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わたしの羊を飼いなさい(ヨハネの福音書21:15~19)


「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21:15-19

 

1.    新たな派遣のために

 14節(読む)

 主イエスと弟子たちは、三度目の再会をともにしていました。場所は、主と弟子たちが最初に出会った思い出のガリラヤの湖畔。そこは確かに思い出の場所なのですが、先週、私たちは学びました。弟子たちは、思い出ではなくて、復活し、今も生きてともにおられる主イエスと出会う必要があったのです。それがこのガリラヤ湖畔で実現したのです。

 このように湖の畔で食事を共にするのは、以前もよくあったことだと思います。ペテロ、ヤコブ、ヨハネは漁師出身の弟子たちで、炭火で魚を焼いての朝食は、いわゆる「漁師めし」だそうです。そのように食事をしながら、彼らはかつて、ガリラヤで神の国の福音を伝えた日々を振り返っていたかもしれません。神の国を宣べ伝え始めたのは三年前のこと。この三年は密度の濃い日々でした。主イエスと寝食を共にし働く中、弟子たちはしばしば主の御業に驚き、その教えに学びながら過ごしたのです。でも、そんな日々の最後に挫折があったのでしたね。弟子のひとりが裏切り、主イエスは十字架に引き渡され、弟子たちは、主を見捨てて皆が逃げてしまった。振り返るほどに、苦々しい、心に痛みを覚える挫折でした。

 しかし、そんな弟子たちを主イエスは再び、復活の後、最初に出会ったこのガリラヤに招いたのです。もう一度、このガリラヤから、という再出発。そして彼らは新たな派遣のときを迎えていたのでした。

 しかし、ここに一つだけ、新たな派遣の前にどうしても取り扱わなければならないことがありました。それはまるで、喉に刺さった魚の骨のよう。それを抜かないと食事も喉を通らない。この朝食の炭火がそれを象徴的に物語っています。この「炭火」という言葉、実は新約聖書に二回しか出てこない珍しい言葉。一回目、つまりそれが最初に出てきたのはどこでしたか。それは18章18節、十字架前夜の大祭司の中庭での炭火でした。その炭火を前にペテロは、「自分はイエスを知らない」と三度にわたって否定してしまう。そう、あの忌まわしい傷が、ついに、このガリラヤ湖畔で取り扱われていくのです。この取り扱いの中で、一つのことにご注目ください。主はペテロに三度問うのですが、ただ同じ問いを繰り返しているのではない。問いかけるほどに、実は、その問いが少しずつ深くなっていくのです。

 

2.    三度にわたって問う

まず一回目、15節(読む)

 「ヨハネの子シモン」。これは少し改まった呼び方です。この改まった口調にペテロは、緊張したのではなかったですか。この後、何か大事なことが問われるのではないか、という、ピリッとした雰囲気が漂っただろうと思う。

 主イエスは問うのです。「あなたは、この人たち(つまり他の弟子たち)が愛する以上に、わたしを愛していますか」。こう問われて、かつてのペテロなら間違いなく胸を張って言い放ったことでしょう。「もちろんです。私は他の弟子にもまさってあなたを愛しています」と。 そういえば、そのように、十字架前夜にも胸を張ったペテロだったと思い出します。しかし、この時は違っていました。「はい、主よ… あなたがご存じです」と胸を張ることなく、自分で主張するのでもなく落ち着いて答えていく。以前のペテロと違います。もう、自分を大きく、立派に見せる必要はない。主はすべてを知っている。 肩から力を抜いて「あなたがご存じです」。他の弟子と自分を比べることからも自由にされて、すべてを主に委ねていく。

 

明らかにペテロは、以前の彼とは違っていました。挫折の痛みの中で、主の弟子ペテロは、実は深い取り扱いを受けていたのでした。いっときの間、心は痛かったかもしれない。それでも、あの躓きにも意味があった。そんな成長のあかしを見た主イエスは、「わたしの子羊を飼いなさい」と命じたあと、さらに深く問いかけていく。

 

 二回目、16節(読む)

 最初の問いかけで、分かったことがありました。ペテロの成長です。他の弟子との比較からも解放されて、自分を大きく見せようともしなくなったペテロ。 「あなたがご存じです」と答えた、そのペテロの言葉をしっかり受け取って、主は、もう一度問うのです。 それでは、他の弟子との比較ではなく、あなた自身の愛はどうか。一対一で向き合いながら、主は再度問うていきます。「比較ではなく、あなた自身はどうなのだ」と。そして、その問いにペテロは真っすぐに答えます。「はい、主よ… あなたがご存じです」。それを受け取って主は再び「わたしの羊を牧しなさい」と言われました。 15節の子羊と16節の羊、そして「飼いなさい」と「牧しなさい」。少し違いますが、意味に大きな違いはありません。いずれにせよ主イエスは、ペテロの答えを受け取って、ご自分の大事な羊、神の教会をペテロに委ねていくのです。

 

 そして、最後に最も印象深い、三度目の問いを主は重ねていきます。三度目、17節(読む)

 このように三度問うていったこと。ここに魂を導く主イエスの取り扱いの深さがあります。それは主の牧会の深さでした。しかも、この三度目の問いが、実に深い。

 実は、一度目も二度目も「愛するか」との主の問いかけに対して、ペテロは「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えるのですが、いずれも、主イエスが使った「愛する」という言葉と、ペテロが答えた「愛する」という言葉が違っているのです。主イエスが「愛するか」原文でアガパオーという問いかけに、ペテロは言葉を選んで「愛しています」フィレオーと答える。 挫折後のペテロです。少し控えめに答えたのでしょうか。同じ愛でも言葉が違う。 この使い分けが謎なのですが、なぜかはよく分からない。私は、意味に大きな違いはないと思っています。

 しかし、それ以上に大事なのは、その少し控えめにも聞こえるペテロの「愛」フィレオーをイエスさまが三度目にはそのまま受け取って、今度はペテロの使った言葉で尋ね返していくのです。「あなたはわたしを愛していますか」と、ペテロの言葉を拾い、心の距離を縮めながら「あなたは愛するか」と問うていく。ここにイエスさまの問いの深さがある。一度目よりも、二度目よりも、さらにペテロの心に近づいて寄り添い、心の深みに迫る主イエスの姿です。主は回を重ねるごとに、ペテロの心の奥に迫っていく。

 三度目の問いに、ペテロは心を痛めます。 十字架前夜の炭火の前で三度、イエスを知らないと言った自分を、間違いなく彼は思い出しています。

 何と深い取り扱いなのでしょう。普通の牧師は、誰かと向き合う時に、なかなかここまで踏み込むことはできない。相手には傷があるのです。その傷に触れないままで、なんとなくオブラートに包んでしまうのが、人間の牧会者の限界です。私自身も無理だと思う。怖い。しかし主は踏み込んでいくのです。「すごい」と思いました。でも、どうしてここまで踏み込むことができるのですか。答えは一つしかない。そう、すでに赦しているのです。ペテロのすべてを赦し、愛しているから。だから、魂の奥底にある、深い傷にも手を伸ばし癒そうとしていく。なんと真剣な牧会者キリストでしょう。何と深い赦しと愛でしょう。

 ですから、心を痛めながらもペテロは答えていきます。「主よ、あなたはすべてをご存じです」。主は自分のすべてを知っている…。ペテロもまた、主の招きに、深い信頼をもって答えたのでした。

 

 「主はすべてを知っている」。普通、誰かに自分のすべてを知られていると思えば、人はこわばり、緊張するのではありませんか。私も誰かに、「五十三先生のこと、すべて知っていますよ」と言われたら、怖いと思う。しかし、主イエスに知られているということは違う。知られていることが、平安であり慰めなのです。そこに赦しと愛があるから。

 主イエスは、誰よりも、そして私たち自身よりも私たちのことを「すべて」知っている。この場面のペテロは、このことを痛感していました。十字架前夜にイエスさまは予告したのでしたね。鶏が鳴く前に「あなたはわたしを三度知らない」と言うと。 それを聞いて「まさか、そんなことがあるはずはない」と。しかし、その通りになってしまった。鶏が鳴いた瞬間、自分は自分のことを何も知らなかったと、これまでの自信がガラガラと音を立てて崩れ去ったペテロでした。

 そして今、ペテロは、ガリラヤ湖畔の炭火を前に答えます。「主よ、あなたはすべてをご存じです。私があなたを愛していることを知っておられます」。ペテロは主の三度の問いかけのうちに、自分が赦されていることを感じ取り、彼もまた三度目の信頼を告白するのです。このすべてを知る主の前、嘘が一切通じないお方の前で「あなたを愛している」と。ペテロはこのとき、あの十字架前夜の挫折を乗り越えることができたのでした。

 

 ペテロの挫折がそうだったように、私たちには誰しも、多少の差はあれ、心の深いところに隠している失敗、挫折、罪があると思います。私にはあります。私たちはそれを自分では乗り越えることはできない。しかし、「すべてを知る」主イエスの前で初めて、私たちは癒され、赦され、乗り越えていくことができる。これが魂の羊飼いであるイエスさまの牧会です。圧倒されるほどの深い牧会です。そこでは妥協することなく罪が取り扱われるでしょう。しかし、すべてを洗った上で、愛と赦しで癒す、魂の牧会。三度の問いを繰り返しながら、主はペテロの魂の最も深いところに触れてくださったのでした。そして、最後に派遣のときを迎えます。

 

3.    従いなさい

 18-19節(読む)

 あれはもう三十五年前になりました。神学校の一年目の終わり、卒業生を送り出す歓送会の最後に、神学校の校長が聖書の一節を読んで、卒業していく一人一人のために祈りを捧げたのです。その折の箇所がこれです。「まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます」。そのとき私は、深く考えることもなく思ったものでした。牧師も若いときは元気で自由に動き回れるけれど、校長ぐらいに年を重ねると、重荷も増えて不自由になるのかもしれない。

振り返ると、私は何も考えずに、あの頃、ボーッと生きていたと思う。この御言葉は若いときは自由で年を取ると不自由になるという話ではないのです。19節が、イエスはペテロの死に方を語った、と解説しているように、これは、ペテロが殉教の死を遂げることの予告です。主イエスはこれを、炭火の前でペテロに告げたのです。十字架前夜にイエスを知らないと言った、あの挫折を思い起こさせるこの朝の炭火の前で、主はペテロの殉教を予告した。主はエールを送っているのです。あなたはかつて「わたしを知らない」と言ってしまった。あの夜の躓きを、今度は乗り越えていく。「まことに、まことに、あなたに言います」。これはヨハネ福音書特有の真剣な響きをもった言葉です。 この真剣な言葉を、主は最後の晩餐の夜にも口にしていました。「まことに、まことに」ペテロに向かい、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と。 しかし、その予告を、主イエスはこのガリラヤ湖畔で覆していく。「まことに、まことに …年をとると、あなたは両手を伸ばして、他の人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます」。これが殉教の予告。大丈夫。 かつてわたしを否んだあなたは、もはや、あの夜の失敗を繰り返すことはない。今度は必ず乗り越えていく。そして、その将来に備えるために、必要なことはとてもシンプルでした。最後の言葉です。「わたしに従いなさい」。

 

どこかで聞いた言葉ではありませんか。そうです。三年前、主イエスが弟子たちと最初に会ったときに招いた、あの思い出の言葉なのです。「わたしに従いなさい」。懐かしい響きです。この言葉に従って、弟子たちは三年間、さまざまな所を通ってきた。最後には大きな挫折をしてしまう。彼らは大事なものを失ったと、自分は汚れて、罪深いものになってしまった、と思っていたかもしれない。でも、主イエスは変わらずに招く。再びこのガリラヤで「わたしに従いなさい」。私たちのすべてを知り、弱さも挫折も知るお方は、私たちをもこのように招いています。

 人は変わっていくものです。長い付き合いでも、途中で人替わりしてしまったように見える人がいます。あるいは私たち自身が変わってしまうこともあるかもしれない。しかし、主イエスが私たちを見つめる目は、今も変わることなく招くのです。「わたしに従いなさい」と。

 ペテロはこの招きの言葉を胸に、殉教に至るまで約三十年の日々をこれから歩んで行くことになります。私もまた牧師となって早三十年以上の月日が流れました。私にも挫折がありました。健康を害して第四期派遣を全うできず、教団総会席上、退任の際にはお詫びをした落ちこぼれ宣教師です。それでも主は変わらず招いています。「わたしに従いなさい」と。この声に応えて、今日も明日も、主に従っていこう。すべてを知るお方に任せよう、との思いを新たにした、この朝の御言葉のひとときでした。お祈りします。

 

天の父よ、感謝します。弱い私たちの、すべてを知る主の牧会に信頼し、今日も明日も、この素晴らしい福音を伝えていく私たちとしてください。魂の牧者、キリスト・イエスのお名前によって祈ります。アーメン!


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