スキップしてメイン コンテンツに移動

パウロ殺害の陰謀(使徒の働き23:12〜24)

「パウロ殺害の陰謀」

使徒の働き23:12~24 

あっという間のエルサレム滞在でした。神殿に異邦人を連れ込んだとの濡れ衣を着せられ、ユダヤ人による暴動が起き、ローマ軍が出頭するという騒ぎになりました。それでも、パウロにとっては「ピンチはチャンス」!いきり立つユダヤ人を前に自分がどうやって救われたのかを彼らの母語ヘブル語で証しするときとなりました。はじめは静かにパウロの言うことに耳を傾けていた人々でしたが、「私は異邦人伝道に召されている」と発言するやいなや、再び人々は暴徒化し、ローマ軍が介入しなければならなくなりました。そして、先先週の箇所では、ユダヤ人の最高法院(サンヘドリン)が招集されました。そこには復活を信じるパリサイ人と復活を信じないサドカイ人がいることを見てとったパウロは、神さまから知恵をいただいてこう発言しました。「私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」するとパリサイ人とサドカイ人による激しい論争が巻き起こり、これまた会議が成り立たなくなり、パウロは再びローマ軍に保護されたのです。その晩イエスさまがパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しなければならない」と言われたので、パウロは元気百倍!ローマに行って証しするという使命に燃えたのでした。

さて、今日の箇所では、再び大混乱が起こりかけます。先の最高法院71人の議員たちとは別の、恐らく当時熱心党員と呼ばれていたユダヤ教過激派組織の40人がパウロを殺す陰謀を企てたのです。彼らは「パウロを殺すまでは食べたり飲んだりしない」と呪いをかけて誓ったとあります。彼らは祭司長たちや長老たちのところに行って提案します。15節「あなたがたは、パウロのことをもっと詳しく調べるふりをして、彼をあなたがたのところに連れて来るように、最高法院と組んで千人隊長に願い出てください。私たちのほうでは、彼がこの近くに来る前に殺す手はずを整えています。」つまり、神殿の横にあるローマ軍が駐屯しているアントニア要塞から神殿内の一室に移動する間に、武装した40人の暗殺者が待ち構えて、一気にパウロを殺してしまおうというのです。パウロはすでにローマの保護下に入っていましたから、このままではそのままローマに移送されてしまい、自分たちの手の届かないところに行ってしまう、明日が最後のチャンスだ、これを逃したら、もう自分たちがパウロに手を下す可能性はなくなってしまう。40人の武装勢力は焦っていました。そして自らに呪いの誓いを課したのです。へブル的呪いの誓いとは何でしょうか。調べてみると、「物や個人,民に対して裁きとその結果が及ぶことを許す神の律法が適用されること」とありました。つまり、もしパウロを殺害できなかったら、律法に違反した者が負うべき裁きに自分たちが服しても構わないと言っているわけです。

脱線かもしれませんが、私はペテロのことを思い出しました。イエスさまが十字架にかかる前、大祭司の家の中庭で、最高法院の会議が開かれていました。そしてペテロは、イエスさまを案じて、外の中庭に座っていたのです。すると一人の女中が近づいて来て言いました。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」ペテロは皆の前で否定し、「何を言っているのか、私には分からない」と言いました。するともう一人の別の女中が、パウロを指さしてまわりの人たちに言うのです。「ねえねえ、この人はナザレ人イエスと一緒にいましたよね。」その時ペテロは、「そんな人は知らない」と誓って否定しました。そして3度目、そばでチラチラとペテロの様子をうかがっていた人たちが近寄って来て言いました。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」ここでペテロは、恐怖にひきつった顔で、「嘘ならのろわれてもよい」と誓い始め、「そんな人は知らない」と言いきったのです。すると、すぐに鶏が鳴きました。そこでペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出したのでした。ペテロは外に出て行って激しく泣きました。ああ、あの時ペテロは「嘘なら呪われてもよい」と誓ったのだ。しかも自分でもそれは嘘だと自覚していたわけですから確信犯です。彼は律法によって神が定められた裁きを受けなければならなかった…。彼は裁きを受けたでしょうか?いいえ、イエスさまがその裁きを受けて、神の怒りと罰、呪いをペテロに代わって受けてくださったのでした。 

さて、40人の暴徒がこの計画を立てているときに、パウロの姉妹の息子、つまりパウロの甥がそれを耳にするのです。パウロの家族、親族については聖書の中にほとんど記述がありませんので、ここは珍しい個所です。この甥っ子の年齢については議論があるのですが、恐らくまだ幼い「少年」と言ってもいい歳だったのではないかと思われます。パウロとの面会もすんなり通され、百人隊長に連れられて、千人隊長のところまで行き、19節を見ると、千人隊長は彼の「手をとって」いますので、やはり成人男性というより、少年、あるいは中学生、高校生ぐらいの青年と理解するのが妥当でしょう。

彼はパウロの姉妹であるお母さんから頼まれた差し入れか何かを持って来たのでしょうか。パウロとの面会を申し出ます。そしてすんなり通されました。彼はパウロの顔を見ると、お弁当を渡しながら耳打ちするのです。「おじちゃん、さっき聞いたんだけど、40人以上の武装勢力が明日おじちゃんを殺す計画を立ててるよ」パウロはこれを聞いてびっくり!イエスさまは昨夜、「ローマでも証しを」とおっしゃっていたので、この使命を果たすまでは守ってくださるとは思うけれど、こうして事前に甥っ子を通して知らせてくださった神さまは、この甥っ子の知らせを有効に用いて、自ら命を守るようにおっしゃっているのだろうと理解しました。そしてパウロは百人隊長を呼び、この少年を千人隊長のところに連れて行くようにお願いするのです。パウロはローマ市民ですから、もはや彼に対してローマ兵は乱暴なことはしないにしても、だれもが不思議なぐらい親切です。百人隊長はすんなりとパウロの願いを聞き届け、少年を連れて、千人隊長のところに連れて行きます。すると千人隊長もこれまた不思議なぐらい親切です。少年の手をとって、誰もいないところに連れて行って「私に知らせたいことは何だね?」と尋ねるのです。

今祈祷会ではエステル記を読んでいますが、この少年はエステルを彷彿とさせます。前王妃のワシュティが当時のペルシア王に無礼な態度をとったために王妃の座を退けられ、代わりの王妃を募集することになりました。エステルは大変美しく評判が良かったので、すぐに王妃候補となります。彼女は宮廷の離れでコンテストの前の準備をするのですが、その時からお世話係の宦官たちからも愛され、好待遇を受けます。そして王さまもエステルを見るなり気に入り、彼女を王妃に選ぶのでした。3年後にはユダヤ人に敵対する勢力が王の権力を利用し、ユダヤ人絶滅の勅令を出させるのですが、この時もエステルが王の前に出ると、王は許しの金の笏を伸ばし、その願いを聞きます。

エステルやこのパウロの甥のように、誰からも愛され、好意を持って受け入れられる人がいます。「愛されキャラ」と言うのでしょうか。それは神さまが、何らかの使命を与えてそのような賜物をくださっているのです。自分の賜物を自覚することは良いことです。高慢ではありません。皆さんの賜物は何でしょうか。賜物と使命は結びついています。「主よ、この賜物をもってあなたは何をなさろうとしておられるのですか?」ぜひそう祈ってみてください。 

さて、千人隊長は少年に「このことを私に知らせたことは誰にも言うな」と命じて、家に帰しました。それは、もちろん少年を守るためでもありましたが、ローマ軍がユダヤ人たちの陰謀を知らないことにしておきたかったからでしょう。翌日祭司長たちが、もう一度最高法院を開かせてくださいと言いに来たら、「えっ?ごめん、もうパウロはここにいないよ。昨夜のうちにカイザイアに護送しちゃった!」と言えば、ユダヤ人のローマ軍への反発を買うこともないからです。ローマ軍としては自分たちの所轄地でごたごたが起こるのが一番避けたいことだったので、知らないことにしたかったということです。けれども事態を重く受けとめた千人隊長は、念には念を入れて、歩兵200人、騎兵70人、槍兵200人を護衛に付けたのです。しかも、パウロの乗る馬まで用意させました。考えてみると神殿で殴る蹴るの暴行にあったパウロの傷はまだ癒えていなかったでしょう。歩いて行かせるわけにはいきませんでした。こうしてパウロは、王さまのような護衛がついて移送され、難を逃れたのです。

使徒の働きの中に、パウロの逃走劇はいくつも出てきます。パウロは回心してすぐダマスコで伝道するのですが、そこで迫害に遭い、彼は城壁の壁伝いにつり降ろされて難を逃れます。また、牢獄に収監されているときに、大地震が起こって牢の扉が全部開いてしまい、パウロはそこから逃げることができました。また迫害者たちがパウロを石打の刑にしたときも、彼が死んだかと思って、からだを石の山から引っ張り出して、弟子たちが彼を取り囲んでいると、パウロはすくっと立ち上がって、すたすたと人々の間をすり抜けて出て行ったということもありました。神が御使いを送ってパウロに覆いかぶさって守ったのかもしれません。

私たちは信仰生活を長くしていると、不思議な脱出劇を経験することがあります。この中にも九死に一生を得るという体験を持つ人も少なくないでしょう。あとちょっと発見が遅れたら、手遅れになっていたかもしれない。あの時のあの決断で命拾いした。あと一瞬遅く家を出ていたらあの事故に巻き込まれていたかも。私たちが知らないだけで、私たちのいのちは神さまによって守られています。私たちが知らないだけで、神さまから送られた天使たちが先回りして私たちを守っているのです。

先日も祈祷会で父の証しをしました。父はネフローゼが悪化して腎不全になり、障がい者手帳を交付され、人工透析を10回も受けました。ところが母の熱心な祈りを主は聞き届け、転院に導かれて、そこでの治療が功を奏して完治したことがありました。父にはまだ神さまから託された使命があったので生かされたのです。神さまは、「お疲れさま、もういいよ。私のもときて休みなさい」と言われるまでは、私たちを守り、癒し、脱出の道を備えてくださるのです。人の悪意、策略、罪を越えて、パウロのいのちを守り、ローマで証しするという使命を与えた主は、私たちにもそれぞれ使命を与えてくださっています。生かされているとはそういうことです。詩編4編3節「知れ。【主】はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき【主】は聞いてくださる。」神さまにとって私たちはVIPです。神の子どもだからです。神はどんなに私たちを愛してくださっているか、私たちはそれをもっと知る必要があります。祈りましょう。


コメント

このブログの人気の投稿

いのちがけで逃げなさい(創世記19:1~38)

「いのちがけで逃げなさい!」 創世記 19 章 長い聖書朗読になりました。前半のソドムが滅ぼされるところと、後半のロトと娘たちの近親相姦の記事を分けて扱おうとも思いましたが、「いのち」と「滅び」について、神さまの御思いと、人間の思いの落差というカテゴリーでくくれると思い、一気に読むことにしました。 ソドムの町には、み使い二人だけで来たようです。アブラハムが天幕を張っていたヘブロンからソドムまでは、約60キロ。アブラハムのところには、「日の暑いころ」(18:1)に訪れていますから、その後ゆっくりアブラハムのおもてなしを受けたとしたら、夕暮れにソドムに着いたというのはあり得ないのですが、そこはみ使いですから、超自然現象だと理解したいと思います。 み使いたちが到着すると、ロトがソドムの門のところに座っていました。当時は、長老格の人たちが、町の広場や門のところに座り、民を裁いていたと言います。また後に、ソドムの人が、ロトを批判して「こいつはよそ者のくせに、さばきをするのか!」と批判していますので、ロトは、ソドムの町でも知恵と人格において一目おかれていたことをうかがい知ることができます。 またロトは、アブラハムといっしょにいたころの「神の民」として生き方や文化、習慣みたいなものも残っていました。そしてもちろん、堕落したソドムにあっても、創造主なる唯一の神を信じていました。旅人を見ると、アブラハムと同様、立ち上がって彼らを迎え、丁寧にお辞儀をして、「ご主人がた、どうか、このしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊りください。」と申し出ています。み使いたちが、ソドムを訪れた目的は、神さまのもとに届いた、虐げられている者たちの叫びが本当かどうか見極めるということでしたから、「いや、私たちは広場に泊まろう」と答えたのですが、この町の治安の悪さを知っているからでしょうか、ロトは、「そんなこと言わないでぜひ!」としきりに勧めたので、み使いたちも折れて、ロトの家に泊まることにしました。 しかしその夜、事件は起こりました。ロトの家の周りに、町中の男たちが、若い者から年寄りまで集まって来きたのです。そしてロトの家を取り囲んで叫びます。「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。彼らをよく知りたいのだ!」この「知りたい」というのは、何も「お名前は?」「趣...

サラの死と埋葬(創世記23:1~20)

「サラの死と埋葬」 創世記12章1~20節   サラが天に召されました。127歳でした。今の私たちの感覚からすると非常に長寿ですが、アブラハムが召されたのは175歳ですから、それを思うと、当時としてはそれほど長寿だとも言えないかもしれません。聖書にはたくさんの女性が登場しますが、亡くなったときの年齢が記されているのは、なんとサラだけだそうです。このことからも、アブラハムだけでなく、サラも聖書の救いの歴史の中で重要な役割を果たしていたことがわかりますね。 サラの生涯は幸せだったでしょうか。いろんなことがありました。夫が神さまから呼ばれたことによって、住み慣れた土地を離れなければなりませんでした。たいていの女性は定住志向ですから、寄留者として生きなければならないことは、サラにとってはつらいことだったことでしょう。時には、いのちの危険があるようなところに寄留することもありました。そんなときには、決まって夫アブラハムは、自分のことを兄だと言ってくれと頼むものですから、彼女は2回もその土地の王に召し抱えられる危機に遭いました。それは、サラの美しさのゆえでした。最近はルッキズムと言って、容姿が美しいことが幸せの条件のように思われています。確かに美しいことで得をすることもあるかもしれませんが、美しさゆえの悩みもあるようです。美しさゆえの誘惑があり、落とし穴があるからです。 けれども、サラの生前の一番の悩みは、やはり子どもがいないことでした。一時は自分で子を産むことをあきらめて、女奴隷ハガルを夫に与えて、彼女によって子をもうけようとしました。けれども、実際に身ごもったハガルを見るのは耐えがたく、ハガルに辛く当たり、彼女が逃げ出すぐらいひどくいじめたのでした。そんな事件があった後、不思議な3人の旅人が来て、「来年の今ごろ、サラに男の子を産む」と告げました。その時サラは、天幕の陰に隠れて、思わず心の中で笑ったのです。ところが神はご真実で、サラは本当に身ごもり、一年後には子どもが与えられました。その時サラは、すでに90歳。しかし、子どもが与えられた喜びに浸る日々もつかの間、今度は女奴隷ハガルの子イシュマエルが邪魔になります。そして、イサクの乳離れの祝いの席で、イシュマエルがイサクをからかったことを機に、夫にイシュマエルを追い出すようにと攻め寄り、とうとう二人を家か...

約束の子の誕生(創世記21:1~21)

「約束の子の誕生」 創世記 21 章1~21 21章の1節から8節までは、喜びと笑いに満ちています。とうとう、アブラハムとサラとの間に子どもが生まれたからです。この子の誕生は、まさに神さまによる奇跡でした。聖書はそのことを強調しています。1節「主は約束したとおりに」、「主は告げたとおりに」、2節「神がアブラハムに告げたその時期に」。また、それが神の御力の表れであることを示すために、神さまが「来年の今ごろ」と告げたまさにその時期に生まれたこと。また、その時アブラハムは100歳だったこと(サラも90歳だったこと、)。そして、生まれた子が、主が告げたとおりに、男の子だったことを語っています。 そしてもう一つ。聖書は、このイサクの誕生は、アブラハムのためだけではない、サラのためであったことも示しています。1節では「(主は)サラのために行われた」、6節では、「神は私(サラ)に笑いをくださいました」とあるように、神さまは、サラを覚え、顧みてくださったのです。 生まれてきた子は、イサクと名付けられました。「彼は笑う」という意味です。日本で、この「笑う」という字を使ってイサクと読ませる名前を持っている男の子はいるか調べてみました。ありました!笑いを作ると書いて、「笑作(いさく)」と読ませています。 「笑い」とは言ってもいろんな種類の笑いがあります。17章ではアブラハムが笑い、18章ではサラが笑っています。どちらも不信仰から来る笑いでした。神さまが、アブラハムとサラの間に子どもを授けると約束しているのに、そんなことあるはずがない…と言って彼らは笑ったのです。けれども今回の笑いは、喜びと賛美の笑いでした! よくクリスチャンは、3 K (固い、厳しい、暗い)と言われますが、私たちクリスチャンこそ、この喜びの笑いがふさわしいのではないかと思います。私たちの教会の役員会は、よく笑います。がはは、がははと笑いながら、1時間半ぐらいが、あっという間に過ぎていきます。神さまはご真実なお方で、私たちの教会の必要をご存じで、よい計画を持っておられる、それを信じているから笑いが絶えないのだと思います。アブラハムは祝福の基と言われましたが、笑いの基でもありました。私たちクリスチャンも、家族に笑いを届け、学校や職場に笑いを届けるものでありたいですし、私たちの教会も、地域に笑いと希望を届け...