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4月, 2024の投稿を表示しています

目を上げて、ともに喜ぶ(ヨハネの福音書4:27~38)

『目を上げて、ともに喜ぶ』  ヨハネ4章27 -38 節 はじめに   23 節(読む)  この時、イエスさまは、サマリアの女性と話していました。それは普通ではないことでした。当時のユダヤ人はサマリア人と絶縁状態で、話すらしなかったのです。  この女性は、いわゆる「わけありの人」です。バツイチどころか、バツゴ、かつて五人の夫がいて、今一緒に暮らしているのは夫ではない男性。人からは陰口を言われ、人目を避けながら生きていたようです。一方で心はカラカラに乾ききっていました。生命の潤いを必要としていました。  イエスさまはその女性に福音を語ったのです。そして霊とまことの礼拝に導き、救い主キリストであることを明らかにされたのでした。   1.      キリストに出会ったあとで 25-26 節(読む) このようにしてサマリアの女性はキリストと出会いました。「キリストに出会う」ことは特別なことです。その出会いには人を決定的に変えていく力がある。彼女もそうでした。しかもその変わりようが見事です。 28-29 節(読む)  これまで人目を避けてきた彼女が、水がめをその場に置き、町に急いで人々にキリストに出会ったと告げていく。もう人目を避ける後ろめたさはもうありませんでした。「来て、見てください」とやや興奮気味です。そしてあふれる思いで語り出す。「もしかすると、この方がキリストなのでしょうか」。もしかすると、という言葉遣いとは裏腹に、口調は確信に満ちています。皆さん、これが「証し」というものです。キリストに出会った喜びに心が動かされ、もう語らずにはいられない。そういう証しには人を動かす力があるのです。そうやって動かされた人々は一人や二人ではありませんでした。大勢が押し寄せるようにしてイエスさまのもとに集まり、彼らもまたキリストに出会って変えられていくのです。キリストとの出会いは人を変え、そして他の人にも広がっていくのです。 どうかこれを、サマリアの女性だけに起こった特別な出来事だと思わないでください。私たちにも実は、このように他の誰かに語ることのできる証しがあるのです。思い返してみてください。最初にキリストを信じた時のことを。もちろん、この女性のようなドラマチックなストーリーではなかったかもしれない。でも、世界でその人だけが語れる特別な

あなたはどこにいるのか(創世記3:8~13)

「あなたはどこにいるのか」 創世記3:8~13 人は、神さまが造られたすばらしく良い世界で、幸せに暮らしていました。何より、神さまのとの人格的な豊かな交わりがありました。それだけじゃない、神さまは、人に最高のパートナーも与えられ、なすべき仕事もあり、彼は、とても満足して、喜びに満ちた毎日を暮らしていました。ところが人は、神が定められた、たった一つのルール、「善悪の知識の木の実からは取って食べてはならない」というルールを守ることができず、それに背いてしまったのです。こうして、人に罪が入りました。罪は、何も白雪姫のように毒りんごを食べて、からだ全体に毒がまわったとか、何か悪いウイルスに感染したとか、そういう風に人に入ったわけではありません。人が神の愛を疑い、神は自分たちを不当に支配していると思い、神よりも賢くなり、神の上に立ちたいと願い、神の下にある自由を拒否し、神なき自由を求めたことによって、人に罪が入ったのです。「罪」とは何でしょうか。罪とは神を退け、無視すること、また神に反抗すること、神を神として認めないこと、そして神が受けるべき賛美をささげないこと(byティモシー・ケラー)です。つまり、罪とは、「盗む」とか「殺す」、「姦淫する」というような表面に表れる行動である以上に、人の心の状態です。人は神に向き合うように造られたのに、神に背を向けてしまった、そのような神に背を向けた不従順な状態こそ、「罪」なのです。 罪を犯した人が見る世界は変わってしまいました。人は神が創造された世界の冠、頂点だったので、人が罪を犯した時に、世界全体に、被造物全体にその影響は及びました。ありとあらゆる「悲惨」が、被造物世界に蔓延したのです。世界はまるで変ってしまった。それは、カラーの世界から、白黒の世界になってしまったような変わりようです。いや、変わってしまったのは、実は自分でした。それまでは澄み切った青空のような心だったのに、今はどんより曇り空。恐れや不安、怒り、孤独やむなしさ、今まで知らなかった感情に心がふさぎます。 そんな時、主の足音を聞きます。もちろん神は霊なのですが、それぐらい親しく、神は人と交わっておられたということです。そよ風の吹くころ、黄昏時でしょうか。いつものように神は人のところにやって来られました。神と人は、日々、向き合い、語らい、一日のことを分かち合

罪と死の起源(創世記3:1~7)

「罪と死の起源」 創世記 3:1~7 先週のメッセージで、人は動物の中には、「ふさわしい助け手」を見つけることができなかったと学びました。「ふさわしい」とは対等に向き合うという意味。「助け手」とは、力強い救助者の意味でした。それなのに、今日、人は、被造物に過ぎない蛇の声を聴きます。そして、本来自律した対等な立場で、互いを吟味し合い、成長し合うはずの二人が、いっしょに罪に転落していくのです。 1 節「さて蛇は、神である【主】が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。」 蛇は賢かった。この後の蛇と女とのやり取りを見ると、確かに蛇は賢いです。蛇というよりは、蛇を操る悪魔(サタン)が賢いのですが…。巧みに女の心を操り、神の愛に疑問を持たせるように、印象操作をし、リードしていくやり方などは、敵ながらうならせるものさえあります。 まず、蛇は言うのです。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」神の存在を否定するのではない。また、神の命令に対して、真っ向から反対のことを言うのではない。「神さま、いるよね。あなたたちは、神さまのおかげでおまんま食べられるんだからね。言うこと聞くしかないよね。ところで聞くことによると、あのお方は、あなたがたに禁止事項を与えたというのだが、本当なのかい?本当に、園の木のどれからも食べてはならないと言ったのかい?もし、そうだとしたら、ひどい話しだよね。」と、神へのイメージを微妙にすり替えていくのです。神さまはおっしゃいました。「園のどの木からも思いのまま、自由に食べてもよい」と。そして人は、与えられたこの大きな自由を見て喜び、小さな禁止事項など、気にも留めていなかったのです。ところが、蛇の誘惑を受けて、初めて、神の愛、神の善意に疑問を持ち始めるのです。   2 - 3節「女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」 さすがに、女は反論します。「いえいえ、私たちは園の木の実を食べてもよいのです」と。けれども、本来神さまは、なんと言ったでしょうか。「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」とおっしゃったのです。最大限の自由を

ふさわしい助け手(創世記2:18~25)

「ふさわしい助け手」 創世記2:18~25   私が中学の時に、「将来の夢」という題目で作文を書く機会がありました。その時に、私は何と書いたか。「私は将来男になりたいです。なぜかというと、自分が女であることのために、将来受けるであろう差別や社会的不利益を思う時、将来に希望を持てないからです。」と書いて、職員室で回し読みされ、入学早々一躍有名になったことがありました。私が子どもの頃は、フェミニズムやウーマンリブという言葉がまだ新しい時代でした。私はそんな社会の中で、女性として生まれてきたことに対し、漠然とした不安を持っていたのかもしれません。残念なことに、多くの国で、女性は男性よりも劣ったものとされ、秩序という名のもとに、差別され、支配され、虐げられてきた歴史があります。そしてそれは、キリスト教国に多く見られたことでした。また、その根拠とされてきた聖書箇所の一つに、今日開かれたこの箇所があります。今日は、この聖書の個所を丁寧に読み進める中で、聖書の女性観、人間観を丁寧に見ていきたいと思います。   「人がひとりでいるのは良くない。」と神さまは言われました。人の側が神さまに、「一人はいやだよ、さびしいよ。仲間を作ってよ」と要求したわけではありません。神さまが、「よくない」と判断されたのです。神さまは、人を眠らせて、寝ている間に女を造り、そして目が覚めた時に、完成した女を人のもとに連れて来られました。ここで注意したいのは、女の創造に関して、男は全く関与していないということです。「いやいや、あばら骨を提供したじゃないか」と言う人もいるかもしれませんが、何も男が「神さま、どうぞ私のあばら骨を使ってください」と申し出たわけではなく、神が男を眠らせ、寝ている間に、勝手にあばら骨を取ったのですから、やはり、男性は女性の創造に関して全く関与していないのです。 さて、話を戻しましょう。神はどうして、「人がひとりでいるのはよくない」と思われたのでしょうか。それは、人が神のかたちに造られたからです。「神のかたちに造られた」とは、「神に似た者として造られた」ということです。神は三位一体の神さまでした。唯一でありながら、父、子、聖霊の三つの位格を持ったお方でした。そして、神は、その交わりをとても喜んでおられたのです。完全な愛の交わりに満足し、何の不足も感じておられませんでし