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心配いりません(ピリピ人への手紙4:6〜7)

説教題:心配いりません。

[ピリピ人への手紙 4:6,7]

本文をお読みします。

6何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

7そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。 

私の母教会は韓国アッセンブリーオブゴットのペンテコステのヨイド純福音教会です。過去日本の石川県と滋賀県で留学したことをきっかけに帰国後母教会で日本語の通訳や日本語礼拝部という日本語で礼拝を捧げる部署で奉仕をしてきました。召しを受けて日本の神学校を探している中、宣教師先生のお薦めで2020年、3年次編入でTCUに留学するようになります。しかし、留学準備をする中、突然広がり始めたコロナウイルスは日本の国境を閉鎖し、入国できないままオンラインで授業を始めるようになりました。コロナ感染の恐れの中で外出も控えて生活する我慢の日々でした。幸いなことにその年の10月にほんの僅かな間日本入国が許されて急いで日本に入国することができるようになりました。 

 超教派の学生たちが集まり、お互い励まし合い、学び合うことによって、将来日本宣教のための訓練ができると期待しましたが、画面越しの先生と仲間には授業中にしか会えない日々が長く続きました。今まで感じたことの無い孤独で心が痛かったのは私だけではなかったでしょう。家族が来ることを想定して家族寮に入居したのに一人でいる事によって、時には何もできない無力感も感じました。しかし、神様は私をただ苦しめる方ではありませんでした。神様の御心を求める中で、心の平安が徐々に与えられるようになりました。今まで経験したことのない孤独、自由があるのに見えない壁に閉じ込められているような感情は、今日を生きる多くの神様が必要な人々が日々感じている感情と似通ったものではないでしょうか。

コロナ禍の中で何もかも制限されている中、とても感謝したことは、実習生として新船橋キリスト教会の働きに共に参加することができることでした。フードパントリ、フードシェア、ハレルヤタイムなどの活動に参加しながら、神様の働きを感じました。イエス様はカナの婚礼で水を葡萄酒に変えられたみわざを初め、さまざまなみわざをなされました。五つのパンと二匹の魚で多くの人々を腹一杯に食べさせ、時にはさまざまな体と心の病を癒されました。ヨハネの手紙 第三 1:2です。愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。私が直接参加してない、名前も覚えきれないほど多くの活動をされている千恵子先生とこの新船橋キリスト教会の働きがこのヨハネの手紙第31章2節のような働きであり、今日の教会が大事にしなければならないこれからの在り方だと、この1年間の教会実習を通して感じたところです。これからの働きの中で苦しむ者がいれば、キリスト者として助けの手を伸ばし、共に泣き、共に笑う働きを教職者として目指そうと思うようになりました。

 今日の本文に戻りますと、ピリピ人への手紙でパウロは「喜びなさい」もしくは「喜び」という単語を17回も使っています。ピリピ人への手紙が書かれたのが、パウロがローマの牢屋に閉じ込められているときであることは、この2−3年間苦難の時期を通っている私たちの状況にも当てはめることができるでしょう。しかし、パウロは牢屋にいるにも関わらず、むしろ外で心配しているピリピ人達を慰め、励ましていました。

6節をもう一度お読みします。『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。』思い煩いはギリシャ語訳で神様の助けと導きに対する疑いであり、信頼の欠乏を意味します。このような思い煩いは世に目を向ける時生じるものであり、私たち信仰者にはこの世で生活しているものの、この世に染まってはいけないことがあるのです。従って、信仰者は主にあって心配、憂い、世に対する必要以上の関心を持たない努力が必要です。そのためには何が必要でしょうか。パウロは思い煩わないためには「感謝を持ってささげる祈りと願い」が必要だと述べました。ここで祈り」は神様に対する一般的な対話のことであります。また、「願い」は一定の要求条件をあげて神様に求める事を意味します。神様との日常会話的な祈りと、子供が親に必要な物を求める権利があるように、必要を求める祈りができる私たち信仰者は思い煩う必要すらないのです。

 7節です。『そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』すべての理解を超えた神の平安はどのようなものでしょうか。神の平安を人が理解することができるでしょうか。いいえ、それは人間自らの力では経験すらできない、全き神様の恵みの結果として与えられる神様の賜物であります。この世の平和は一時的な平和です。見た目が平和に見えても裏では銃声のない戦いが繰り広げられているのがこの世の有様です。しかし神の平安はこの世からではなく神から流れ出て私たちに自然に染み込む、内なる平和であります。神からの平安は思い煩いに対する最高のワックチンであり、喜びであるのです。その平安が私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれるのです。ここで、『心』はギリシャ語訳で、意志や感情、知覚を意味し、『思い』は判断や知恵を意味します。『守ってくれます』は「護衛する」という意味です。キリストにあって神を信頼し、委ねるものには神からの平安が与えられ、この世の思い煩いから守ってくださるという意味であると考えられます。

 みなさんは思い煩いがありますか?私たちは弱い人間なので心配は付き物です。何を食べるか、何を飲むか、何を着るかという人間的な心配続くものです。しかし、その時こそ感謝を持って祈りと願いを神に捧げるべきではないでしょうか。キリスト者には心配いりません。

説教者:那須孔明実習生

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