スキップしてメイン コンテンツに移動

神の計画のために(第一列王記17:8〜16)

2023.06.11 新船橋教会礼拝説教
1列王記17:8-16 
説教題「神の計画のために」 
主題:神の計画は偉大である。人間は神さまへの信頼と信仰を通して神の計画のために用いられ ていく。
・はじめに 
おはようございます。 
関東地方が梅雨入りしたというニュースを聞きました。
今年はもうすでに、大雨によってたくさんの被害が報じられています。
被害にあった方々の回復とみことばを聞く備えのために、祈りたいと思います。

天の父なる神さま (自由祈祷)
・雨が降らない!?
まず、今日の聖書箇所の前提となっている状況を確認したいと思います。
17章1節「ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイス ラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降り ず、雨も降らない。」
エリヤは17章1節に突然登場する人物です。
列王記が書かれた当時、エリヤは有名人で、皆が知っているため、特に説明を加える必要はな かったのでしょう。 
列王記は、17章から19章まで、エリヤを中心に進んでいきます。
そして、もう一人重要な登場人物がいます。それがアハブです。
アハブは、北イスラエル王国の七代目の王です。
アハブはイスラエルに軍事的、経済的に発展をもたらした人物ということができます。
しかし、神さまからの評価は、「彼以前の誰よりも主の目に悪であることを行なった。」 最悪の評価でした。
それは、外国から嫁いできたアハブの妻イゼベルが、アハブを偶像礼拝へと引き摺り込んでいった からです。
イゼベルは、イスラエルに自分の生まれ故郷であるバアル宗教を持ち込みました。
アハブは、北イスラエル王国の首都であったサマリアに、バアルの神殿を作り、そこにバアルの祭 壇を置いたのです。
民を導くべき王が偶像礼拝に傾いている。
民もまた、神さまから離れている状態でした。
このように信仰的に混乱した時代。
天地を造られた真の神さまへの礼拝が軽んじられた時代に、エリヤは神さまを信じる者として遣 わされたのです。
エリヤに託された第一の勤めは、イスラエルへのさばきを宣告することでした。
それは、雨が降らなくなるということです。
そして、このことばの通りにイスラエルに雨が降らなくなりました。
雨が降らないとどうなるか? 
川が干上がり、水不足になります。飲み水も生活水もなくなります。
作物は育たず、飢饉がやってきます。
私の出身地である岡山県は晴れの国と呼ばれます。
あまり雨が降らない、晴れの日が多いということにちなんだ名称です。
そして、雨が降らないというのは、瀬戸内海を挟んだ隣の県、香川県も同様です。
ですので香川県は、高知県にある早明浦ダムから水の供給を受けています。
そのため、夏にテレビを見ていると早明浦ダムの貯水率が報道されます。
雨が降らず、早明浦ダムの貯水率が下がると、取水制限がかかり、断水したり、水の使用が制限さ れます。
子どもながらに、早明浦ダムの貯水率ということばが耳に残っています。
このことからもわかるように、雨、水というのは私たちの生活を支える重要なものであることは 間違いないでしょう。
まして生活インフラが現代ほど発展していない聖書の世界において「雨が降らない」ということ は、人々の生死に関わる一大事だったのです。
エリヤは直前の17章1-7節で、川のほとりでカラスに養われていました。
しかし、水を得ていた川が枯れてしまい、神さまのみわざの次の展開を待っていました。

 ・エリヤの信仰
そんなエリヤに語られたのが9節のことばです。

 :9「さぁ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ、わたしはそこの一人のやもめに命じ てあなたを養うようにしている」

シドンのツァレファテとは、エルサレムの北の方にある異邦人の地です。
また、やもめとは、夫に先立たれた女性のことです。
男尊女卑が今よりも激しかったと言われている古代の社会にあって、女性が一人で生きていくこ とには相当な困難が伴いました。
社会的地位は低く、ただでさえ生活は苦しかったはずです。
しかも今は旱魃とそれに伴う飢饉のとき。
貧しくない人でさえ、生活に困るようになっているのに、普段でさえギリギリの生活をしている やもめの生活がどうであったか、かなり厳しい生活をしていたことは想像に難くありません。
このように考えていくと、9節の神さまのことばが不思議であることに気が付きます。
「やもめに命じてあなたを養うようにしている」
社会的に弱く、経済的に貧しいやもめが自分を養うとはどういうことだろうか。
やもめこそ誰かに助けられる必要があるはずなのに。
エリヤにそんな疑問は湧いてこなかったでしょうか? 
しかし、神さまはここでこれ以上語ることはしませんでした。
エリヤも神さまへの信頼のゆえに、このことばに従って行動します。

ツァレファテにつくと、ちょうどそこでやもめと出会います。
エリヤは9節で語られた、自分を養うやもめがこのやもめなのかを確認しようとします。
この行為からも、エリヤは神さまの計画の全貌を知っていたわけではないということがわかりま す。
ここには、神さまのことばを信じ、その実現のために行動するエリヤの姿が記されています。
エリヤはやもめに、ほんの少しの水を求めます。
これは雨が降らない状況でもギリギリ受け入れてもらえるお願いだったのではないかと思います。
やもめはそれに応じる様子を見せます。
すると、その様子を見たエリヤは畳み掛けるように語りかけます。
一口のパンもくださいと。 しかし、この問いかけに対してやもめはこのように答えます。

12節「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に 一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、 帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」

やもめは貧しく、エリヤを養えるような状況ではなかったのです。
それどころか、食べる物が尽き、死のうとしていた。
しかし、エリヤは、このやもめは神さまが語ったやもめではなかった、とは思わなかったので す。
それは、やもめが「あなたの神、主は生きておられる」と信仰を表明したからです。
やもめは異邦人でありながら、天地を造られた神さまを信じている。というのです。 このやもめのことばは、エリヤに、このやもめが自分を養うやもめであると確信させるものでした。
そして、「恐れてはいけません。」とやもめを励まします。
13節 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。 しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後 で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
14節 イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、その かめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」

神さまは、いつエリヤに『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油 はなくならない。』と語ったのでしょうか。
このことばは、12,13節のやもめとのやりとりの中で与えらえたと考えられます。 そして、エリヤは、ここで初めて、神さまご自身がエリヤとやもめを養う、という神さまの計画 の全容を知るのです。
エリヤは神さまの計画のすべてを予め知っていたわけでなありませんでした。
エリヤは、状況の変化に応じて語られる神のことばに、その度ごとに信頼し、その度ごとに応答 して行動していたのです。

・やもめの信仰
続いて、やもめの信仰に目を留めてみたいと思います。
エリヤの信仰を見ていく中でふれたように、このやもめは死を覚悟していました。
夫に先立たれ、苦しい生活を強いられてきた。
その上、旱魃によって飢饉が起こり食べる物がなくなろうとしている。
これ以上生きることはできない。
生きる希望を失ったやもめは、残った小麦で最後のパンを作って、それを食べて息子と共に死の うと覚悟を決めたのです。
パンを焼くための火をつけようと薪を拾いに出かけた先で、見慣れない男が話しかけてきます。
「少しの水をください」 旅人をもてなすことは、当時大切にされていたそうです。
ですから、いくら雨が降らないといっても、水ぐらいは出そうと思ったのかもしれません。
 または、死のうとしているやもめにとって水は惜しむものではなかったのかもしれません。
やもめは、水を差し出そうとします。
すると、その男は図々しくパンまで要求してきたのです。
しかし、やもめの手元にパンはないのです。
残されているのはわずかな小麦と油だけ。
それも、自分と息子の人生最後の食事のパンを作るだけの量しかない。
それを正直に伝えたやもめは、エリヤがパンを諦めてくれるのを期待したでしょうか。
エリヤの願いに応えるためには、やもめの人生最後の計画、最後の願いを手放すことが必要だっ たのです。
そして、それはしたくなかった。
しかし、エリヤは続けて語りかけてくるのです。
「まず、私のためにパンを作りなさい。そしてその後で、自分たちのためにパンを作りなさい。」 エリヤさん、二つも三つもパンを作れるほど、小麦も油もないと言ったではないですか。 話しを聞いてなかったんですか?
やもめの心の叫びが聞こえてきそうです。
しかし、次のことばはやもめを驚かせたのではないでしょうか。
「再び雨が降る時まで、かめの粉は尽きず、壺の油は無くならない。」
命がかかった極限の状態で、自分を後回しにしてエリヤを優先する。
やもめにとっては大きなチャレンジです。 しかし、今、わずかな希望が示されたのです。 「神さまが私を養ってくださる。」という希望です。
やもめがこのことばにすがるように、信仰を持って応答したとき、かめの粉は尽きず、壺の油が 無くならない、という奇跡が起こりました。
やもめも息子もいのちを繋ぐことができました。

・まとめ
 ここからまとめに入っていきたいと思います。 
 ここまで、エリヤとやもめの信仰について見てきました。
 エリヤとやもめに共通する特徴があります。
まず、エリヤもやもめも語られたことばの通りに行ったということです。
10節「彼はツァレファテに出て行った」
15節「彼女は行って、エリヤのことばの通りにした」

ツァレファテとは異邦人が住んでいる地です。
異邦人に養われるということは、ユダヤ的な常識からすればありえないことです。
エリヤは、その常識よりも、神さまのことばを信じることが求められました。

やもめは、最後の小麦でまずエリヤのためにパンを作りました。
油は尽きず、かめの粉は無くならないということばが実現すると信じる信仰。
神さまが良いお方であること、絶望的な状況を希望に変えることができる方であることを信じな ければできない行動です。
神さまの計画を妨げてしまうのは、私たちの常識や思い込みではないかと思うのです。
神さまはイスラエルが偶像礼拝にふける時代に、当時救いから遠いと思われていた異邦人のさら に社会的弱者と見られていたやもめを用いました。
やもめが最後のパンを自分のためにではなく、エリヤに渡すことによって、奇跡が起こりまし た。
私たちが想像もつかない、それはあり得ない、と思うようなところに神さまの計画があるという ことを覚えたいと思います。
次に、二人の行動には命がかかっていたということです。
エリヤは、神さまのことばに信頼しなければ、食べる物も水も手に入れることができない状況に ありました。
また、やもめはそもそも貧しい上に、旱魃による飢饉の中でこれ以上生きることができなくなっ ていました。
さらに、最後に残ったわずかな食料を先にエリヤに渡すことが求められたのです。
命がかかった危機的な状況で、人の心に信仰があるかがわかります。
エリヤもやもめも文字通り命がかかった限界状況の中で、神さまへの信仰を表明しているのです。
エリヤに語られた9節のことば
 「さぁ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ、わたしはそこの一人のやもめに命じ てあなたを養うようにしている」
 まずエリヤがこのことばに従ったことによって、神さまの計画は進展してきました。
そして、やもめと出会い、やもめの信仰が引き出されることによって、「神さまがエリヤだけで はなく、やもめも養う。」という9節では明らかにされていなかった、神さまの計画が実現したの です。
この神さまの計画が実現するためには、エリヤとやもめ、二人の神さまへの信頼と信仰が必要で した。
どちらかでも欠けていたらこの出来事は起きなかったのです。
神さまは異邦人のやもめに目を留め、エリヤを送ることを通して、エリヤも、やもめも、やもめ の家族も生きることができるようにされたのです。

先週、千恵子先生が、ご自分の献身について語ってくださいました。 「牧師」への召しを受け取ったがすぐにそれが実現するわけではなかった。
「牧師」への召しからは回り道とも思えるような「牧師夫人」になること、「子育て」、宣教師 としての働き。
しかし、その度ごとに信仰の決断を続けた結果、道が開かれ新船橋教会の牧師となった。
新船橋教会でイキイキ働く千恵子先生の姿を実習生として学ぶところが大きいです。
そして、おこがましいですが私なりに感じるところお分かちしたいと思います。
台湾での地域支援活動の経験が、フードシェア・パントリーに生かされている。 子どもたちとの関わりには母を感じます。
千恵子先生が召されたとき、新船橋の地でこのようにイキイキ神さまに仕える姿が示されてはい なかったと思います。
千恵子先生が神さまと共に歩んでいく中で、導かれたのが今だと思うのです。
一見、遠回りや回り道に見える経験も、神さまにとっては最短距離である、神さまの計画の偉大 さを思わずにはいられません。
そして、教会も地域支援の働きを神さまの御心であると信じて、祈りと奉仕によってこの活動に 参加しています。この先この働きがどのような展開を見せるのか、楽しみにしたいと思います。

私たち一人ひとりが神さまのことばに従って歩き出すことには大きな意味があります。
信仰を持って踏み出すことには大きな意味があります。
そこから、神さまの計り知れない計画が進んでいくからです。
年齢や性別、社会的ステータスは関係ありません。
私たちは誰でも神さまの計画のために用いられるのです。
「行って、ことばの通りにした」 
 神さまへの信頼を持って、神のことばに従っていくことを互いに励まし合っていきましょう。

 祈ります。 天の父なる神さま あなたには私たちの思いを遥かに超えた、私たちが想像もできない計画があります。 そして、あなたはその計画の実現のために私たちを用いるお方です。 どうか、あなたの語りかけをやわらかな心で聞き、たとえそれがわたしの目にはあり得ないこと のように思えても、あなが良いお方であるという信頼のゆえに、従っていくことができますよう に。 イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン。

コメント

このブログの人気の投稿

いのちがけで逃げなさい(創世記19:1~38)

「いのちがけで逃げなさい!」 創世記 19 章 長い聖書朗読になりました。前半のソドムが滅ぼされるところと、後半のロトと娘たちの近親相姦の記事を分けて扱おうとも思いましたが、「いのち」と「滅び」について、神さまの御思いと、人間の思いの落差というカテゴリーでくくれると思い、一気に読むことにしました。 ソドムの町には、み使い二人だけで来たようです。アブラハムが天幕を張っていたヘブロンからソドムまでは、約60キロ。アブラハムのところには、「日の暑いころ」(18:1)に訪れていますから、その後ゆっくりアブラハムのおもてなしを受けたとしたら、夕暮れにソドムに着いたというのはあり得ないのですが、そこはみ使いですから、超自然現象だと理解したいと思います。 み使いたちが到着すると、ロトがソドムの門のところに座っていました。当時は、長老格の人たちが、町の広場や門のところに座り、民を裁いていたと言います。また後に、ソドムの人が、ロトを批判して「こいつはよそ者のくせに、さばきをするのか!」と批判していますので、ロトは、ソドムの町でも知恵と人格において一目おかれていたことをうかがい知ることができます。 またロトは、アブラハムといっしょにいたころの「神の民」として生き方や文化、習慣みたいなものも残っていました。そしてもちろん、堕落したソドムにあっても、創造主なる唯一の神を信じていました。旅人を見ると、アブラハムと同様、立ち上がって彼らを迎え、丁寧にお辞儀をして、「ご主人がた、どうか、このしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊りください。」と申し出ています。み使いたちが、ソドムを訪れた目的は、神さまのもとに届いた、虐げられている者たちの叫びが本当かどうか見極めるということでしたから、「いや、私たちは広場に泊まろう」と答えたのですが、この町の治安の悪さを知っているからでしょうか、ロトは、「そんなこと言わないでぜひ!」としきりに勧めたので、み使いたちも折れて、ロトの家に泊まることにしました。 しかしその夜、事件は起こりました。ロトの家の周りに、町中の男たちが、若い者から年寄りまで集まって来きたのです。そしてロトの家を取り囲んで叫びます。「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。彼らをよく知りたいのだ!」この「知りたい」というのは、何も「お名前は?」「趣...

サラの死と埋葬(創世記23:1~20)

「サラの死と埋葬」 創世記12章1~20節   サラが天に召されました。127歳でした。今の私たちの感覚からすると非常に長寿ですが、アブラハムが召されたのは175歳ですから、それを思うと、当時としてはそれほど長寿だとも言えないかもしれません。聖書にはたくさんの女性が登場しますが、亡くなったときの年齢が記されているのは、なんとサラだけだそうです。このことからも、アブラハムだけでなく、サラも聖書の救いの歴史の中で重要な役割を果たしていたことがわかりますね。 サラの生涯は幸せだったでしょうか。いろんなことがありました。夫が神さまから呼ばれたことによって、住み慣れた土地を離れなければなりませんでした。たいていの女性は定住志向ですから、寄留者として生きなければならないことは、サラにとってはつらいことだったことでしょう。時には、いのちの危険があるようなところに寄留することもありました。そんなときには、決まって夫アブラハムは、自分のことを兄だと言ってくれと頼むものですから、彼女は2回もその土地の王に召し抱えられる危機に遭いました。それは、サラの美しさのゆえでした。最近はルッキズムと言って、容姿が美しいことが幸せの条件のように思われています。確かに美しいことで得をすることもあるかもしれませんが、美しさゆえの悩みもあるようです。美しさゆえの誘惑があり、落とし穴があるからです。 けれども、サラの生前の一番の悩みは、やはり子どもがいないことでした。一時は自分で子を産むことをあきらめて、女奴隷ハガルを夫に与えて、彼女によって子をもうけようとしました。けれども、実際に身ごもったハガルを見るのは耐えがたく、ハガルに辛く当たり、彼女が逃げ出すぐらいひどくいじめたのでした。そんな事件があった後、不思議な3人の旅人が来て、「来年の今ごろ、サラに男の子を産む」と告げました。その時サラは、天幕の陰に隠れて、思わず心の中で笑ったのです。ところが神はご真実で、サラは本当に身ごもり、一年後には子どもが与えられました。その時サラは、すでに90歳。しかし、子どもが与えられた喜びに浸る日々もつかの間、今度は女奴隷ハガルの子イシュマエルが邪魔になります。そして、イサクの乳離れの祝いの席で、イシュマエルがイサクをからかったことを機に、夫にイシュマエルを追い出すようにと攻め寄り、とうとう二人を家か...

約束の子の誕生(創世記21:1~21)

「約束の子の誕生」 創世記 21 章1~21 21章の1節から8節までは、喜びと笑いに満ちています。とうとう、アブラハムとサラとの間に子どもが生まれたからです。この子の誕生は、まさに神さまによる奇跡でした。聖書はそのことを強調しています。1節「主は約束したとおりに」、「主は告げたとおりに」、2節「神がアブラハムに告げたその時期に」。また、それが神の御力の表れであることを示すために、神さまが「来年の今ごろ」と告げたまさにその時期に生まれたこと。また、その時アブラハムは100歳だったこと(サラも90歳だったこと、)。そして、生まれた子が、主が告げたとおりに、男の子だったことを語っています。 そしてもう一つ。聖書は、このイサクの誕生は、アブラハムのためだけではない、サラのためであったことも示しています。1節では「(主は)サラのために行われた」、6節では、「神は私(サラ)に笑いをくださいました」とあるように、神さまは、サラを覚え、顧みてくださったのです。 生まれてきた子は、イサクと名付けられました。「彼は笑う」という意味です。日本で、この「笑う」という字を使ってイサクと読ませる名前を持っている男の子はいるか調べてみました。ありました!笑いを作ると書いて、「笑作(いさく)」と読ませています。 「笑い」とは言ってもいろんな種類の笑いがあります。17章ではアブラハムが笑い、18章ではサラが笑っています。どちらも不信仰から来る笑いでした。神さまが、アブラハムとサラの間に子どもを授けると約束しているのに、そんなことあるはずがない…と言って彼らは笑ったのです。けれども今回の笑いは、喜びと賛美の笑いでした! よくクリスチャンは、3 K (固い、厳しい、暗い)と言われますが、私たちクリスチャンこそ、この喜びの笑いがふさわしいのではないかと思います。私たちの教会の役員会は、よく笑います。がはは、がははと笑いながら、1時間半ぐらいが、あっという間に過ぎていきます。神さまはご真実なお方で、私たちの教会の必要をご存じで、よい計画を持っておられる、それを信じているから笑いが絶えないのだと思います。アブラハムは祝福の基と言われましたが、笑いの基でもありました。私たちクリスチャンも、家族に笑いを届け、学校や職場に笑いを届けるものでありたいですし、私たちの教会も、地域に笑いと希望を届け...