、今日の御言葉への応答です。

 今は、自分の好みや考え方を大事にしよう、という時代ですので、「わたしがわたし自身のものではない」とハイデルベルクに言われると、不自由さを感じる方もあるかもしれません。でも、思い返して欲しい。キリストのものとされる前の自分は、果たして自由だったでしょうか。私たちは罪の奴隷だったのです。そして放蕩息子がブタを飼いながら「ここは自分のいる場所ではない」と感じたように、「居場所のなさ」を感じていたかもしれません。

 自分の人生は自分のもの、と思っても、私たちは現実、自分の思い通りには生きられない。本当の自由は、キリストのものとされ、神のために生きることの中にあるのです。

ブラック企業という言葉が何年も前から使用されるようになりました。雇い主がブラックだと、私たちはどんなに努力しても自由を味わえません。でも、雇い主が愛と配慮に富むお方ならどうでしょう。私たちの生活は一変します。私たちは「キリストのもの」。この方は、「あなたがたを休ませてあげよう」と言われるお方。キリストのものとされた私たちは、自分の人生を自分で背負わなくても良い。この自由と喜びを、ハイデルベルクは「慰め」と呼んでいるのです。

1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。 

4.    贖宥状(免罪符)が売れる「不確かな時代」に必要な「慰め」(希望、勇気、確かさ)

  「慰め」とは、情緒的な響きのある言葉ですね。それでハイデルベルクは長い間多くの人々に愛されてきました。でも、この慰めという言葉、ドイツ語ではTrost(トウロスト)と言って、もっと前向きで力強い言葉です。希望とも、勇気とも訳すことができて、そこにある核心は「確かさ」です。なぜなら、ハイデルベルクの書かれた時代の空気が、まことに「不確か」なものであったからでした。

 それは宗教改革の時代。免罪符として知られる「贖宥状」が売られた時代です。今、ローマのバチカンにあるサン・ピエトロ大聖堂の大改修のために贖宥状が売られました。たくさん売れたんです。裏を返せば、売れる現実があったのです。当時のヨーロッパは皆が教会に所属している時代。でも、救いの確かさを確信する人はいなかったのです。その時代に向けてハイデルベルクは語ったのです。ここに確かな、揺るがぬ慰めがあるのだと。

 何とも言えない不確かさは、今の時代の特徴でもありますね。皆さんも感じておられるでしょう。いつコロナ禍のトンネルを抜けることができるだろうと。でも、誤解をしないようにしたいと思います。私も早くコロナが終息してほしいと願っています。でも私たちは、コロナが終息すれば「確かさ」を取り戻して、皆、幸せになれるのでしょうか。そうではない、と私は思います。今、ここに確かな慰め、希望がある。だから自分が何者であるかを思い出して欲しい。私たちは「キリストのもの」とされている。私たちは守られている。キリストの両手が私たちの存在を丸ごと包んでいるのです。

 ハイデルベルクが告白するのは、人生丸ごとを包む希望であり、慰めです。「生きるにも死ぬにも」とあるように、生きている時はもちろん、人生が終わりを迎える間際まで決して揺るがない「慰め」。「からだも魂も」とありますから、心の問題だけではない。人生を丸ごと包み込む、確かな慰めがここにあるのです。 

5.    「生きるにも死ぬにも」 死の間際まで包み続ける慰め

 いつの時代にも、より良い人生を生きるためにどうしたらよいか。いわゆる「自己啓発本」というものがあります。最近売れている本をインターネットで見ました。タイトルはこんな感じ。「うまくいっている人の考え方」「自分を大切にする本」「超雑談力 人づきあいがラクになる」「結果を出し続ける人が朝やること」等々。キリがないのですが、タイトルはどれも興味深いです。中には本当に役に立つ本もあるでしょう。でも、これらの本が、死ぬ間際まで助けになるとは思わない。生きている時はおろか、死の間際まで、人生を丸ごと包むお方は、キリスト以外にはいないのです。 

私たちの握る慰めは、丸ごとの慰めです。ハイデルベルク1番の後半を読むと分かりますが、キリストのものとされた慰めは、私たちの人生の過去も今も、そして将来も包んでいく、確かな慰めです。しかも父・子・聖霊の神が総動員で私たちのために休まず働いている。 

結び:牧会の実践「あなたはキリストのものです!」

キリスト教会のある教派では、教会員が息を引き取る看取りの際、ハイデルベルクの1番を読む伝統があります。牧師は枕もとに立って読むのです。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」「わたしは、真実な救い主イエス・キリストのもの」。だから安心して地上の人生を終えていいのだと。「あなたはキリストのものです」と言って励ます。これこそが生きるにも死ぬにも、死の間際まで私たちを支える、揺るがない慰めなのです。

私が前回説教した折り、千恵子先生の父である川村牧師の証しをしました。父は、五十年以上牧師として汗を流した人です。その途上には、もちろん良い時もありましたが、病や弱さを背負った、揺らぎの時期もありました。それでも死の間際まで守られて、私も葬儀の説教の最後にハイデルベルクを読みました。そんな思いを重ねながら、今日も心の底から語りたいのです

 「わたしは、真実な救い主イエス・キリストのもの」。この慰めは、死の間際まで私たちを支えます。私たち一人一人が、「自分は何者なのか」を共に確認したいと思います。私たちがキリストのものである。これにまさる確かな慰めはないのです。お祈りしましょう。

天の父よ、感謝します。尊い命の犠牲を払って、あなたは私たちを「キリストのもの」、神の子どもにしてくださいました。自分が誰の子どもであるかを忘れることなく、この世の誘惑や戦いに勝利し、輝いて生きていくことができますように。救い主キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン!


[1] 吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』新教出版、2018年より。以下の引用はすべて吉田訳から。


コメント

このブログの人気の投稿

いのちがけで逃げなさい(創世記19:1~38)

「いのちがけで逃げなさい!」 創世記 19 章 長い聖書朗読になりました。前半のソドムが滅ぼされるところと、後半のロトと娘たちの近親相姦の記事を分けて扱おうとも思いましたが、「いのち」と「滅び」について、神さまの御思いと、人間の思いの落差というカテゴリーでくくれると思い、一気に読むことにしました。 ソドムの町には、み使い二人だけで来たようです。アブラハムが天幕を張っていたヘブロンからソドムまでは、約60キロ。アブラハムのところには、「日の暑いころ」(18:1)に訪れていますから、その後ゆっくりアブラハムのおもてなしを受けたとしたら、夕暮れにソドムに着いたというのはあり得ないのですが、そこはみ使いですから、超自然現象だと理解したいと思います。 み使いたちが到着すると、ロトがソドムの門のところに座っていました。当時は、長老格の人たちが、町の広場や門のところに座り、民を裁いていたと言います。また後に、ソドムの人が、ロトを批判して「こいつはよそ者のくせに、さばきをするのか!」と批判していますので、ロトは、ソドムの町でも知恵と人格において一目おかれていたことをうかがい知ることができます。 またロトは、アブラハムといっしょにいたころの「神の民」として生き方や文化、習慣みたいなものも残っていました。そしてもちろん、堕落したソドムにあっても、創造主なる唯一の神を信じていました。旅人を見ると、アブラハムと同様、立ち上がって彼らを迎え、丁寧にお辞儀をして、「ご主人がた、どうか、このしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊りください。」と申し出ています。み使いたちが、ソドムを訪れた目的は、神さまのもとに届いた、虐げられている者たちの叫びが本当かどうか見極めるということでしたから、「いや、私たちは広場に泊まろう」と答えたのですが、この町の治安の悪さを知っているからでしょうか、ロトは、「そんなこと言わないでぜひ!」としきりに勧めたので、み使いたちも折れて、ロトの家に泊まることにしました。 しかしその夜、事件は起こりました。ロトの家の周りに、町中の男たちが、若い者から年寄りまで集まって来きたのです。そしてロトの家を取り囲んで叫びます。「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。彼らをよく知りたいのだ!」この「知りたい」というのは、何も「お名前は?」「趣...

サラの死と埋葬(創世記23:1~20)

「サラの死と埋葬」 創世記12章1~20節   サラが天に召されました。127歳でした。今の私たちの感覚からすると非常に長寿ですが、アブラハムが召されたのは175歳ですから、それを思うと、当時としてはそれほど長寿だとも言えないかもしれません。聖書にはたくさんの女性が登場しますが、亡くなったときの年齢が記されているのは、なんとサラだけだそうです。このことからも、アブラハムだけでなく、サラも聖書の救いの歴史の中で重要な役割を果たしていたことがわかりますね。 サラの生涯は幸せだったでしょうか。いろんなことがありました。夫が神さまから呼ばれたことによって、住み慣れた土地を離れなければなりませんでした。たいていの女性は定住志向ですから、寄留者として生きなければならないことは、サラにとってはつらいことだったことでしょう。時には、いのちの危険があるようなところに寄留することもありました。そんなときには、決まって夫アブラハムは、自分のことを兄だと言ってくれと頼むものですから、彼女は2回もその土地の王に召し抱えられる危機に遭いました。それは、サラの美しさのゆえでした。最近はルッキズムと言って、容姿が美しいことが幸せの条件のように思われています。確かに美しいことで得をすることもあるかもしれませんが、美しさゆえの悩みもあるようです。美しさゆえの誘惑があり、落とし穴があるからです。 けれども、サラの生前の一番の悩みは、やはり子どもがいないことでした。一時は自分で子を産むことをあきらめて、女奴隷ハガルを夫に与えて、彼女によって子をもうけようとしました。けれども、実際に身ごもったハガルを見るのは耐えがたく、ハガルに辛く当たり、彼女が逃げ出すぐらいひどくいじめたのでした。そんな事件があった後、不思議な3人の旅人が来て、「来年の今ごろ、サラに男の子を産む」と告げました。その時サラは、天幕の陰に隠れて、思わず心の中で笑ったのです。ところが神はご真実で、サラは本当に身ごもり、一年後には子どもが与えられました。その時サラは、すでに90歳。しかし、子どもが与えられた喜びに浸る日々もつかの間、今度は女奴隷ハガルの子イシュマエルが邪魔になります。そして、イサクの乳離れの祝いの席で、イシュマエルがイサクをからかったことを機に、夫にイシュマエルを追い出すようにと攻め寄り、とうとう二人を家か...

約束の子の誕生(創世記21:1~21)

「約束の子の誕生」 創世記 21 章1~21 21章の1節から8節までは、喜びと笑いに満ちています。とうとう、アブラハムとサラとの間に子どもが生まれたからです。この子の誕生は、まさに神さまによる奇跡でした。聖書はそのことを強調しています。1節「主は約束したとおりに」、「主は告げたとおりに」、2節「神がアブラハムに告げたその時期に」。また、それが神の御力の表れであることを示すために、神さまが「来年の今ごろ」と告げたまさにその時期に生まれたこと。また、その時アブラハムは100歳だったこと(サラも90歳だったこと、)。そして、生まれた子が、主が告げたとおりに、男の子だったことを語っています。 そしてもう一つ。聖書は、このイサクの誕生は、アブラハムのためだけではない、サラのためであったことも示しています。1節では「(主は)サラのために行われた」、6節では、「神は私(サラ)に笑いをくださいました」とあるように、神さまは、サラを覚え、顧みてくださったのです。 生まれてきた子は、イサクと名付けられました。「彼は笑う」という意味です。日本で、この「笑う」という字を使ってイサクと読ませる名前を持っている男の子はいるか調べてみました。ありました!笑いを作ると書いて、「笑作(いさく)」と読ませています。 「笑い」とは言ってもいろんな種類の笑いがあります。17章ではアブラハムが笑い、18章ではサラが笑っています。どちらも不信仰から来る笑いでした。神さまが、アブラハムとサラの間に子どもを授けると約束しているのに、そんなことあるはずがない…と言って彼らは笑ったのです。けれども今回の笑いは、喜びと賛美の笑いでした! よくクリスチャンは、3 K (固い、厳しい、暗い)と言われますが、私たちクリスチャンこそ、この喜びの笑いがふさわしいのではないかと思います。私たちの教会の役員会は、よく笑います。がはは、がははと笑いながら、1時間半ぐらいが、あっという間に過ぎていきます。神さまはご真実なお方で、私たちの教会の必要をご存じで、よい計画を持っておられる、それを信じているから笑いが絶えないのだと思います。アブラハムは祝福の基と言われましたが、笑いの基でもありました。私たちクリスチャンも、家族に笑いを届け、学校や職場に笑いを届けるものでありたいですし、私たちの教会も、地域に笑いと希望を届け...