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二本の剣(ルカの福音書22:35~38)


「剣が二本」(ルカ223538

 説教者:齋藤五十三師

 先週の水曜日からキリスト教会の暦は「四旬節」に入りました。イエス・キリストが十字架にかかって死なれた、その苦難の道のりを覚える季節です。今日は、ルカ福音書から学びます。場面は十字架前夜、最後の晩餐の中でのイエスさまと弟子たちのやり取りです。
 一言お祈りします。(祈り)

 1.  十字架の前夜のこと

35節(読む)

このように主が、弟子たちをかつて遣わしたことを振り返らせたとき、この場には緊張感が漲っていたと思います。このようにして主が振り返らせたのは、ルカ福音書9章、そして10章にもある派遣の場面です。主イエスは弟子たちを、神の国を伝えるために遣わすのですが、そのとき主は弟子たちにお命じになったのでした。「旅には何も持って行かないように」「財布も袋も持たず、履き物もはかずに行きなさい」。主イエスがこのようにお命じになったのには理由がありました。この命令はその当時の彼らを取り巻く雰囲気をよく伝えています。9章、10章の頃のイエスさまの人気はもう大変なもので、出かければフィーバーというか、大勢の人々がすぐに集まったのです。9章の派遣の直後には「五千人の給食」と呼ばれる有名な出来事が記されていますね。イエスさまが出かけると、すぐに何千人という人々が集まるほどに人気は絶大。だから、イエスの弟子というだけで、家に迎え入れ、助けてくれる人たちが至る所にいたのです。だから何も持たずに旅に出ることができた。「働く者が報酬を受けるのは当然」と言いながら主は弟子たちを遣わしたのでした。

けれども、時が過ぎてこの十字架の前夜に主イエスは、何も持たずに遣わした、その命令を変更するのです。36節(読む)

 イエスさまがかつての命令を変更された。これは四つある福音書の中で、ルカだけが書き留めている特別な記事です。ルカは特別な意図をもってこれを書いたのです。かつては「何も持たずに」弟子たちを遣わしたのですが、今後は財布も袋も持つように。おまけに剣も必要だから、持っていない者は買うように、と。この命令の変更は、弟子たちを取り巻く環境が今、大きく変わろうとしていることを物語っています。

それは22章の冒頭からすでに明らかです。前の頁の3節、4節をご覧ください。そこでは弟子のユダがお金でイエスさまを裏切っているのです。主イエスの十字架の死が刻一刻と迫りつつありました。それをイエスさまも知っておられますので、15節、最後の晩餐の初めには、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました」と口にし、その後にパンを取っては、これは「わたしのからだ」。ぶどう酒の入った杯を取ると「これはあなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約の血」だと十字架を指し示していく。特に21節、22節の言葉は弟子たちを驚かせます。イエスさまを裏切る者が、今、同じ食卓についている、と。いったい誰のことなのだろうと、弟子たちは心を動揺させるわけです。そして、続く主の言葉はさらに弟子たちを不安にさせたはず。何と弟子のリーダー格ペテロが、サタンの誘惑に負けてしまうのだと。31節です(シモンは、ペテロの古い名前です… 読む)。ペテロは、そんなことはないと慌てて否定しますが、イエスさまは決定的なことを告げます。34節(読む)。

 この22章では、これから起こる苦しみ、裏切り、そしてペテロの躓きを聞かされて、弟子たちの心は間違いなく緊張していたはず。その張り詰めた雰囲気の中で主は、37節を語ったのです。

37節(読む)。

2.「不法な者たちとともに」

 37節のポイントは、弟子たちを取り巻く環境が今夜一気に変わってしまう、ということでした。「不法な者たち」とは犯罪者のことです。イエスさまは明日には十字架にかかって、犯罪者の汚名を着せられてしまう。弟子たちは、もはや人気者イエスの弟子ではなくなるのです。明日からは犯罪者、十字架に死んだイエスの弟子。もはや誰も助けず、旅の世話をしてくれる人もいなくなる。そのことを心せよと、主は弟子たちに気持ちの準備をさせたのです。

 「財布のある者は財布を持ち、同じように袋を持ちなさい」と主は言われますが、これは何も、今後は「ひたすら物に頼れ!世の中は金だ」と言っておられるわけではありません。これは周囲の雰囲気が一変していくことへの心備えをさせるものです。

 その後に続く「剣を買いなさい」も同様です。イエスさまは何も、「武器を取って戦え」と言っておられるわけではない。ここに書かれている剣とは、ギリシア語では「マカイラン」という言葉で、これは護身用の刃の短い短剣です。戦争で使うような物騒な剣とは違うのです。実はこの後、イエスさまが逮捕される所で、弟子の一人が勘違いの剣を振り回して、人を傷つけてしまう場面がありますね。イエスさまはその弟子を「やめなさい」と叱って、その弟子が斬りつけて右耳を落とした敵対者(大祭司のしもべですが)その耳を、イエスさま自らその場で癒してあげる場面があります。「やめなさい」と言われたように、イエスさまは、武器を取って戦えと勧めているわけではないのです。今後は、イエスの弟子ということで、危害を加える者がいるかもしれないから気を付けよという、これもまた心備えを促すものであったのでした。そうです。そもそもキリスト者の武器は剣ではない。私たちの武器は、祈りと御言葉であると、聖書も教えています。主はものの譬えとして剣を買えと言いながら、一変してしまう弟子たちの立場に心の準備をさせたのでした。

 ところが、ところが、弟子たちはこのメッセージを正しく受け取ることができなかったのです。しかも、タイミングの悪いことに、弟子たちの手元にはたまたま剣が二本あった。38節の弟子たちの返事は何とも得意げではありませんか。「主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります」。得意になった顔つきが目に浮かぶかのようです。こういう顔を今は、「ドヤ顔」と言いますね。「どや」は、元は関西弁から来ているそうですが、弟子たちは得意気です。ちなみに弟子たちが持っていたのも、「マカイラン」、先ほど申し上げた護身用の短剣です。当時は旅をすれば夜盗、強盗に出くわす時代。旅をする人々が普通に持ち歩いていたのでしょう。そして弟子たちも持っていた。「ここに剣が二本あります」と得意気のドヤ顔。ああ、何という勘違い。弟子たちはイエスさまの意図を正しく汲み取れなかったのでした。

 弟子たちの話がこのように噛み合わない様子は、福音書の至る所に記されています。この22章には、この他にも噛み合わない様子が見られます。イエスさまが十字架に向かうことを予告された直後の24節、弟子たちは「自分たちの中で誰が一番偉いか」と議論を始める始末。最後の晩餐は、イエスさまが、自ら弟子たちの足を洗って、仕え合う愛を示した夜でした。それなのに、誰が一番偉いかと、、。こうした噛み合わない様子は、弟子たちの間によく見られるのですが、齋藤家の晩餐、我が家の夕食でもよく起こります。そのほとんどは私ですが、噛み合わないことを言って周囲をイラつかせてしまう。話が噛み合わないと、人はイライラするものです。

 ところが、この噛み合わない夕食の席でイエスさまは不思議な言葉を口にします。「剣が二本」と胸をはる、このドヤ顔の弟子たちに、イエスさまは何と答えたのでしたか。「それで十分」と答えられた。「それで十分」とはどういう意味か。これは謎の言葉で、聖書注解者たちも頭を悩ますのです。多くの注解者はこのように説明する。イエスさまは、余りの噛み合わないやり取りに呆れてしまった、と。そして話を早く終わらせようと、「それで十分」と短く答えたのだと。皆さんはここをどのように読まれるでしょう。

 いずれにせよ弟子たちは勘違いをした。そして、剣二本を持ったまま、この後イエスさまが逮捕されるオリーブ山に向かい、この勘違いの剣を振り回すことになるのです。そうです。イエスさまを逮捕しようとやって来た、大祭司のしもべの右耳を切り落とす。49-51節です。そこでイエスさまは「やめなさい」と叱るのですが、この勘違いの剣を振り回した弟子とは、実はペテロであった、とヨハネ福音書を読むと分かるのです。

3.      「それで十分」??

 不思議な言葉です。「それで十分」。多くの注解者が言うように、イエスさまは噛み合わない弟子たちに呆れて、「それで十分」と言ったのでしょうか。「だめだこりゃ」と内心思いながら、適当に弟子たちをあしらい、「それで十分」と言われたのでしょうか。実は私は、この場面を記したルカの意図は違う、と思っているのです。

 四つの福音書を読み比べると、確かにそこには、イエスさまが弟子たちの様子に呆れる場面がいくつか描かれています。福音書にはそれぞれに書き味がありますね。例えば、イエスさまのすぐ近くにいたと思われるマタイやマルコの福音書は、弟子たちに呆れて叱る厳しいイエスさまを時折、率直に描いています。ヨハネはヨハネで、イエスさまの付き人のように寄り添っていましたので、肌のぬくもりのような独特の味わいを私たちに伝えています。その一方で、ルカの描くイエスさまはどうかと言えば、他の福音書と少し違う、懐深いイエスさまの姿が顕著です。特に、裏切りが起こるこの22章はそうです。24節で弟子たちが、誰が一番偉いか、などと議論をした後では、そうした彼らをイエスさまは叱らず、丁寧に諭して最後は励ますのです。28節から後です。あなたがたは試練の時に一緒に踏みとどまってくれた人たちだから、とイエスさまは励ましています。また他の福音書は、弟子たちが皆イエスさまを見捨ててしまうことを予告しているのに、ルカは、そうした弟子たちの惨めさを語らない。このように、弟子たちを見つめる主イエスの眼差しは、ルカにおいては基本的に温かい。シモン・ペテロに対してもそうですね。三度にわたって「イエスを知らない」と言うだろうと、厳しい現実は予告しても、そこにはとりなしの祈りが伴っています。32節(読む)。大失敗をするけれど大丈夫。主が祈ってくださった。だから立ち直ったら他の兄弟たち、仲間たちを力づけてやって欲しいと。このようにルカ福音書の描く十字架前夜の主イエスは、弟子たちを支える姿勢が顕著です。そういうイエスさまが言われた「それで十分」とは、いったいどのような意味なのでしょう。

 私は、イエスさまの意図はこうであったはず、と、今日は一人語りのように語ってみたいと思います。「剣が二本」と胸を張る、勘違いの弟子たちに向けた主の心はこうではなかったか、と。

 「わたしの弟子たちよ、『それで十分』。あなたがたが未熟であることをわたしはよく分かっている。だから今はそれで十分。あなたがたが弱く、愚かで罪を抱えているから、わたしはこの後、一人で十字架に向かおう。十字架の上であなたの罪も愚かさも背負うから、十分。それ以上、何も言わなくて良い。

 シモン・ペテロ、わたしの愛する弟子よ、あなたのことも分かっている。あなたのためにはすでにとりなし祈ったよ。信仰がなくならないようにと。だから立ち直る時がくるだろう。もちろん、あなたはこの後に躓いてしまう。オリーブ山では勘違いの剣を振り回す。でも、わたしがそれを留めよう。もし傷を受ける者があれば、たとえそれが敵であっても、おまえが傷を負わせた相手をわたしが癒そう。今は、わたしの言うことがおまえには分からないだろう。でも十分。だからわたしは一人十字架に向かうのだ。わたしがすべてを担うから、恐れなくて良い。今はこれで十分。やがて立ち直ったら、十字架と復活の福音を証ししなさい、と。

 結び

 皆さん、ルカ福音書の文脈に照らすときに、これがイエスさまの思いであろうと、私は信じるのです。改めて気づかされるのは、主の忍耐と赦しの深さです。愚かな弟子たちを励まし、とりなし、主は一人で十字架に向かっていかれる。

 私たちも弟子たちの愚かさを笑えない、と思いました。私たちもしばしば御言葉を取り違え、噛み合わない応答をし、愚かな剣を振り回してしまうことが、あるのではありませんか。

イエスさまが言われた37節「不法な者たちとともに数えられた」とは、旧約のイザヤ書5312節の引用です。今朝の招きの御言葉なのですが、この12節は次のように結ばれています。「彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする」。そう、十字架で不法な者たちとともに数えられた主イエスは、私たちの罪を負い、私たちのためにとりなすお方であった。私たちも、そのように背負われ、とりなしを受けている。主のとりなしの祈りは、ペテロだけでなく私たちをも支えている。だから私たちもこの受難の季節を経た後には、他の兄弟姉妹を励ますものでありたい。十字架と復活の福音を証しする者でありたいと願った、今日の御言葉のひとときでした。お祈りします。

 天の父よ、感謝します。この深いとりなし、赦しのゆえに、私たちは神の子どもとされました。イエスが愛したように私たちも赦し合い、愛し合い、キリストのからだを建て上げることができますように。まことの羊飼い、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。


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