スキップしてメイン コンテンツに移動

神のかたちとして(創世記9:1~7)


「神のかたちとして」

創世記9:1~7

  大洪水のあと、ノアたち家族と動物たちは、「神さまの箱舟から出なさい」との号令に従って、箱舟からわさわさと出てきました。久しぶりに降り立った大地を踏みしめながら、思わず感謝が込みあげてきたノアが真っ先にしたことは礼拝でした。そんなノアの礼拝を喜ばれた神さまは、人の心が悪に傾くことをわかっていながらも、ノアと息子たちに惜しみない祝福を与えるのでした。「生めよ、増えよ、地に満ちよ!」と。神さまが人間を創造されたとき、あのまっさらな、神さまの栄光をそのまま映し出している人に対して発した、あの言葉を、ここでもう一度繰り返してくださったのです! これはセカンドチャンスではないでしょうか! なんてありがたいことでしょうか。人は根っから堕落しているので、またすぐに神を離れ、反抗し、罪を犯すのです。神さまはそれを知りつつも、何度でもやり直しのチャンスをくださり、その度ごとに、神さまは私たちを信じて、期待をしてくださるのです。私たちはそんな神さまの熱い視線を受けているので、簡単にあきらめません。何度転んでも、倒れても、何度失敗しても、罪にまみれても、何度も、何度でも、悔い改めて立ち上がる。立ち上がってもう一度、神さまに真正面から向き合い、信仰の歩みを続けるのです。

  さて、大洪水の後の新しい世界は、少し変わりました。何が変わったかというと、人間と他の生き物との関係が変わったのです。2節を見ると、「すべての生き物に人への恐れとおののきが起こる」とあります。動物たちが人を恐れるのです。確かに、動物たちは、人を見ると逃げて行きます。人間の罪によって被造物全体がのろわれる前は、人と動物との関係はとてもよかったのでしょう。

 イザヤ書の11章6~9節には、やがて来る天の御国での動物たちの様子が描かれています。「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。」 

 けれどもこの地上にあっては、互いの間に恐れとおののきがあります。人間の罪の影響でのろわれたある動物は狂暴化し、野獣となりました。けれども、神さまはそんな野獣から人を守るために、人と動物との間におそれとおののきを置いたのです。なんてきめ細かい神さまの配慮でしょうか。

 そして、神さまは、肉食を許可しました。人の堕落によって大地はのろわれたので、大地は以前のように人のために作物を実らせなくなりました。額に汗して働いても、一度の台風や大水、干ばつで収穫できなくなってしまうのです。実際土地も痩せて、栄養価も低くなってしまって、人が生きていくために十分な栄養分が、田畑の作物だけでは得られなくなってしまった可能性もあります。だから神さまは、人に肉を食べることを許されました。洪水の前も人は、肉を食べていたかもしれませんが、神さまはここで正式に許可したのです。肉は、私たちの食卓を豊かにしてくれます。食を楽しませてくれます。神さまは人に言うのです。3節「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物となる。緑の草と同じように、そのすべてのものを、今、あなたがたに与える。」「すべてのものを与える」「どれでも自由に食べてもいい」…どこかで聞いたことがないですか?そうです。イエスさまは人を創造された後、言いました。2章16節「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」そして、その後に命じたのです。17節「しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。」神さまは、「すべてのものを(肉を!)、今、あなたがたに与える」とおっしゃいました。けれども一つだけ条件があります。制限、禁止事項があるのです。その禁止事項を守ることによって、神さまへの愛と忠誠を表すためです。これもセカンドチャンスではないでしょうか。先の一つの禁止を人は守ることができませんでした。今度こそ、人はこれを守らなくてはいけません。その禁止事項は何でしょうか。4節「ただし肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」ということです。レビ記では、血の扱いについてのいろいろな規定が記されていますが、「いのち」と「血」は同格のものとして扱われています。「いのちは血」「血はいのち」ということです。この戒めは、イスラエルの中でずっと重んじられて来て、使徒の働き15章のエルサレム会議で、異邦人に対しては、律法を強いてはいけないと決議されましたが、「偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように」と、これだけは引き続き守るようにと言われています。

 どうしてでしょうか?神さまには明確な答えがあるのでしょうが、私たちはあれこれ想像することしかできません。私が思うに、肉を血のまま食べるのは残酷です。ホラー映画でしか見ない光景です。血は鉄分豊富でしょう、栄養価が高そうです。実際台湾では、豚やアヒルの血をゼリー状に固めたものを食べる食習慣があります。でも加熱してです。鮮血をそのまま食べたり、飲んだりするのは、さすがに残酷な感じがします。また、衛生的にもかなり不安です。多くの病気は、血を介して感染します。輸血などは、最新の注意を払わなければ、感染症を引き起こします。そして、これが一番大事なことだと思うのですが、血はいのちだからです。「血のあるままで食べてはならない」というのは、動物であってもそのいのちを軽んじてはならない。血が流れている生き物に対しては、それなりの敬意を払いなさいということだと思うのです。

 私たち日本人は、食事をする時に「いただきます」と言います。この習慣は他の国にはないそうです。この「いただきます」の由来には諸説あるのですが、その一つに、「生き物を殺して、その命をいただくことに感謝すること」というのがあります。今でこそ、私たちはパックに入ったきれいな肉や魚を買って来て食べますが、昔は、魚は必ずさばくところからしますし、ニワトリなら絞めるところから、イノシシや豚、牛などは、屠殺するところから始めます。そうすると、ああ、私たちは、動物のいのちをいただいているのだなと実感するのです。神さまが「血のあるままで食べてはならない」と決められたのは、おそらく、人間の美食のために、動物であってもそのいのちを無駄に殺してはならないといっているのではないかと思うのです。そうなるとどうでしょうか。身動きが取れないような鳥かごのタワーで、機械のように一生卵を産まされているニワトリやただ太らされてチキンにされるニワトリ。口に餌を流し込まれて肝臓を脂肪肝にして食べるフォアグラ。また、日本ではまだ食べられるものが多く破棄されていて、それをフードロスと言いますが、未だに毎日522万トンあるそうです。これはまだ減った方です。以前はもっと多かったのです。私たち現代人は、たくさんのいのちをないがしろにしているのです。全てのいのちは神さまのものです。神さまが肉食を許可してくださいましたが、「いただきます」の思いを忘れないようにしたいと思うのです。

  そして、「人のいのち」は、また別格です。5~6節「わたしは、あなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。いかなる獣にも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。」 人のいのちは別格です。なぜでしょうか。「神のかたち」だからです。神は、他の被造物は言葉で作られましたが、人間は神ご自身が手ずから造られました。そして、その鼻に息を吹き込んだのです。ただ、他の動物のように息をして、心臓が動いて、血が流れてというだけではない、魂が、霊が吹き込まれたのです。そしてなにより、「神のかたち」「神のイメージ」 に造られました。私たちは神に似せて、神の子どもとして生きるように造られたのです。ですから人間の血は特別です。神さまの前に、私たちは「高価で貴いのです」私たちは神さまの宝物です。ですから、そのいのちを奪ったり、軽んじたりしてはならない、絶対にしてはならない。もし人のいのちを奪うものがあれば、獣であっても人であっても、いのちにはいのちをもって償わせる!と神はおっしゃいます。そういえば、カインがアベルを殺したときに、神はカインに言われました。「いったい、あなたは何ということをしたのか。声がする。あなたの弟の血が、その大地からわたしに向かって叫んでいる。今や、あなたはのろわれている。そして、口を開けてあなたの手から弟の血を受けた大地から、あなたは追い出される。」ここにも「血」が出てきました。「血が大地から叫ぶ」というのは、アベルのいのちが叫んでいるということでしょう。「血といのちが同格」というのはこういうことです。この箇所は、「殺人者は、必ず殺されなければならない」というような単純な裁きのことばではありません。人のいのちの尊厳の根拠のことを言っているのです。人のいのちが軽んじられたり、傷つけられたりすること、ましてやいのちを奪うことは、決して許されないことなのだ!という神の切実な訴え、戒めなのです。ですから、ある異端が輸血拒否を信者に強いていますが、こんなのは言語道断です!救えるいのちを救わないことを神が命じるわけがない。「わたしの目にあなたは高価で貴い。わたしはあなたを愛している。」神は、私たちに「生きよ」と言います。どんなに傷ついてぼろぼろになっても、汚れてしまったと思っても、死ぬほどつらい状況にあっても、神は「生きよ」と言われるのです。私たちは神のかたち、神の子どもだから、神の宝物だから、生きる価値があるからです。

 一つのたとえ話をします。王様が、この「血には血を」「いのちにはいのちを」という戒めを大事にしていました。そして、国中におふれを出し、誰かが殺人の罪を犯せば、殺した人を死刑にするという法律を作り、それを実行しました。ところがある日、自分の息子が人を殺してしまったのです。王様は悩みました。自分が定めた法律を破るわけにはいきません。けれども愛するわが子を殺すことはできない。そしてその王様は、息子に王冠を預け、自ら死刑台に上がったのです。 

神は、私たちを生かすために、自ら、血の代価を払われました。「血には血を」「いのちにはいのちを」と神が命じたからです。私たちは、気づいているかいないかに関係なく、人のいのちを傷つけ、奪って生きています。私たちの平穏無事な生活の背後には、奴隷のように働かされている人々がいる、安い労働力としていのちを削られている女たちや子どもたちがいる。そして私たちの罪は、絶えず人を傷つけ、自分を傷つけて生きている。私たちには「血の価を要求」されてしかるべきなのです。けれども私たちはそれを払う能力がありません。 「だから」と神は言います。「だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする」。そう、神の御子がご自身の何の汚れもないきよい血をもって、私たちの罪を償ってくださったのです。それがイエス・キリストによる十字架の贖いです。私たちは、神の御子の血が流されるほどの価値ある存在なのです。神さまの目に私たちは高価で貴いのです。人は言うかもしれません。あなたは生産性がない、誰の役にも立っていない、社会のお荷物、生きている意味がない。けれども、そんな言葉に耳を貸さなくていい。私たちは、神の目に高価で貴いのです。祈りましょう。

 

コメント

このブログの人気の投稿

いのちがけで逃げなさい(創世記19:1~38)

「いのちがけで逃げなさい!」 創世記 19 章 長い聖書朗読になりました。前半のソドムが滅ぼされるところと、後半のロトと娘たちの近親相姦の記事を分けて扱おうとも思いましたが、「いのち」と「滅び」について、神さまの御思いと、人間の思いの落差というカテゴリーでくくれると思い、一気に読むことにしました。 ソドムの町には、み使い二人だけで来たようです。アブラハムが天幕を張っていたヘブロンからソドムまでは、約60キロ。アブラハムのところには、「日の暑いころ」(18:1)に訪れていますから、その後ゆっくりアブラハムのおもてなしを受けたとしたら、夕暮れにソドムに着いたというのはあり得ないのですが、そこはみ使いですから、超自然現象だと理解したいと思います。 み使いたちが到着すると、ロトがソドムの門のところに座っていました。当時は、長老格の人たちが、町の広場や門のところに座り、民を裁いていたと言います。また後に、ソドムの人が、ロトを批判して「こいつはよそ者のくせに、さばきをするのか!」と批判していますので、ロトは、ソドムの町でも知恵と人格において一目おかれていたことをうかがい知ることができます。 またロトは、アブラハムといっしょにいたころの「神の民」として生き方や文化、習慣みたいなものも残っていました。そしてもちろん、堕落したソドムにあっても、創造主なる唯一の神を信じていました。旅人を見ると、アブラハムと同様、立ち上がって彼らを迎え、丁寧にお辞儀をして、「ご主人がた、どうか、このしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊りください。」と申し出ています。み使いたちが、ソドムを訪れた目的は、神さまのもとに届いた、虐げられている者たちの叫びが本当かどうか見極めるということでしたから、「いや、私たちは広場に泊まろう」と答えたのですが、この町の治安の悪さを知っているからでしょうか、ロトは、「そんなこと言わないでぜひ!」としきりに勧めたので、み使いたちも折れて、ロトの家に泊まることにしました。 しかしその夜、事件は起こりました。ロトの家の周りに、町中の男たちが、若い者から年寄りまで集まって来きたのです。そしてロトの家を取り囲んで叫びます。「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。彼らをよく知りたいのだ!」この「知りたい」というのは、何も「お名前は?」「趣...

サラの死と埋葬(創世記23:1~20)

「サラの死と埋葬」 創世記12章1~20節   サラが天に召されました。127歳でした。今の私たちの感覚からすると非常に長寿ですが、アブラハムが召されたのは175歳ですから、それを思うと、当時としてはそれほど長寿だとも言えないかもしれません。聖書にはたくさんの女性が登場しますが、亡くなったときの年齢が記されているのは、なんとサラだけだそうです。このことからも、アブラハムだけでなく、サラも聖書の救いの歴史の中で重要な役割を果たしていたことがわかりますね。 サラの生涯は幸せだったでしょうか。いろんなことがありました。夫が神さまから呼ばれたことによって、住み慣れた土地を離れなければなりませんでした。たいていの女性は定住志向ですから、寄留者として生きなければならないことは、サラにとってはつらいことだったことでしょう。時には、いのちの危険があるようなところに寄留することもありました。そんなときには、決まって夫アブラハムは、自分のことを兄だと言ってくれと頼むものですから、彼女は2回もその土地の王に召し抱えられる危機に遭いました。それは、サラの美しさのゆえでした。最近はルッキズムと言って、容姿が美しいことが幸せの条件のように思われています。確かに美しいことで得をすることもあるかもしれませんが、美しさゆえの悩みもあるようです。美しさゆえの誘惑があり、落とし穴があるからです。 けれども、サラの生前の一番の悩みは、やはり子どもがいないことでした。一時は自分で子を産むことをあきらめて、女奴隷ハガルを夫に与えて、彼女によって子をもうけようとしました。けれども、実際に身ごもったハガルを見るのは耐えがたく、ハガルに辛く当たり、彼女が逃げ出すぐらいひどくいじめたのでした。そんな事件があった後、不思議な3人の旅人が来て、「来年の今ごろ、サラに男の子を産む」と告げました。その時サラは、天幕の陰に隠れて、思わず心の中で笑ったのです。ところが神はご真実で、サラは本当に身ごもり、一年後には子どもが与えられました。その時サラは、すでに90歳。しかし、子どもが与えられた喜びに浸る日々もつかの間、今度は女奴隷ハガルの子イシュマエルが邪魔になります。そして、イサクの乳離れの祝いの席で、イシュマエルがイサクをからかったことを機に、夫にイシュマエルを追い出すようにと攻め寄り、とうとう二人を家か...

約束の子の誕生(創世記21:1~21)

「約束の子の誕生」 創世記 21 章1~21 21章の1節から8節までは、喜びと笑いに満ちています。とうとう、アブラハムとサラとの間に子どもが生まれたからです。この子の誕生は、まさに神さまによる奇跡でした。聖書はそのことを強調しています。1節「主は約束したとおりに」、「主は告げたとおりに」、2節「神がアブラハムに告げたその時期に」。また、それが神の御力の表れであることを示すために、神さまが「来年の今ごろ」と告げたまさにその時期に生まれたこと。また、その時アブラハムは100歳だったこと(サラも90歳だったこと、)。そして、生まれた子が、主が告げたとおりに、男の子だったことを語っています。 そしてもう一つ。聖書は、このイサクの誕生は、アブラハムのためだけではない、サラのためであったことも示しています。1節では「(主は)サラのために行われた」、6節では、「神は私(サラ)に笑いをくださいました」とあるように、神さまは、サラを覚え、顧みてくださったのです。 生まれてきた子は、イサクと名付けられました。「彼は笑う」という意味です。日本で、この「笑う」という字を使ってイサクと読ませる名前を持っている男の子はいるか調べてみました。ありました!笑いを作ると書いて、「笑作(いさく)」と読ませています。 「笑い」とは言ってもいろんな種類の笑いがあります。17章ではアブラハムが笑い、18章ではサラが笑っています。どちらも不信仰から来る笑いでした。神さまが、アブラハムとサラの間に子どもを授けると約束しているのに、そんなことあるはずがない…と言って彼らは笑ったのです。けれども今回の笑いは、喜びと賛美の笑いでした! よくクリスチャンは、3 K (固い、厳しい、暗い)と言われますが、私たちクリスチャンこそ、この喜びの笑いがふさわしいのではないかと思います。私たちの教会の役員会は、よく笑います。がはは、がははと笑いながら、1時間半ぐらいが、あっという間に過ぎていきます。神さまはご真実なお方で、私たちの教会の必要をご存じで、よい計画を持っておられる、それを信じているから笑いが絶えないのだと思います。アブラハムは祝福の基と言われましたが、笑いの基でもありました。私たちクリスチャンも、家族に笑いを届け、学校や職場に笑いを届けるものでありたいですし、私たちの教会も、地域に笑いと希望を届け...