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人の心に永遠を(伝道者の書3:1〜11)

「人の心に永遠を」 伝道者の書3:1~11 「伝道者の書」というより、ある人にとっては「コヘレトの言葉」と言った方がピンと来るかもしれません。 2020 年、まさに新型コロナウイルスが猛威を振るい始めた頃、 NHK の「心の時代」で『それでも生きる』と題して、この旧約聖書「コヘレトの言葉」が6回にわたって放映され、話題を呼びました。そして時代は進み、今はコロナ禍に加えて、ウクライナとロシアの戦争が起き、私たちはますます世の不条理に心を痛める日々を送っています。そしてそんな今だからこそ、「伝道者の書」は私たちの心に迫ってくるのです。 「伝道者の書」の書き出しをご存知でしょうか?「空の空、伝道者は言う。空の空、すべては空。」何だかキリスト教らしくないと思われるでしょうか。虚無的な、あきらめと言ってもいいほどの否定的なイメージをもった言葉です。新共同訳では「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」とあります。でも欧米の人たちと違って、私たち日本人にはなんとなく理解できる感じがするので不思議です。有名な『平家物語』の1節が思い浮かびます。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」この世のすべては変化していくものだ。どんなに勢い盛んな者も必ず衰えるという意味です。しかし伝道者の書の「空」ということばは、「空しい」という意味以外にも、「儚い」「神秘」「謎めいた」「束の間」のような意味も持ちます。「人生は空しい、何をやるのも空しい」と解釈するなら、生きる意欲もなくなってしまいそうですが、もし人生は短い、束の間だからと言われると、それならば毎日丁寧に生き、人生の出会いを大切にしよう」とならないでしょうか。   今日私たちが読んだ通称『時の詩(うた)』も「時」がテーマです。束の間の人生、それでも人は抱えきれないほどのいろんな経験をします。目を閉じて、ゆっくりとこの詩を味わうと、私たちは人生のいろんな場面を思い浮かべることでしょう。「生まれるのに時があり」と聞くと、陣痛に苦しんでやっと生まれてきたわが子を胸に抱いたあの瞬間。「死ぬのに時がある」と聞くと、私たちは11月22日の出来事思い出します。博さんはいつものように弘子さんといっしょに夕食を済ませて、食後にはちょっと甘いもの食べて、そしていつものように床についたのでした

完了した(ヨハネの福音書19:28〜30)

「完了した」 ヨハネの福音書19:28~30 ヨハネの福音書は他の3つの福音書と比べるとやや異色です。特徴はいくつかあるのですが、その一つは他の福音書はイエスさまのおっしゃったことや行動を中心に記述しているのに対して、ヨハネの福音書は、ヨハネが一番伝えたいことに向かって、記事を選別して書いているということでしょう。そしてヨハネが一番伝えたいことというのははっきりして、ヨハネの福音書20章31節にあります。「これらのことが書かれたのは、 イエスが神の子キリスト(メシア・救い主)であることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。 」   そして今日学ぶ十字架上のイエスさまのことばも、その目的に向かって書かれています。十字架上でイエスさまが語られたことばは、聖書に記されているだけで、全部で7つありますが、そのうち3つをヨハネは取り上げています。一つ目は今日の箇所のすぐ前の26-27節にあります。ご自分が究極の痛みと渇きの中にありながら、イエスさま亡きあとの母マリアのことを気にかけ、愛する弟子(ヨハネ)に母を託しているのです。そしてそれに続く二つのことば「渇く」と「完了した」を今日は見ていきましょう。   今日の短い個所に「完了」という言葉が3回出てきます。あれ? 2回しかないよと思われたかもしれませんが、28節の「聖書が成就する」の「成就する」もギリシャ語では同じ語源です。つまりこの言葉は、「完了する」「完成する」「終える」「成就する」「完済する(払い終える)」などの意味を持つ言葉なのです。ちなみに中国語の聖書では「成了」とあったのを覚えています。   聖書の中にはメシア預言と言われている個所がたくさんありますが、イエスさまが十字架の道を歩み出してから、それがことごとく成就していきました。イエスさまが十字架に架かってからも、イエスさまの目の前で、預言がどんどん成就していきます。例えるなら、トランプの「神経衰弱」で二つの同じカードがひっくり返されて、取られ、どんどんなくなって行く…そんな光景でしょうか。その一つ23 - 24節「さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。そのため、彼らは

ナルドの香油(マルコの福音書14:1〜11)

「ナルドの香油」 マルコの福音書14:1~11   イエスさまは、公生涯が始まって以来、絶えず十字架を意識し、そこを目指して歩んで来られたわけですが、まわりの人々や状況はそれほど逼迫していませんでした。弟子たちさえもその時が近づいていることを実感できず、まだイエスさまがこの地上の王として君臨することを夢見ていたのです。   1 ~2節「過越の祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた。祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた。彼らは、「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない」と話していた。」 祭司長、律法学者たちは、イエスが人々の心を掴み、彼こそローマの圧政から我々を救い出してくれるメシヤ(救世主)ではないかと期待しいるのを見て、心穏やかでいられなっていましたが、それがとうとう沸点に達しました。彼らはイエスを捕えて、殺すために具体的な策略を練り始めたのです。けれども彼らは「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない。」と話し合っていました。イエスさまは人気者でしたし、過ぎ越し祭の時には、外国からも多くのユダヤ人たちが巡礼に来ます。そんな時に騒ぎを起こせば、自分たちが責められることもなりかねないと考えたのです。 しかし、なんという皮肉でしょう。彼らがこの時だけは避けたいと思っていたその時に、事は起こったのです。10節以降にありますが、あらぬことか、イエスの弟子の中から裏切りが起こり、彼(ユダ)の方からイエスを引き渡すという約束を取り付けたのです。祭司長、律法学者たちは、過ぎ越し祭の時だけは避けたかったのですが、このチャンスを逃すわけにもいかず、まさに過ぎ越し祭の時に、事を起こすことになったのです。 ここから何が言えるでしょうか。それは、イエスさまの受難と十字架は、人の策略や陰謀によって引き起こされた結果ではなく、あくまで神さまの計画だったということです。神が人の救いのためにずっと以前から、いや、人が罪を犯してからずっとこの日を計画し、ピンポイントでこの時を選んだのです。まわりの情況や人の悪意とは関係なく、神がこの時を定められており、それを実行に移したということです。 なぜ過ぎ越しの祭りだったのでしょう。それはもちろん、イエスさまこそが「過ぎ越しの小羊」だったからです。