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捜し求める神(ルカの福音書15:1~7)小池宏明師

「捜し求める神」            

ルカの福音書151-7

主イエスが語られた「いなくなった羊」のたとえと、直後の「失くした銀貨」のたとえ(8-10節)は、私たちの主なる神様がどのようなお方なのか、強調して伝えている。

1,熱心に、一生懸命、注意深く捜す神

神様をたとえている羊飼いは、100匹持っているから「一匹いなくなっても仕方ないや」と言うことはない。また神様をたとえている女の人は、ドラクマ銀貨一枚「やがて見つかるだろう」と放って置くことはない。熱心に捜し続ける主なる神様の姿が強調されている。実は、たとえに出て来る羊は、あまり賢い動物ではない。羊飼いに守られていないと、狼など獣に襲われて生き延びることができないのだ。また羊は迷子になり易い生き物だ。愚かな失敗を繰り返して道に迷う私たち人間のようである。また、ドラクマ銀貨一枚は一日働いた賃金に当たる。貧しい女性にとっては、とても大事な銀貨だ。パレスチナ地方における当時の家は、窓が無いか、とても小さな窓があるだけで、日中でも、念入りに捜すには、燭台の明かりが必要だ。銀貨は、どこかに転がっているだけで、持ち主が必死に捜していることに、気付くはずもないし、気付けない。私たち人間も、自ら気付いていなくても、主なる神様が私を捜し続けておられるのだ。

2,見つけたら、教会と共に大喜びする神

神様は、捜し求めて、見つけるまで捜して、必ず見つけ出して、大喜びする、そんなお方なのだ。そして、一人が救い出されたならば、天の御国においても、教会においても、共に喜びを分かち合いたいと願っておられるのである。私たち一人の罪人が、悔い改めて(方向転換して)主の元に立ち返るために、主は熱心に働きかけておられる。私たちが悔い改めに導かれることも主の御業なのだ。

私たちは、家族や友人にキリストの福音を証しするために執り成し祈り、主と共に大いに喜ぶ人生にありたい。

7/3 小池 宏明 牧師 (古河教会)


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