スキップしてメイン コンテンツに移動

それが彼の義と認められた(創世記15:1〜6)

本文:創世記15:1−6 

今日の説教題はそれが彼の義と認められた」です。創世記15章は“これらの出来事の後。。。”から始まります。今日の本文を理解するためにはこの前の文脈に注目する必要があります。本文を遡ってみると、“これらの出来事”は創世記12章から14章の中で起きた出来事です。12章で神様はアブラムに生まれ故郷、父の家を出て、神様が示す地へ行くと神様はアブラムを大いなる国民とするという大きな約束をされます。“わたしが示す地に行きなさい”という命令に従って旅立ちますが、その道が順調なわけではありませんでした。エジプトでは自分の妻を妹と嘘をつくほど身の危険を感じる経験をします。13章で無事にエジプトを出たアブラムはベテルまできました。しかし、彼らの持ち物は多すぎてアブラムとロトの間に争いが起こり、ロトはよく潤っていたソドムとゴモラの地を選びます。跡継ぎとして考えていた甥ロトと別れた直後、神様は創世記13章14から17節で大いなる子孫が与えられることを再び約束されます。14章に入るとロトは王たちの戦いに巻き込まれおいロトは全財産を奪われとりこになってしまいます。自分から離れてしまったロトであったが、愛するロトを救うために僕ども318人を招集して敵を打ち破り、全ての財産を取り戻すようになります。

今日の本文15章に戻ります。1節です。これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。 「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」アブラムは神様の命令に従って生まれ故郷、父の家を出て神様が示す地に向かって旅立ちました。数え切れないほどの多くの子孫と見渡している全ての地を与えるという神様からの約束を得ているのに妻を奪われる危機にあったり、愛する甥ロトと別れる悲しみもありました。大きい心の支えだったロトと別れて悲しむことも束の間、事件は続いて、ロトは拉致され、アブラムは命賭けでロトを救出します。国と国の争いの中でロトを救出しようとするのにわずか318人の僕らと戦いに向かったアブラムの心境はどのようなものだったでしょうか。死を覚悟して挑んだ戦いであることは間違いありません。また、戦いには勝利し、神の祝福を受けたアブラムでしたが、熾烈な戦いの後の疲れが残っていたかもしれません。神様はこの状態のアブラムに幻の中で仰せられます。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。」戦争の後、体と心の疲労が残っていたかもしれないアブラムにどんな危機からも、どんな状況からも神様が盾となりアブラムを保護してくださることを約束する場面です。「あなたへの報いは非常に大きい。」アブラムは以前の戦争で糸一本、履き物のひも一本さえも取らなかったです。その中で神様からの大きな祝福の報いを約束されたのです。

 2節と3節ではこの神様の言葉を聞いたアブラムの反応です。お読みします。2  アブラムは言った。「、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」 3  さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」創世記12章から神様は数回アブラムに現れ、仰せられましたが、ここ15章2節から3節で初めてアブラムが神様の言葉に答える場面が出ます。アブラムの答えは夢と希望を失った人の答えそのものでした。アブラムは神様から与えられた約束を信じてカナンまできました。普通の75歳の老人らしくなく、自分の生まれ故郷、父の家を離れた未来志向的な老人でした。持ち物だけを考えればアブラムは成功した人です。創世記13章5節を見るとアブラムは所有するものがあまりにも多すぎてロトと一緒に住むことができないほど裕福で、彼の元で訓練を受けた軍人とも言える僕が318人もあったのです。女性や子供、一般男性を含めると相当の人数であったことは間違いありません。しかし、アブラムを大いなる国民とするという神様の約束に対しては深い挫折感を感じるところでした。2節では「私は子がないままで」、3節では「あなたが子孫を私に下さらなかったので」と日本語で読んでもとても不満げに聞こえます。「私は子がないままで」をヘブライ語で見てみるとהוֹלֵ֣ךְ וְאָנֹכִ֖י עֲרִירִ֑יべアノキ・ホレック・アリリで、ここで子がないという意味で使われた言葉アリリは、聖書の中で神様の戒めによって子がないという意味と裸である状態を意味します。アブラムにとって子孫がいないことは神様の戒めによるものであることとともに、自分は裸でこの世を生きるような恥を感じていたことを表すもので、率直なアブラムの心を表している所です。3節の“御覧ください”はヘブライ語では感動詞として2回繰り返して使われていまして、その言葉から感じられるのはアブラムが感情的になっているということです。“神様が私の盾であり、私に大きい報いが与えられても、御覧ください!跡継ぎもいない私に何の意味がありますか?御覧ください!神様が私に何を与えてくださっても私の全てのものは、家のしもべであるマスコのエリエゼルのものになるだけです。アブラムの跡継ぎに対して焦っている心境が感じられるところです。

 4節です。“4  すると見よ、主のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」”起きている多くの事柄に対して、人間は理性的な判断をします。現実的な状況だけを見て、結果を判断するのが私たち人間の反応であります。しかし、諦めかけていたアブラムに神様ははっきりと仰せられます。その者があなたの跡を継いではならない!エリエゼルはあなたの跡継ぎでなない!と宣言します。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない! ここで用いられた「あなた自身」というのは、ヘブライ語ではמֵעֶהメエといい、内臓を意味します。生物学的にアブラムを通して子供が生まれることを神様がもう一度言葉で明確に示されたのです。

 続いて5節です。5  そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」神様はアブラムに天の空を見上げさせ、星を数えさせます。原文のニュアンスをくみ取るならばひとつひとつ逃す事なく「よく注目して見なさい」という意味であります。また、「数えられるなら数えなさい」とアブラムに人間としての限界を認識させるところであります。

綺麗な夜空の無数の星をもし数えようとしたら、数え間違って何回も数え直し続けていたでしょう。その時神様はさらに仰せられます。「あなたの子孫は、このようになる。」この言葉を聞いた瞬間、アブラムは以前の戦争の疲れや愛していた甥ロトとの別れの悲しみ、妻を奪われそうだった辛い過去から解放され、数えきれなかった空の星がアブラムに与えられる本物の子孫と見えるようになりました。神様のお約束は人間の限界と能力をはるかに超えるものであることを認識したでしょう。

 6節です。「6  アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」ここでキリスト教信仰で最も重要な用語であるアーメンがヘブライ語で初めて登場します。「アーメン」は彼が主を信頼したという意味であります。ここでアブラムが信じたということは、彼の子孫が数えきれない星のようになることではなく、このように多くの子孫を与えてくださる「神様」ご自身を信頼したという意味です。アブラムの信仰そのものは神様がアブラムにカナンの地に行きなさいと命令されたときからあったものでした。しかし、6節で見られるアブラムはただ神様を信じる信仰で終わるのではなく、何の疑いもなく信頼し、完全に委ねる信仰を持つようになったことを意味します。このようなアブラムの信仰を見て神様はそれを彼の義と認められました。ここで“義”は裁判で無罪判決が言い渡された意味を持っています。神様と人間との関係の間、何の障害物もなく清められた、正しい関係を持つようになった事を意味します。

アブラムは立派な信仰の持ち主でした。その信仰を持って生まれ故郷を離れ約束されたカナンの地まで来ましたが、アブラムの旅路での出来事は彼の心を揺さぶり、人間的な方法を考えてしまう弱さもありました。神様の約束を信じる信仰は持っていましたが、人間的な考え、疑いは神様とアブラムの間の障害物でありました。

しかし、何の疑いもなく信頼し、完全に神様に委ねる信仰を持つ瞬間、神様とアブラムの間の障害物はなくなり、神様が願われる真の正しい関係になることができたのであります。また。彼の信仰はさまざまな過程を通して成長したのには違いありません。

信仰を持っているといいながも、絶えずつまずいたり、疑ったり、心弱くなる私って大丈夫なのかと思う時が時々あります。しかし、アブラムの信仰の成長を通して遂に神様に義と認められるのを見て信仰生活に希望を抱くところであります。ローマ人への手紙4章23節から24節では、『しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。』そうです。アブラムだけが義と認められるのではなく、今日を生きる私たちもイエスキリストの復活を信じることによって義と認められることができるのは大きい恵みではないでしょうか。信仰生活の中、苦しいことがあっても大変なことがあっても、弱い私を強くしてくださる神様を信じ、神様と私の間の障害物が取り除かれることを願いましょう。それと共に、イエスキリストの復活を信じることによって義と認めてくださる恵みに感謝する信仰生活を歩もうではありませんか。

元 鍾碩 実習生

コメント

このブログの人気の投稿

いのちがけで逃げなさい(創世記19:1~38)

「いのちがけで逃げなさい!」 創世記 19 章 長い聖書朗読になりました。前半のソドムが滅ぼされるところと、後半のロトと娘たちの近親相姦の記事を分けて扱おうとも思いましたが、「いのち」と「滅び」について、神さまの御思いと、人間の思いの落差というカテゴリーでくくれると思い、一気に読むことにしました。 ソドムの町には、み使い二人だけで来たようです。アブラハムが天幕を張っていたヘブロンからソドムまでは、約60キロ。アブラハムのところには、「日の暑いころ」(18:1)に訪れていますから、その後ゆっくりアブラハムのおもてなしを受けたとしたら、夕暮れにソドムに着いたというのはあり得ないのですが、そこはみ使いですから、超自然現象だと理解したいと思います。 み使いたちが到着すると、ロトがソドムの門のところに座っていました。当時は、長老格の人たちが、町の広場や門のところに座り、民を裁いていたと言います。また後に、ソドムの人が、ロトを批判して「こいつはよそ者のくせに、さばきをするのか!」と批判していますので、ロトは、ソドムの町でも知恵と人格において一目おかれていたことをうかがい知ることができます。 またロトは、アブラハムといっしょにいたころの「神の民」として生き方や文化、習慣みたいなものも残っていました。そしてもちろん、堕落したソドムにあっても、創造主なる唯一の神を信じていました。旅人を見ると、アブラハムと同様、立ち上がって彼らを迎え、丁寧にお辞儀をして、「ご主人がた、どうか、このしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊りください。」と申し出ています。み使いたちが、ソドムを訪れた目的は、神さまのもとに届いた、虐げられている者たちの叫びが本当かどうか見極めるということでしたから、「いや、私たちは広場に泊まろう」と答えたのですが、この町の治安の悪さを知っているからでしょうか、ロトは、「そんなこと言わないでぜひ!」としきりに勧めたので、み使いたちも折れて、ロトの家に泊まることにしました。 しかしその夜、事件は起こりました。ロトの家の周りに、町中の男たちが、若い者から年寄りまで集まって来きたのです。そしてロトの家を取り囲んで叫びます。「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。彼らをよく知りたいのだ!」この「知りたい」というのは、何も「お名前は?」「趣...

サラの死と埋葬(創世記23:1~20)

「サラの死と埋葬」 創世記12章1~20節   サラが天に召されました。127歳でした。今の私たちの感覚からすると非常に長寿ですが、アブラハムが召されたのは175歳ですから、それを思うと、当時としてはそれほど長寿だとも言えないかもしれません。聖書にはたくさんの女性が登場しますが、亡くなったときの年齢が記されているのは、なんとサラだけだそうです。このことからも、アブラハムだけでなく、サラも聖書の救いの歴史の中で重要な役割を果たしていたことがわかりますね。 サラの生涯は幸せだったでしょうか。いろんなことがありました。夫が神さまから呼ばれたことによって、住み慣れた土地を離れなければなりませんでした。たいていの女性は定住志向ですから、寄留者として生きなければならないことは、サラにとってはつらいことだったことでしょう。時には、いのちの危険があるようなところに寄留することもありました。そんなときには、決まって夫アブラハムは、自分のことを兄だと言ってくれと頼むものですから、彼女は2回もその土地の王に召し抱えられる危機に遭いました。それは、サラの美しさのゆえでした。最近はルッキズムと言って、容姿が美しいことが幸せの条件のように思われています。確かに美しいことで得をすることもあるかもしれませんが、美しさゆえの悩みもあるようです。美しさゆえの誘惑があり、落とし穴があるからです。 けれども、サラの生前の一番の悩みは、やはり子どもがいないことでした。一時は自分で子を産むことをあきらめて、女奴隷ハガルを夫に与えて、彼女によって子をもうけようとしました。けれども、実際に身ごもったハガルを見るのは耐えがたく、ハガルに辛く当たり、彼女が逃げ出すぐらいひどくいじめたのでした。そんな事件があった後、不思議な3人の旅人が来て、「来年の今ごろ、サラに男の子を産む」と告げました。その時サラは、天幕の陰に隠れて、思わず心の中で笑ったのです。ところが神はご真実で、サラは本当に身ごもり、一年後には子どもが与えられました。その時サラは、すでに90歳。しかし、子どもが与えられた喜びに浸る日々もつかの間、今度は女奴隷ハガルの子イシュマエルが邪魔になります。そして、イサクの乳離れの祝いの席で、イシュマエルがイサクをからかったことを機に、夫にイシュマエルを追い出すようにと攻め寄り、とうとう二人を家か...

約束の子の誕生(創世記21:1~21)

「約束の子の誕生」 創世記 21 章1~21 21章の1節から8節までは、喜びと笑いに満ちています。とうとう、アブラハムとサラとの間に子どもが生まれたからです。この子の誕生は、まさに神さまによる奇跡でした。聖書はそのことを強調しています。1節「主は約束したとおりに」、「主は告げたとおりに」、2節「神がアブラハムに告げたその時期に」。また、それが神の御力の表れであることを示すために、神さまが「来年の今ごろ」と告げたまさにその時期に生まれたこと。また、その時アブラハムは100歳だったこと(サラも90歳だったこと、)。そして、生まれた子が、主が告げたとおりに、男の子だったことを語っています。 そしてもう一つ。聖書は、このイサクの誕生は、アブラハムのためだけではない、サラのためであったことも示しています。1節では「(主は)サラのために行われた」、6節では、「神は私(サラ)に笑いをくださいました」とあるように、神さまは、サラを覚え、顧みてくださったのです。 生まれてきた子は、イサクと名付けられました。「彼は笑う」という意味です。日本で、この「笑う」という字を使ってイサクと読ませる名前を持っている男の子はいるか調べてみました。ありました!笑いを作ると書いて、「笑作(いさく)」と読ませています。 「笑い」とは言ってもいろんな種類の笑いがあります。17章ではアブラハムが笑い、18章ではサラが笑っています。どちらも不信仰から来る笑いでした。神さまが、アブラハムとサラの間に子どもを授けると約束しているのに、そんなことあるはずがない…と言って彼らは笑ったのです。けれども今回の笑いは、喜びと賛美の笑いでした! よくクリスチャンは、3 K (固い、厳しい、暗い)と言われますが、私たちクリスチャンこそ、この喜びの笑いがふさわしいのではないかと思います。私たちの教会の役員会は、よく笑います。がはは、がははと笑いながら、1時間半ぐらいが、あっという間に過ぎていきます。神さまはご真実なお方で、私たちの教会の必要をご存じで、よい計画を持っておられる、それを信じているから笑いが絶えないのだと思います。アブラハムは祝福の基と言われましたが、笑いの基でもありました。私たちクリスチャンも、家族に笑いを届け、学校や職場に笑いを届けるものでありたいですし、私たちの教会も、地域に笑いと希望を届け...