スキップしてメイン コンテンツに移動

ノアの失態(創世記9:18~29)


「ノアの失態」

創世記9:18~19

今日は「ノアの失態」という説教題をつけました。今の若い人が言うと、「やらかしたノア」という感じでしょうか。ノアは、聖書に出て来る人物の中で、両手放しでほめられている立派な信仰者でした。「ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(6:9)とある通りです。

ところが今日のノアはどうしてしまったのでしょう? 20節を見ると、ノアはぶどう畑を作る農夫になったと言っています。この「農夫」ということばは、直訳すると「土の人」、カッコよく言うと「大地の人」と言います。そう考えると、この表現は、人類最初の人、アダムとリンクしているのかもしれません。大洪水の後の再創造ともいえる新しい世界。彼は、アダムとエバが神さまに、思うままにいくらでも食べてよいと言われていたあの果樹園を思い描いていたのでしょうか。こうして、世界で初めてぶどう畑を作ったのです。たくさんの収穫があると、食べきれなくて無駄になってします。そこでジュースにして保存してみます。こうして、しばらく放っておいて、味見をすると発酵している。しまった!腐ってしまったと、はじめは思ったかもしれませんが、そのうち、発酵したぶどうジュース、つまり、ぶどう酒(ワイン)のおいしさに目覚めていったのでしょう。余談ですが、納豆でもヨーグルトやチーズ、台湾の臭豆腐でも、はじめこれらを食べ始めた人はすごいです。勇気があります。ぶどう酒のおいしさを発見したノアは、どれだけ飲むと人は酔っぱらうのか、加減がわからなかったようです。そして、ついつい飲み過ぎて、正気を失い、天幕の中で、服を脱いで、裸になって、仰向けにぶっ倒れてしまったのでした。

飲酒自体は罪ではありません。確かに、アメリカでも日本でも、クリスチャンたちは禁酒運動をしてきた歴史があります。お酒のせいで、一家の主(あるじ)がアル中になり、家庭の中に暴力やひどい浪費が入り込み、多くの家庭が不幸になったからです。この禁酒運動のせいで、キリスト教会では、飲酒=罪のような公式ができました。私の母教会の背景もそうですし、同盟教団の年配の牧師たちも、ほとんどの牧師は飲まないでしょう。けれども、お酒自体が悪いわけではありません。たとえば詩篇104篇15節には、「ぶどう酒は人の心を喜ばせ」と出て来ますし、民数記15章には主へのささげもの、芳ばしい香りとしてぶどう酒のことが述べられています。ただ、それ以上に聖書は、お酒に酔う、お酒におぼれることに対しては否定的です。箴言21章17節に「快楽を愛する者は貧しい人となり、ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない」とあります。また新約聖書では、何ヶ所か酒に酔うことを戒める聖句があり、代表的なのは、エペソ人への手紙5章18節、「ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」

お酒は罪ではありません。けれども「要注意」、「取扱注意」だということです。お酒のせいで、一生を棒に振った人、取り返しのつかないことをしれかした人、大変な事件に巻き込まれた人の例を挙げれば、枚挙にいとまがありません。あの正しい人ノアでさえ、ぶどう酒を飲み過ぎて、酔っぱらって、自分を見失ってしまったのです。「君主危うきに近寄らず」「自分を過信しない」ということです。

けれども酔いつぶれたノアに対して、神さまは特に咎めていません。酔っぱらって、裸になっていたノアは、確かに隙だらけですし、みっともないですが、それは「失敗」であって、「罪」ではありませんでした。私たちは、失敗と罪とを区別する必要があるようです。子どものしつけについてもそうです。子どもがテーブルの上のお味噌汁を不注意でひっくり返してしまった。これは失敗です。親は叱る必要はありません。けれども、弟や妹をいじめる、たたくなどの行為をしたときには、叱ります。人は誰でも失敗をします。人は失敗しながら学び、成長していくものです。私たちも、人生を振り返れば、たくさんの失敗、失態を繰り返してきたでしょう。けれども、神さまはそれを咎めることはなさいません。それどころか、失敗さえも用いて、主の愛の御手の中で、私たちの成長のために用いてくださるのです。

さて、ノアの失態に関しては、何のお咎めもなかったのですが、それに比べて厳しいのは、ハムへのさばきでした。彼は酔った父への間違った対応のせいで、その身にのろいを招くことになります。22節「カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。」ハムは、24節を見ると末っ子だったようです。この末息子が、外から帰って来ると、父親が天幕の中で、裸でひっくり返っているではありませんか。それを見たハムはどうしたか。「父の裸を見た」とあります。この「見た」は、ヘブル語では「注視する」「じっと見つめる」という意味です。それは、性的な、いやらしい目で見たということでなくてなんでしょう。彼は目で、父親を侵したのです。この「見る」ということばで、思い出されるのは、エバのことです。彼女は、創世記の3章で、神さまが食べてはならないと禁じていた木の実を見ました。じっと見つめたのです。3章6節「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」人類最初の罪は、「見る」ところから始まりました。じっと見て、目が離せなくなり、そしてエバはそれを取って、食べたのです。「ハムが父の裸を見た」という表現に罪のにおいがします。

現代社会はインターネット社会です。インターネットは私たちの生活を便利で豊かで、楽しいものにしましたが、多くの人はインターネットの網(ネット)、罠に引っかかってもがいています。特にポルノグラフィーの問題は深刻です。ひと度インターネットをつなげれば、ポルノグラフィーはいやおうなしに目に飛び込んできます。そして、誘惑に負けてそこに長く留まると、次からは、その類の画像が出てい来る頻度が高くなします。そしてそこをクリックしようものなら、さらに刺激の強い性的な情報が私たちの目を捉えます。そして多くの人々は、ポルノグラフィーに捕まえられて、中毒になり、日常生活や結婚生活に支障きたすほどに影響が出るのです。私たちも目の誘惑には注意したいと思います。

さて、次にハムがしたこと。それは「外にいた二人の兄弟に告げた」ということです。裸の父をそのままにして、兄たちにもこの面白い光景を見せてやろうと思ったのでしょう。「告げる」、これも私たちが陥りがちな罪です。先ほどの「見る」という罪は、男性が陥りがちな罪かもしれませんが、この「告げる」は、女性かもしれません。女性は概して、ゴシップが好きですし、女性が集まれば、噂話に花が咲きます。ハムは、こうして父親の失態を他の兄弟に告げて、いっしょに父をあざ笑おうとしたのです。

ここで、先ほどから「カナンの父ハム」という表現がされていることに疑問をもっておられる人もおられるでしょう。25節では、酔いからさめたノアが、「カナンはのろわれよ」と言っていることにも引っ掛かりを覚えます。罪を犯したのはハムなのに、なぜ息子カナンと彼の子孫をのろうのか。その答えは、カナンが、後のカナン人の祖先になったことにあります。モーセ率いるイスラエルの民は、エジプトを出て、乳と蜜の流れる、約束の地カナンを目指すのですが、そこには先住民であるカナン人が住んでいました。彼らは非常に不道徳な文化と宗教を持っていました。子どもをいけにえとして神にささげるような宗教的残酷さがあり、性的な不道徳がはびこり、当時最も倫理性を欠く民族だと言われていました。そんなことを暗示してのカナンへのさばきだったのです。こうしてイスラエルは、後に約束の地に入り、先住民であるカナン人を滅ぼし、ノアが宣言したように、兄たちのしもべとなるのでした。 

さて、末っ子のハムに「来て!見て!お父さんがお酒を飲んで酔っ払って、裸で倒れているよ!」と告げられた二人の兄セムとヤフェテは、どんな反応をしたでしょう。23節「それで、セムとヤフェテは上着を取って、自分たち二人の肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおったのです。彼らは顔を背け、父の裸は一切見ませんでした。彼らは、一つの大きな上着を二人で肩にかけて持ったのか、それぞれ自分の上着を脱いで、それを広げて肩にかけ、後ろ向きに歩いて行ったのかはわかりませんが、彼らは、協力して、父のところに近づいて、父の裸を覆ってあげたのです。父への尊敬と愛が、彼らをして、そのような行動をとらせたのでしょう。

十戒の第五戒は、「あなたの父と母を敬え。」です。そして、出エジプト記の20章12節では続けてこう記されています。「あなたの神、【主】が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」まさに大洪水のあと、新しい出発を始めるノアたち家族のためにあるようなみことばです。主が与えようとしておられるその土地で、あなたがたが家族、親族、やがては民族、国民が、仲良く、幸せに生きるために、まずはあなたの父と母を敬いなさい。聖書はそう教えているのです。

酔いから覚めたノアは、カナンをのろったあと、二人の兄を祝福すると思いきや、まずは神さまを賛美しています。「ほむべきかな、セムの神、主!」どうしてでしょう。それは神さまの祝福の流れが、セムを通して続いたからです。神の民としての祝福の流れは、アダムからその子セツに受け継がれ、次にエノシュ、そしてエノクに受け継がれ、ノアまで来て、ここで途切れることなく、セムが受け継いでくれた。自分の失態は重々承知、けれどもそれでも神さまは、恵みをもって、神の民のきよき流れを途絶えさせなかった!そんな神さまにノアは、感謝と賛美をささげているのです。

ノアは大洪水のあと350年生きて、全生涯は950年だったと記されています。最大の賛辞を受けて出発したノアの人生の記録。けれども最後に記されたのは、ノアの失態でした。聖書は英雄を作らないと聞いたことがありますが、本当です。ノアも人だった。罪を持った一人の人間だったのです。そんなノアの醜態と恥を二人の息子が上着で覆ってくれました。「愛は多くの罪を覆う」とのⅠペテロのみことばが思い出されます。私たちの罪の性質はなくなることはありません。ですから、それは覆われなければならない。私たちの裸の恥は覆われなくてはならないのです。アダムとエバが罪を犯してエデンの園を追い出されるときに、木の葉っぱをつなぎ合わせたような頼りない衣ではかわいそうだと、神さまが皮の衣を着させてくださったように、私たちは神さまに覆っていただけなければ、恥をさらしては生きていけない人間なのです。そんな罪人である私たちの恥を覆うために、罪を覆うために、神さまが用意してくださった究極の衣、それはイエス・キリストでした。ガラテヤ人への手紙3章26-27節「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」神さまは、私たちにキリストを着させてくださり、そして、私たちを覆っているキリストを見て、あなたはきよいとおっしゃってくださるのです。私たちはもう、自分の裸を恥じる必要はないのです。それが私たちの信じる福音です。お祈りましょう。


コメント

このブログの人気の投稿

いのちがけで逃げなさい(創世記19:1~38)

「いのちがけで逃げなさい!」 創世記 19 章 長い聖書朗読になりました。前半のソドムが滅ぼされるところと、後半のロトと娘たちの近親相姦の記事を分けて扱おうとも思いましたが、「いのち」と「滅び」について、神さまの御思いと、人間の思いの落差というカテゴリーでくくれると思い、一気に読むことにしました。 ソドムの町には、み使い二人だけで来たようです。アブラハムが天幕を張っていたヘブロンからソドムまでは、約60キロ。アブラハムのところには、「日の暑いころ」(18:1)に訪れていますから、その後ゆっくりアブラハムのおもてなしを受けたとしたら、夕暮れにソドムに着いたというのはあり得ないのですが、そこはみ使いですから、超自然現象だと理解したいと思います。 み使いたちが到着すると、ロトがソドムの門のところに座っていました。当時は、長老格の人たちが、町の広場や門のところに座り、民を裁いていたと言います。また後に、ソドムの人が、ロトを批判して「こいつはよそ者のくせに、さばきをするのか!」と批判していますので、ロトは、ソドムの町でも知恵と人格において一目おかれていたことをうかがい知ることができます。 またロトは、アブラハムといっしょにいたころの「神の民」として生き方や文化、習慣みたいなものも残っていました。そしてもちろん、堕落したソドムにあっても、創造主なる唯一の神を信じていました。旅人を見ると、アブラハムと同様、立ち上がって彼らを迎え、丁寧にお辞儀をして、「ご主人がた、どうか、このしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊りください。」と申し出ています。み使いたちが、ソドムを訪れた目的は、神さまのもとに届いた、虐げられている者たちの叫びが本当かどうか見極めるということでしたから、「いや、私たちは広場に泊まろう」と答えたのですが、この町の治安の悪さを知っているからでしょうか、ロトは、「そんなこと言わないでぜひ!」としきりに勧めたので、み使いたちも折れて、ロトの家に泊まることにしました。 しかしその夜、事件は起こりました。ロトの家の周りに、町中の男たちが、若い者から年寄りまで集まって来きたのです。そしてロトの家を取り囲んで叫びます。「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。彼らをよく知りたいのだ!」この「知りたい」というのは、何も「お名前は?」「趣...

サラの死と埋葬(創世記23:1~20)

「サラの死と埋葬」 創世記12章1~20節   サラが天に召されました。127歳でした。今の私たちの感覚からすると非常に長寿ですが、アブラハムが召されたのは175歳ですから、それを思うと、当時としてはそれほど長寿だとも言えないかもしれません。聖書にはたくさんの女性が登場しますが、亡くなったときの年齢が記されているのは、なんとサラだけだそうです。このことからも、アブラハムだけでなく、サラも聖書の救いの歴史の中で重要な役割を果たしていたことがわかりますね。 サラの生涯は幸せだったでしょうか。いろんなことがありました。夫が神さまから呼ばれたことによって、住み慣れた土地を離れなければなりませんでした。たいていの女性は定住志向ですから、寄留者として生きなければならないことは、サラにとってはつらいことだったことでしょう。時には、いのちの危険があるようなところに寄留することもありました。そんなときには、決まって夫アブラハムは、自分のことを兄だと言ってくれと頼むものですから、彼女は2回もその土地の王に召し抱えられる危機に遭いました。それは、サラの美しさのゆえでした。最近はルッキズムと言って、容姿が美しいことが幸せの条件のように思われています。確かに美しいことで得をすることもあるかもしれませんが、美しさゆえの悩みもあるようです。美しさゆえの誘惑があり、落とし穴があるからです。 けれども、サラの生前の一番の悩みは、やはり子どもがいないことでした。一時は自分で子を産むことをあきらめて、女奴隷ハガルを夫に与えて、彼女によって子をもうけようとしました。けれども、実際に身ごもったハガルを見るのは耐えがたく、ハガルに辛く当たり、彼女が逃げ出すぐらいひどくいじめたのでした。そんな事件があった後、不思議な3人の旅人が来て、「来年の今ごろ、サラに男の子を産む」と告げました。その時サラは、天幕の陰に隠れて、思わず心の中で笑ったのです。ところが神はご真実で、サラは本当に身ごもり、一年後には子どもが与えられました。その時サラは、すでに90歳。しかし、子どもが与えられた喜びに浸る日々もつかの間、今度は女奴隷ハガルの子イシュマエルが邪魔になります。そして、イサクの乳離れの祝いの席で、イシュマエルがイサクをからかったことを機に、夫にイシュマエルを追い出すようにと攻め寄り、とうとう二人を家か...

約束の子の誕生(創世記21:1~21)

「約束の子の誕生」 創世記 21 章1~21 21章の1節から8節までは、喜びと笑いに満ちています。とうとう、アブラハムとサラとの間に子どもが生まれたからです。この子の誕生は、まさに神さまによる奇跡でした。聖書はそのことを強調しています。1節「主は約束したとおりに」、「主は告げたとおりに」、2節「神がアブラハムに告げたその時期に」。また、それが神の御力の表れであることを示すために、神さまが「来年の今ごろ」と告げたまさにその時期に生まれたこと。また、その時アブラハムは100歳だったこと(サラも90歳だったこと、)。そして、生まれた子が、主が告げたとおりに、男の子だったことを語っています。 そしてもう一つ。聖書は、このイサクの誕生は、アブラハムのためだけではない、サラのためであったことも示しています。1節では「(主は)サラのために行われた」、6節では、「神は私(サラ)に笑いをくださいました」とあるように、神さまは、サラを覚え、顧みてくださったのです。 生まれてきた子は、イサクと名付けられました。「彼は笑う」という意味です。日本で、この「笑う」という字を使ってイサクと読ませる名前を持っている男の子はいるか調べてみました。ありました!笑いを作ると書いて、「笑作(いさく)」と読ませています。 「笑い」とは言ってもいろんな種類の笑いがあります。17章ではアブラハムが笑い、18章ではサラが笑っています。どちらも不信仰から来る笑いでした。神さまが、アブラハムとサラの間に子どもを授けると約束しているのに、そんなことあるはずがない…と言って彼らは笑ったのです。けれども今回の笑いは、喜びと賛美の笑いでした! よくクリスチャンは、3 K (固い、厳しい、暗い)と言われますが、私たちクリスチャンこそ、この喜びの笑いがふさわしいのではないかと思います。私たちの教会の役員会は、よく笑います。がはは、がははと笑いながら、1時間半ぐらいが、あっという間に過ぎていきます。神さまはご真実なお方で、私たちの教会の必要をご存じで、よい計画を持っておられる、それを信じているから笑いが絶えないのだと思います。アブラハムは祝福の基と言われましたが、笑いの基でもありました。私たちクリスチャンも、家族に笑いを届け、学校や職場に笑いを届けるものでありたいですし、私たちの教会も、地域に笑いと希望を届け...