スキップしてメイン コンテンツに移動

奴隷の家から導き出す神(出エジプト記20:1~2)


「奴隷の家から導き出す神」(出エジプト20:12

はじめに

  しばらく、皆さんとともに旧約聖書の出エジプト記から十戒と呼ばれる十の教えを学びたいと思います。 出エジプト記は、エジプトに奴隷として捉われていたイスラエルの人々が、神によって救出される話をまとめた書物です。キリスト教会は、二千年の歴史の中で、常に十戒を大切にしてきました。 それは、神の民の生きる指針を教えてくれるのがこの十戒だからです。 時折、十戒が私たちを縛り付ける、窮屈な教えであるかのように思っている方がおられます。 でも、それは違います。実はこの十戒を、「自由への指針」と呼んだ方もあるほどで、この教えは私たちを自由にするのです。 この朝は、この十戒の導入部に目を留めていきましょう。 初めにお祈りします。

 

1.     語る神

 1節(読む)

 神は、次のすべての言葉、つまり2節からあとに続く、十の教えをすべて直接、ご自分の口で語られました。 神が直接にご自分で教えを語ってくださるということ。 実はこれは少し珍しいことなのです。

 たとえば出エジプト記5章の初め、イスラエルをエジプトから連れ出すために神の人モーセが、エジプト王ファラオの前に立った時、モーセはどのような第一声を発したのでしたか。彼はこう言う。「イスラエルの神、主はこう仰せられます」。「主はこう仰せられます」と。つまり、神は直接ではなく、モーセを通して語られたのでした。

実は多くの場合、神は直接ではなく、人を介して御言葉をお語りになる。 旧約の時代には預言者を通し、新約の時代には、使徒と呼ばれるキリストの弟子たちを通し、神は御言葉を語りました。そして今は、聖書を用い、牧師、説教者を通し、神は私たちに語っておられる。 神は人を通して語る。それが通常の御言葉の伝え方です。

 ところが、この十戒は違った。 神が直接に自らお語りになったのでした。 聖書は、私たちに向けた神の直接の言葉として十戒を記しているのです。

 それほどにこの十戒は大切であり、特別な教えです。 それは置かれた状況からしてそうでした。神が十戒を与えたのは、シナイ山という山ですが、この山で神が十戒を語る前には、いったい何が起こったのでしたか。 出エジプトです。エジプトに奴隷としてつながれていたイスラエルを、神自らがモーセを指導者に立てて、救い出した。そこでは、大きな救いの御業が起こりました。 神は力強い御手を動かし、エジプトに十の災いを下して罰したのです。また、荒野に連れ出す途中、目の前に海が立ちはだかった時には、何が起こったのですが。大風を吹かせてその海を二つに分けて渡らせ、イスラエルをエジプトの軍隊から守ってくださったのでしたね。 そう、そのような大きな救いの御業を経て、イスラエルはこの山に辿り着いた。そこで神は直接語って十戒を与え、神の民の新しい生き方を教えていくのです。

 このように、出エジプトという救いの御業のあとに十戒が与えられたことは、十戒の性格がどのようなものであるかをよく物語っています。 十戒は、私たちを縛るものではないのです。 解放され、自由になった神の民が、新しくどのように生きたら良いのか。 自由にされた者への生きる指針が、この十戒のメッセージの核心です。

 とは言え、十戒の中身を読むと、「○○してはならない」という口調が続くので、誤解している方も少なくありません。 神は、この十戒で私たちを縛ろうとしているのではないか。これを守らなければ救われないのではないか。

 これは全くの誤解です。 十戒を与える前に、すでに救いは起こっている。イスラエルの民は奴隷から解放されている。そのように救われた者が新しくどのように生きたらいいのか。それを教えるのが、この十戒なのです。

 

 かつて、新潟で牧師をしていた折、主日礼拝で十戒を十一週間にわたり、語ったことがあります。説教で十戒を取り上げることをあらかじめ伝えると、ある一人の方が、不満顔でした。十戒は私たちを縛るものだから、日曜の朝に窮屈な話を聞きたくない、というのが主な理由でした。 私は、その方の懸念をよく聞いた上で、十戒が、人を縛る教えではないことをかみ砕いて伝えました。

 十戒、十ある教えのエッセンス、メッセージの核心は、神と人を愛する生き方です。これは愛の教えで、人を縛るものではない。 私たちは、十戒を通して「神と人を愛する生き方」を学んでいくのです。 「愛」に関する教えですから、人を縛るものではありません。なぜならエジプトで神の民を縛っていた、奴隷の苦しみからはすでに解かれている。自由にされた者として、これからは神と人を愛して生きるようにと、この大事な教えを、神は直接語ってくださったのでした。

 

2.     神は誰

 さて、このように新しい生き方へと招いてくださる神とは、いったいどのようなお方でしょうか。

 2節に目を留めましょう。(読む)

 

 このお方は、ご自分を「わたし」と呼んで、私たちの前に立っておられます。 そして、「わたし」と名乗りながら、神が向き合っておられるのは、「あなた」です。 そう、「わたし」と「あなた」という、人格的な交わりの中で、神は十戒を語ってくださいました。 イスラエルの民ひとりひとりに、そして、私たちひとりひとりに向かい、「あなた」と呼びながら、神は新しい生き方へと招いていく。 このお方は、「あなた」と呼ぶほどに、私たち一人一人のことを知っているのです。

 聖書は、そういう私たちの傍らに寄り添うお方を、「主」と表現します。私のご主人様、私たちになくてはならないお方、というニュアンスの近さです。それはまさに私たちに寄り添う近さですが、その近さの証しが、出エジプト、奴隷の地から私たちを連れ出してくださった救いの出来事でした。

 皆さん、出エジプトはどのようにして始まったのでしたか。それは2章23節にまで遡ります。その頃イスラエルは、エジプトでレンガを作る重労働に苦しんでいた。その苦しみは泣き叫ぶほどでしたが、聖書は記します。「彼らの叫びは神に届いた」、「叫びは神に届いた」と。 神は、人々の嘆きや叫びが、その耳に届くほどに近くにおられる。 だから祈りを止めてはいけない。 そして、その叫びを聞いてかわいそうだと心に留めてくださる。いや、心に留めるだけでなく、御手を動かして救い出してくださる。それが、「主」と呼ばれる、傍らに立つ、このお方の近さです。

 

このお方は、ただ近いだけではなくて、大きな「神」でもあります。神さまは、全能の御手を動かし、エジプトに十もの災いを下して、大きな力を現したのでしたね。それはエジプトの人々が「自分たちはこのままでは滅ぼされてしまう」と震え上がるほどに大きかった。しかし、その大きなお方が、私たちの神です。2節は記していました。「わたしは ... あなたの神」そして「主」であると。

 そうです。この近いけれども大きなお方によって、イスラエルは奴隷の苦しみから解放され、救い出されたのでした。イスラエルが、救いに値する人々だったからではありません。聖書は、イスラエルの民に何かしらの救いに値する理由があったとは記さない。 そう、救いは恵みだったのです。神の一方的な愛から出ているのです。

そのような恵みと愛で救ってくださったお方が、「あなた」と呼んで、神の民の一人一人を、これまでと違う、新しい自由な生き方へと招いているのです。

 

3.     私たちは誰か

 最後に、もう一つのことを考えます。 今、このように神が、神と人を愛する生き方へと招いている、私たちとは、いったい何者でしょう。私たちは神の前にいったいどんな存在なのか。

 十戒というのは不思議な教えで、これを学んでいると、私たちは、自分が何者なのかが見えてくるのです。 十戒は、まるで鏡のような教えで、神の前に立つ私たちのアイデンティティが明らかになるのです。

 私たちはいったい何者なのか。三つのことを確認します。

 第一は、私たちが「かつて」奴隷であった、ということです。「かつて」私たちは奴隷であった。

 イスラエルは確かにそうでした。彼らは支配されて、ひたすらレンガ作りの重労働に従事していたのです。奴隷ですから、十把一絡げで、名前なんてあってないようなもの。毎日土にまみれて日に焼けて、皆、見分けのつかない顔をして汗を流した。 でも、救い出されて、一人一人の顔が分かるようになった。そして神は、まるで一人一人の名を呼ぶように、「あなた」と、語りかけてくださったのでした。 

 実は、私たちもかつては奴隷でした。ガラテヤ書4章3節が、私たちのかつての姿をこのように書きとめています。「この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました」と。簡単に言えば、罪の奴隷だった私たち。縛られていたのです。自己中心という罪の本質に縛られていた私たち。 自分が中心ですから、周りには必ず敵がいたのです。それゆえに人を赦せず、いつもどこかで恐れと緊張を覚えていた。 自由に生きられず、いつも世の流れに翻弄されていた私たち。 それは、重労働で顔の見分けもつかない奴隷時代のイスラエルと重なってきます。

 でも、私たちも救い出されました。 一人一人名前を呼ばれるように救い出され、赦されて、自由になった。私たちがふさわしかったからではありません。ただ恵みゆえに救われて自由になったのです。私たちもかつては奴隷だったのです。

 第二はこれです。かつては奴隷だった私たち、しかし、今は神の愛の対象です。出エジプトは、ただ恵みによる神の御業で、神を動かした動機は「愛」でした。 旧約の預言書、ホセア書11章1節は、出エジプトの際の神の思いがどのようなものであったかを書きとめています。このような御言葉。「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。」 父がわが子を愛して呼び出す救いの出来事、それが出エジプトでした。私たちもそうですね。 「あなたがたが救われたのは恵みによる」と、エペソ2章が語っています。そのようにして神は、私たちを神の子どもとして救い出してくださったのでした。 

 私たちは愛の対象。 神の子どもですから。 そして三番目はこれです。「自由な者」。私たちは十把一絡げの奴隷、この罪の世に埋もれる奴隷ではなく、「あなた」と呼ばれて、解放された一人一人。そして神は私たちの名前を呼ぶようにして、新しい生き方へと招くのです。これまでの抑圧や支配とは違う、自由の中で神と人を愛して生きる、新しい生き方です。

 

「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」。この言葉は、旧約聖書を通じて何度も何度も繰り返されます。 この言葉を聴くと、私たちは神が誰であるかを知り、自分が何者なのかを思い出す。 私たちを恵みで救ったお方は、新しい生き方へと招いています。今朝の招きの御言葉が響き合うところです。ガラテヤ5章13節。「兄弟たち。(そして姉妹たち)あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」「自由を与えられるために召されたのです。 ... 愛をもって互いに仕え合いなさい。」

 

 さて、新潟時代の顛末はどうなったでしょう。 十戒から説教した経験は、まだ若かった私にとって、新潟時代の財産になりました。二十代の若い説教者でしたが、毎回、喜びをもって十戒から語りました。そして、新潟の教会の皆さんも、真剣に御言葉に耳を傾け、応答してくださいました。私に不満を漏らした方も含めてです。

 

結び

 私たちは、十戒を通して、神と人を愛する生き方へと招かれています。 ただ、中には、本当にそのように生きられるだろうかと、そんな不安もあるかもしれません。十戒自体は素晴らしい教えでも、それを生きられるか分からない。やがて、この素晴らしい十戒の教えが、逆に自分を責めるのではないだろうかと。

 でも、どうか安心して頂きたいのです。確かに私たちには弱さがあって、十戒を十分に生きることはできないかもしれない。 けれども、十戒を生きられない者へのさばきは、イエスさまがすでに十字架で背負ってくださったのではありませんか。完全に生きられなくとも、責める者は誰もいない。 もし、自分を責める思いがこみ上げてきたなら、十字架を見上げてください。十字架を見る度に思い出すでしょう。自分がすでに罪の奴隷から解放されていること。 私たちが神の子どもであること。そして、私たちを救ったお方が、私たちの名を呼びながら、新しい生き方へと招いている。 神の子どもとして、私たちの愛する主の招きに応えていきたい。そのように願った、この朝の御言葉のひとときでした。お祈りします。

天の父よ、私たちの名を呼んで、新しい、神の子どもの生き方へと招いてくださったことを感謝します。どうか、聖霊によって助けてください。そして、神と人を愛する、自由な日々の中で、あなたをほめ称える者としてください。救い主、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。


コメント

このブログの人気の投稿

いのちがけで逃げなさい(創世記19:1~38)

「いのちがけで逃げなさい!」 創世記 19 章 長い聖書朗読になりました。前半のソドムが滅ぼされるところと、後半のロトと娘たちの近親相姦の記事を分けて扱おうとも思いましたが、「いのち」と「滅び」について、神さまの御思いと、人間の思いの落差というカテゴリーでくくれると思い、一気に読むことにしました。 ソドムの町には、み使い二人だけで来たようです。アブラハムが天幕を張っていたヘブロンからソドムまでは、約60キロ。アブラハムのところには、「日の暑いころ」(18:1)に訪れていますから、その後ゆっくりアブラハムのおもてなしを受けたとしたら、夕暮れにソドムに着いたというのはあり得ないのですが、そこはみ使いですから、超自然現象だと理解したいと思います。 み使いたちが到着すると、ロトがソドムの門のところに座っていました。当時は、長老格の人たちが、町の広場や門のところに座り、民を裁いていたと言います。また後に、ソドムの人が、ロトを批判して「こいつはよそ者のくせに、さばきをするのか!」と批判していますので、ロトは、ソドムの町でも知恵と人格において一目おかれていたことをうかがい知ることができます。 またロトは、アブラハムといっしょにいたころの「神の民」として生き方や文化、習慣みたいなものも残っていました。そしてもちろん、堕落したソドムにあっても、創造主なる唯一の神を信じていました。旅人を見ると、アブラハムと同様、立ち上がって彼らを迎え、丁寧にお辞儀をして、「ご主人がた、どうか、このしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊りください。」と申し出ています。み使いたちが、ソドムを訪れた目的は、神さまのもとに届いた、虐げられている者たちの叫びが本当かどうか見極めるということでしたから、「いや、私たちは広場に泊まろう」と答えたのですが、この町の治安の悪さを知っているからでしょうか、ロトは、「そんなこと言わないでぜひ!」としきりに勧めたので、み使いたちも折れて、ロトの家に泊まることにしました。 しかしその夜、事件は起こりました。ロトの家の周りに、町中の男たちが、若い者から年寄りまで集まって来きたのです。そしてロトの家を取り囲んで叫びます。「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。彼らをよく知りたいのだ!」この「知りたい」というのは、何も「お名前は?」「趣...

サラの死と埋葬(創世記23:1~20)

「サラの死と埋葬」 創世記12章1~20節   サラが天に召されました。127歳でした。今の私たちの感覚からすると非常に長寿ですが、アブラハムが召されたのは175歳ですから、それを思うと、当時としてはそれほど長寿だとも言えないかもしれません。聖書にはたくさんの女性が登場しますが、亡くなったときの年齢が記されているのは、なんとサラだけだそうです。このことからも、アブラハムだけでなく、サラも聖書の救いの歴史の中で重要な役割を果たしていたことがわかりますね。 サラの生涯は幸せだったでしょうか。いろんなことがありました。夫が神さまから呼ばれたことによって、住み慣れた土地を離れなければなりませんでした。たいていの女性は定住志向ですから、寄留者として生きなければならないことは、サラにとってはつらいことだったことでしょう。時には、いのちの危険があるようなところに寄留することもありました。そんなときには、決まって夫アブラハムは、自分のことを兄だと言ってくれと頼むものですから、彼女は2回もその土地の王に召し抱えられる危機に遭いました。それは、サラの美しさのゆえでした。最近はルッキズムと言って、容姿が美しいことが幸せの条件のように思われています。確かに美しいことで得をすることもあるかもしれませんが、美しさゆえの悩みもあるようです。美しさゆえの誘惑があり、落とし穴があるからです。 けれども、サラの生前の一番の悩みは、やはり子どもがいないことでした。一時は自分で子を産むことをあきらめて、女奴隷ハガルを夫に与えて、彼女によって子をもうけようとしました。けれども、実際に身ごもったハガルを見るのは耐えがたく、ハガルに辛く当たり、彼女が逃げ出すぐらいひどくいじめたのでした。そんな事件があった後、不思議な3人の旅人が来て、「来年の今ごろ、サラに男の子を産む」と告げました。その時サラは、天幕の陰に隠れて、思わず心の中で笑ったのです。ところが神はご真実で、サラは本当に身ごもり、一年後には子どもが与えられました。その時サラは、すでに90歳。しかし、子どもが与えられた喜びに浸る日々もつかの間、今度は女奴隷ハガルの子イシュマエルが邪魔になります。そして、イサクの乳離れの祝いの席で、イシュマエルがイサクをからかったことを機に、夫にイシュマエルを追い出すようにと攻め寄り、とうとう二人を家か...

約束の子の誕生(創世記21:1~21)

「約束の子の誕生」 創世記 21 章1~21 21章の1節から8節までは、喜びと笑いに満ちています。とうとう、アブラハムとサラとの間に子どもが生まれたからです。この子の誕生は、まさに神さまによる奇跡でした。聖書はそのことを強調しています。1節「主は約束したとおりに」、「主は告げたとおりに」、2節「神がアブラハムに告げたその時期に」。また、それが神の御力の表れであることを示すために、神さまが「来年の今ごろ」と告げたまさにその時期に生まれたこと。また、その時アブラハムは100歳だったこと(サラも90歳だったこと、)。そして、生まれた子が、主が告げたとおりに、男の子だったことを語っています。 そしてもう一つ。聖書は、このイサクの誕生は、アブラハムのためだけではない、サラのためであったことも示しています。1節では「(主は)サラのために行われた」、6節では、「神は私(サラ)に笑いをくださいました」とあるように、神さまは、サラを覚え、顧みてくださったのです。 生まれてきた子は、イサクと名付けられました。「彼は笑う」という意味です。日本で、この「笑う」という字を使ってイサクと読ませる名前を持っている男の子はいるか調べてみました。ありました!笑いを作ると書いて、「笑作(いさく)」と読ませています。 「笑い」とは言ってもいろんな種類の笑いがあります。17章ではアブラハムが笑い、18章ではサラが笑っています。どちらも不信仰から来る笑いでした。神さまが、アブラハムとサラの間に子どもを授けると約束しているのに、そんなことあるはずがない…と言って彼らは笑ったのです。けれども今回の笑いは、喜びと賛美の笑いでした! よくクリスチャンは、3 K (固い、厳しい、暗い)と言われますが、私たちクリスチャンこそ、この喜びの笑いがふさわしいのではないかと思います。私たちの教会の役員会は、よく笑います。がはは、がははと笑いながら、1時間半ぐらいが、あっという間に過ぎていきます。神さまはご真実なお方で、私たちの教会の必要をご存じで、よい計画を持っておられる、それを信じているから笑いが絶えないのだと思います。アブラハムは祝福の基と言われましたが、笑いの基でもありました。私たちクリスチャンも、家族に笑いを届け、学校や職場に笑いを届けるものでありたいですし、私たちの教会も、地域に笑いと希望を届け...