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2月, 2022の投稿を表示しています

神の名を聖として生きること(マタイの福音書6:5〜9)

「神の名を聖として生きること」(マタイ 6:5 ~ 9 )   1.      祈ることと生きること   前回に続いて、しばらく主の祈りを学びます。主の祈りは、神の子どもたちの祈りです。今日は、その第一の願いである9節に注目します。 (読む)    「御名が聖なるものとされる」とは、どういうことでしょう。神の名が尊ばれ、礼拝されるように、との祈りですが、これをよりよく理解するために、その前の5節から8節に目を留めたいと思います。   5節、そして7節(読む)   これらに目を留めるときに気付くのは、生き方と祈りの関係です。信仰者の生き方は、いつも祈りに現れる。祈りと生き方は繋がっていて、分けられないのだと。 例えば偽善者はどうですか。彼らは、人にどう見られるかにこだわる人たち。 すると、祈りも、人にどう思われるかに向けられていく。会堂や大通りの角で、人に目立つように祈る。これは、彼らの生き方です。しかも、そうやって祈るから、生き方もますますそうなっていく。 このように祈りと生き方は繋がっています。 信仰者は生きているように祈るし、実は、その逆も真。祈っているように生きるのです。 偽善者は、神の前でなく、人の前で祈る。だから主イエスは言います。祈るときは、隠れたところにいる父に祈りなさいと ... 。(皆さん、だからと言って、礼拝の感謝祈祷が当たった時、人前では祈れませんと、牧師を困らせないようにしてください。 これ、あくまでも偽善という生き方の問題で、人前で祈るな、と言う教えではないのです。)  とにかく、生き方と祈りは繋がっている。 じゃあ、異邦人はどうでしょう。実はこれは、異邦人だけでなく、多くの信仰者の中に起こり得るのですが、ただ言葉数を多くして祈る。言葉を繰り返して、神を祈り倒そうとしていくのです。そのように祈る人の生き方はどうでしょう。そのような信仰者にとって、神は、ただ自分の願いを聞いてもらうために存在している。だから、神を動かそうと、言葉を重ねていくのです。 それに対して主イエスは言われます。「父は、あなたがたが求める前から」必要を知っている。 だから神を動かし、コントロールしようとして、神の前でゴネてはいけないと、神の前に、子どもとして、へりくだることを求めていくのです。  主の祈りは神の子どもたちの祈り。そし

神へのいけにえ(Ⅰテモテ2:1~7)

「神へのいけにえ」 Ⅰテモテ2:1~7 木田友子実習生

キリストにある自由(ガラテヤ人への手紙5:1)

「キリストにある自由」 ガラテヤ人への手紙5:1 先週の金曜日、 2 月 11 日は、「国民の祝日」、「建国記念の日」でした。他の国でも建国を記念する日があります。例えば、アメリカ合衆国だと「独立記念日」( 7 月 4 日)がそれにあたり、ドイツだと、 1990 年に東西のドイツが統一された日( 10 月 3 日)となります。私たちが 15 年住んだ台湾は 10 月 10 日、国慶節がその日にあたり、清朝からの独立革命が勃発した日を記念しています。中国は、 10 月 1 日が国慶節で、北京の天安門前広場で毛沢東主席が「中華人民共和国中央人民政府は本日ここに成立した」と宣言した日です。このように、ほとんどの国では、その国の歴史的出来事をもとにして建国記念日が定められています。しかし日本の場合は、歴史的な出来事ではなく、「神話」に基づいて「建国記念の日」が定められました。かつて、 2 月 11 日は「紀元節」と呼ばれていました。これは、奈良時代の歴史書『日本書紀』に記されている、初代天皇である神武天皇の即位日に由来する祝日のことで、旧暦では、この日が 1 月 1 日とされていました。ただし、この祝日は、第二次世界大戦後、 GHQ によって廃止されることになりました。天皇を神と教え、日本の国民を戦争へと駆り立てた原動力である「国家神道」を排除するためでした。しかし、国家神道は皆さんご存知のように今も息づいています。そして、かつての「紀元節」復活を求める勢力の働きにより、「建国記念日」を制定する法案が幾度となく提出され、何度も退けられたものの、最終的には、この紀元節を「建国記念日」ではなく、「建国記念の日」、つまりその日に建国されたわけではなく、建国を記念する日とすることによって、合意を得、成立に至りました。 以上のように「建国記念の日」は国家神道の核となる日本神話に由来する祝日です。言わば、天皇制を保持し続けるこの国を象徴する日なのです。皆さんご存知の通り、天皇を神と崇めていたこの国は、先の大戦において、天皇を崇拝しないキリスト教信者、また教会を迫害・弾圧してきました。そのような経緯があるので、日本のキリスト教諸教会は、その日を「信教の自由を守る日」と呼んで各地で反対運動を行うようになりました。同盟教団も毎年この日には、国に対して声をあげる日として、講演会などの企画を

雄弁家アポロ(使徒の働き18:23〜28)

「雄弁家アポロ」 使徒の働き18:23~28    パウロの派遣元教会であるシリアのアンティオキア教会でしばらく過ごしたパウロは、いよいよ第三次伝道旅行に出かけます。今度は陸路で、ガラテヤ地方とフリュギアの教会を次々と巡回し、すべての兄弟姉妹を力づけました。こうして、パウロは徐々に今回の伝道旅行の大半を過ごす、エペソに近づいていくのでした。    さて、ここで舞台はパウロが去った後のエペソに移されます。先週のメッセージを思い出してください。パウロは「みこころならば、またあなたがたのところに戻ってきます」と言ってエペソを去りましたが、アキラとプリスキラは、そのままエペソにとどまって宣教活動を続けました。そしてそこにアポロという人物がやって来たのです。アポロはアレクサンドリア生まれで、雄弁なユダヤ人でした。アレクサンドリアはエジプトにある学術都市でした。彼はそこで一流の哲学や弁証学を学んだようです。ある注解者は、彼は有名な哲学者フイロンやアリストテレスから学んだのではないかと言っています。またアレクサンドリアの町には 5 つの区があり、その一つがユダヤ人区でした。きっと多くのユダヤ人が住んでいたのでしょう。そしてユダヤ人のいるところにはユダヤ人の会堂があります。それだけではありません。なんとそこにもイエスをメシアだと信じる群れがあったというのです。恐らくイエスさまが復活、昇天した後の五旬節、ペンテコステの時に、多くのアレクサンドリアのユダヤ人たちが巡礼に来ていて、ペテロたちが語る伝道メッセージを聞いたのでしょう。そしてそのグッドニュースをアレクサンドリアに持ち帰ったと考えられます。こうしてアポロにも福音が届きました。アポロは弁が立つ、優秀な人物でしたが、その賜物が神をもっと知りたいという方向に向かいました。彼は熱心に聖書を学びました。そしてその熱心は、彼をアレクサンドリアに留め置かず、海外宣教に駆り立てました。そうやってアポロは、エペソに来て、霊に燃え、イエスのことを正確に語ったり、教えたりしていたのです。彼は、聖書の知識が豊富でしたから、ユダヤ人の会堂で、聖書から預言の成就者としてのイエス・キリストを弁証したのでしょう。しかも大胆にです。彼の言葉には自信がみなぎっていました。彼の話を聞く誰もが説得されてしまう、そんな勢いがあったのです。