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コリント人への手紙第二 3章12節~18節

 

『聖霊による福音の手紙』

 

お祈り

 

恵み深い天の父なる神さま、新船橋キリスト教会で、兄弟姉妹たちと共にささげる礼拝の時間をありがとうございます。この朝もみことばによって、今日を生きるいのちの糧を私たちに豊かに与えて下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

 

コリント人への手紙第二について

 

コリント人への手紙第二は、パウロが主と共に開拓したコリント教会の問題を聞き、その問題に答えるために書かれた、コリント人への手紙第一の続きとなる手紙です。この第一の手紙が教会に届けられ朗読されることによって、コリント教会の問題は収束するかと思われましたが、まだいくつかの問題が残されており、その問題解決のために、この第二の手紙は書かれました。本日はこのパウロによる手紙から共に主が聖霊を通して私たちにどのように働きかけるのかということを見てまいりたいと思います。

 

3章1節~11節までの文脈

 

 まず、3章11節までの文脈を簡単に確認いたしましょう。3章は大きく分けると1節から3節、4節から6節、7節から11節、12節から18節と四つに分けることが出来ます。また、3章は古い契約と新しい契約、律法と御霊ということが全体を通して語られています。

 

まず、1節~3節でパウロは自分の使徒としての働きの正当性が何によって証しされているのかを説明します。パウロはある人々、つまり偽教師の働きの証は紙で書かれた推薦状であるのに対して、パウロたちが神さまに仕えて働いていることの証は、パウロたちの奉仕の結果である「コリント教会の兄弟姉妹たちである」と言います。パウロは教会の兄弟姉妹たちがパウロの働きを証明する、神の御霊によってやわらかな心にみことばが書き記された、キリストの手紙であると言うんですね。パウロ先生かっこいいですね。私も将来こういうこと言ってみたいなと思うと共に、まず私自身がキリストの手紙であり、私の立ち居振る舞いがこの世界にイエス様を証ししているということを忘れないようにしなければと思います。

 

 また、4節~6節では、「新しい契約に仕える者」というイエス様に仕える働きは、文字に仕えるのではなく、御霊に仕えることなのだとパウロは言います。文字とは律法のことであり、御霊とは聖霊のことです。ですからここで、パウロはイエス様に仕える働きの資格は、律法を守ることによって与えられる資格ではなく、聖霊によって神様が与えられる資格なのだと言います。そうであれば誰もこのイエス様に仕える働きを自分の力で勝ち取ったと誇ることは出来ません。

私も律法を思えば、律法を完全に守れない自分の罪深さに失望するばかりですが、聖霊を思えば、イエス様が私の罪のために十字架に架かって下さり、私を罪の奴隷から自由にして下さったので、このイエス様の愛に応えて、これからは喜んでイエス様の愛の律法を生きて行こうという気持ちになります。このように、律法は私達の罪を指摘し、私たちの頑なな心を強制的に殺しますが、聖霊は私たちにイエス様の愛によって、自分から進んでイエス様に仕えて生きることが出来る自由を与えて下さるのです。

 

さらに、7節~11節では、パウロは「律法に仕えることも悪いことではなく栄光を帯びたものである」と言いながら、御霊に仕えることはもっと栄光あることだと、モーセの栄光を引き合いに出して語ります。これは、モーセがシナイ山で神様から十戒という律法を授かった時に、神様と顔と顔を合わせて話したので、モーセの顔も神さまの栄光を受けて輝いたという、旧約聖書の出エジプト記(34章29節)にある出来事がもとになっています。つまり、パウロはここでも、このモーセの輝きの栄光には限りがありますが、御霊の輝きの栄光には限りがないということから、律法よりも優れた聖霊の働きを示しているのです。

 

 ここまでが、1節~11節までの文脈です。色々と話が入り組んでいて分かりにくい所もありますが、つまるところパウロは旧約聖書の時代に与えられた古い契約、すなわち律法も良いものであるけれども、新約聖書の時代の新しい契約、すなわちイエス様を信じることによって与えられた聖霊はもっとよいものであり、永遠の存在である聖霊の力によって、「私たちは律法を喜んで守りながらイエス様に仕えていくのだ」ということを言っているわけです。

 

12節 聖霊によって大胆にイエス様に仕える

 

12節「このような望みを抱いているので、私たちは大胆にふるまいます」とパウロは言います。「このような望み」とは、ここまで語ってきた聖霊によってイエス様に仕えていくことが出来るという希望のことです。ですから、パウロは完全でない自分に何か負い目があると感じて使徒としての働きを隠れてコソコソとするのではなく、聖霊によって何の負い目もなく、自由に大胆に堂々と行うことが出来るのだと言います。

 

私も先日3月6日で東京基督教大学を卒業し、神学生としての学びを終えて、これからは教会で働くことになりますが、それは自分が律法を守って生きてきたからではなく、聖霊がただ私をこのように導いて下さったということを思わされます。不完全な私ですが、聖霊が私を完全な者へと変えて行って下さるという希望があるので、私は教会で神と人に仕える働きを大胆に出来るわけです。普通だったら自分が完全に出来ていないことを人に教えたり伝えたりするということは恥ずかして出来ないですよね。ですが、私の心におられる聖霊が私をイエス様に似た者へと完成させて下さるという希望によって今日も私は大胆に皆さんの前で聖書のお話しが出来るのです。

また、私だけでなく皆さんの様々な教会での働き、学校での働き、社会での働き、家庭などのこの世界すべての働きも同じです。私たちは聖霊の力によって、今の完全でない自分でもやってみていいのかなと思う働きでも、大胆に皆さんに神様が委ねられた、その働きを行って良いのです。

 

13節~16節 イエス様によって取り除かれる心の覆い

 

13節でパウロは「モーセのようなことはしません」と言います。これは先ほど語ったシナイ山で律法が与えられた際に、神様の栄光を反射するモーセの顔の輝きを恐れた民たちのために、モーセが顔の光を覆いで隠した話がもとになっています。

 なぜモーセが顔の光を隠したのか、モーセの心の中の思いについてまでは、旧約聖書に書かれていないのですが、パウロはこの顔を隠すと言う出来事を聖霊の力によって解釈したのでしょう。

 

13節後半「彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました」とあるように、「モーセがなぜ顔の光を隠したのか、それは律法のやがて消え去る栄光を民たちに見せないようにしたのだ」とパウロは聖霊によって答えを出したのです。

 

そして、14節でパウロはこのモーセの覆いと関連付けて、イスラエルの子らが古い契約を読む時にも、モーセの時と同じように覆いがかけられていると言います。古い契約とは旧約聖書のことです。特に15節ではモーセの書とあるので、モーセが書いたとされている、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五つの書、つまりモーセ五書を指していると考えられます。そして、パウロはこのモーセ五書の中でも特に念入りに語られてきた、守れば祝福、守らなければのろいという、十戒を代表とする神の民の生き方の基準である律法のことを、パウロはここで古い契約と言っているようです。例えば十戒には「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」「あなたの父と母を敬え」など、十の神の民の生き方が記されています。

 

この古い契約に覆いが掛けられているとパウロは言います。覆いとは神様に逆らってきた民たちの頑なな心を示すことばです。確かにイスラエルの民たちは、旧約聖書の中でも語られているように、その心を頑なにし、律法を守らず、神の命令を聞かず、神から遣わされた預言者たちを迫害して来ました。そして最終的には神から遣わされてきた、神の子であるイエス様を十字架に架けたのです。なぜなら、心が頑なな者たちにはイエス様が語られた言葉を受け入れることが出来ず、旧約聖書で示されていた救い主がイエス様であることを認めることが出来なかったからです。

 

しかし、14節後半「それはキリストによって取り除かれるものだからです」、16節「しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます」とあるように、この心を頑なにする覆いはキリストによって取り除かれます。

特に16節では、モーセが普段は顔の光を覆いによって隠していたけれども、主とお会いする時には顔の覆いを取り除いたという出エジプト記の出来事が念頭に置かれています。(出エジプト記34章34節)

パウロは、この覆いが民たちの心から取り除かれるには、モーセが主と顔と顔を向き合わせて相対したように、民たちもイエス様のおられる方に、その顔を向き直す必要があること、そして顔に覆いを付けたままで、あってはならないと、ここで言いたいのだと思います。

 

私たちはどうでしょうか。イエス様の方に日々顔を向き直しているでしょうか。自分や他者の方向に顔を向けて歩んではいないでしょうか。また、イエス様の方に向き直っていても、イエス様との間を隔てる覆いがないでしょうか。イエス様の福音の光を覆いで隠していないでしょうか。

 

私も神学校での生活の中で、毎日、礼拝や祈祷会があったりしてイエス様の方に顔を向けてきたのですが、その礼拝や祈祷会の時に、自分の顔に覆いが掛けられていて、つまり、次の講義の課題とか、学校の委員会の準備とか、教会での奉仕の準備とかで、集中できないなという時がありました。また、日々の日曜日の礼拝においても、将来の不安とか、月曜日の準備などで集中できない時がありました。しかし、そのような生活の中で気づかされたのは、私がイエス様の方を見ていない時も、イエス様の方は私を見つめ続けて下さっているということです。完全ではない私がイエス様の恵みによって救われて今生きている。そう実感できる出来事でした。私の心にかけられた覆いを聖霊が取り除いて下さった体験でした。

 

そして、17節ではパウロも私のような心に覆いがあった者、また今も心に覆いのある者たちにも、聖霊の力によって自由が与えられるのだと、聖霊による希望を語ります。

 

17節 聖霊による自由

 

17節「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります」、まず「主は御霊です」とは、ここまで確認してきた律法と聖霊と言う対比を念頭において考えると、「主は、旧約聖書の時代には、律法や限定的に神の霊を受けた預言者などを用いて、間接的に働かれていたが、新約聖書の時代では、聖霊が直接イエス様を信じるすべての人の心の中で働かれている」ということでしょう。つまり、現代でもイエス様は聖霊を通して、私たちの心を変えて下さる、私たちの生きる現実に関わって下さっているということです。イエス様はただ私たちを見ているだけではないのです。私たちの生活に聖霊によって介入して下さるのです。

 

そして、このような聖霊が内におられる人のところには自由があるとパウロは言います。ではその自由とは何からの自由なのでしょうか。それは、律法の束縛から自由にされるということです。

 

これは、冒頭で話したように、律法を完全に守り切れない不完全な私ですが、聖霊が私を完全な者へと変えて行って下さるという希望があるので、私は教会で神と人に仕える働きを大胆に出来るということと繋がっています。

 

例えば、ヨハネの福音書にある「あなた方は真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ8章32節)という言葉と併せて考えると、さらにこのことを良く理解出来るのではないかと思います。このヨハネの箇所の文脈を見るとヨハネの言う真理とはイエス様のことであり、自由にするとは罪の奴隷からの自由であることが分かります。

 

つまり、「主の御霊がおられるところには自由があります」の自由とは、「イエス様を自分の罪のために死なれた主であると信じ、聖霊が内に住んでおられる人は、律法によって指摘される罪意識の束縛から自由にされる」ということです。この自由があるから完全ではない私たちでも大胆にイエス様に仕えて生きていけるのです。

 

18節 聖霊によってイエス様のかたちに変えられる

 

 そして、パウロは18節で「イエス様による罪意識からの自由」が、聖霊によってどのように実際になされるのかを語ります。

 

18節には「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」とあります。

まず、「私たちはみな」とあるように、私たちはどんな人でも聖霊によって変えられるということが分かります。女性でも男性でも、子どもでもお年寄りでも、何時でもイエス様の罪の贖いを信じれば聖霊の力によって私たちはその心の中が変えられていくのです。

 

また、「覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ」とあるように、私たちは聖霊の働きによって、パウロの時代の鏡がぼんやりとしか人の姿を映すことが出来なかったように、直接ではありませんが、イエス様の栄光を見ることが出来るようになります。さきほど私が証しした聖霊による気づきのような、神様の栄光を体験するという出来事が皆さんにもあるのではないでしょうか。

 

そして「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」とあるように、段々と継続的に、イエス様の栄光を見ることによって私たちは変えられていきます。このイエス様の栄光とはみことばを覆いなしに素直に受け入れて読んだり、聖霊が内におられる兄弟姉妹を通して、イエス様を知るということだったり、聖霊によって生活の中で気づかされることなどが、現代では当てはまると思います。

さらに、この栄光はイエス様の優しく謙遜な神の子としての生き方が現した光だけでなく、イエス様の十字架、つまり、神の子がへりくだって受けられた苦難が放つ光でもあります。イエス様の栄光とは自分に都合の良い栄光ではなく、神様への従順や敵への赦しという、苦難を伴うものなのです。

 

このイエス様の栄光に、私たちは古い契約の律法に無理やり自分を自分の力で従わせようとしたようにではなく、新しい契約によって与えられた聖霊の力によって自分から喜んで倣っていく。

 

このような聖霊の導きに従っていくことで、私たちはイエス様と同じ考えや行動が出来るように、すなわちイエス様と同じかたちに変えられ続けていくのです。

 

これは本当に希望のことばですよね。ここまで分かち合ってきたように、私もまだまだイエス様のように完全に生きることは出来ていません。しかし、イエス様を信じるなら、聖霊の力によって、一歩一歩イエス様のような姿に変えられていくわけです。自分が律法を守れない時も、内で働く聖霊が私を喜んで律法を守れるように少しずつ造り変えて下さるのです。罪の束縛に苦しむ者に主は聖霊によって、大胆にイエス様を証しし歩む力を与えて下さるのです。

 

まとめ 私たちは主イエスの福音を証しする生きている手紙

 

本日はパウロによって書かれたコリント人への手紙第二から、私たちは聖霊の力によって、律法の束縛から自由にされて、段々とイエス様のお姿に変えられていき、イエス様の救いを、誰でも大胆に証しすることが出来るという希望を共に確認いたしました。

 

最後に皆さんともう一つだけ確認したいことがあります。それは「私たちは聖霊によって主イエスの栄光をこの世界で映す鏡でもあり、聖霊によって世界に福音を伝える主イエスの生きている手紙なのだ」ということです。

それぞれの新しい歩みが始まる春、それぞれの場所は違うかもしれませんが、共にこの世界で、心に書き記された、主イエスの福音の光を隠すことなく、大胆に光り輝かせてまいりましょう。

 

お祈り

 

 お祈りいたします。恵み深い天の父なる神様。今日は律法ではなく、イエス様の福音がもたらす聖霊の力によって私たちもイエス様のように変えられていくということを皆で確認いたしました。私たちの日々の歩みは、完全とは言い難いものですが、聖霊がそれぞれの心の中で励まして下さって、私たちを栄光から栄光へと主の姿に変えていき、ここにいる皆を、主イエスの福音の光を世界に証しする手紙としてください。

また、それぞれの地上での歩みが最後まで、この聖霊に満たされ、祝福された歩みでありますように。父なる神様、どうぞよろしくお願い致します。このお祈りを愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。


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