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1月, 2021の投稿を表示しています

イエスが来られる前に(使徒の働き13:24~25)

  「イエスが来られる前に」 使徒の働き13:24~25 【はじめに】 皆さんは、お芝居や映画、ドラマは好きでしょうか。これらを見ていると、主役に次いで重要な役割を果たしているのは、「脇役」です。「脇役」は「傍役」とも表記するようで、日本ではバイプレイヤー (by-player) という言い方もします。名脇役は、作品全体の質を高め、観客や視聴者に強い印象を与えます。けれども決して主役を差し置いて主導権を握ることなく、主役を際立たせることに徹してこそ、名役者と言えるでしょう。さて、今日の聖書箇所に出てくるヨハネ(通称バプテスマのヨハネ)は、まさに名脇役でした。では主役はどなたでしょうか。もちろんイエスさまです。彼は主役であるイエス・キリストの栄光を輝かせるために、どこまでも脇役に徹する人生を歩んだのでした。   1.預言者ヨハネ ヨハネは出生の時から脇役としての使命を負って生まれてきました。両親は、ザカリヤとエリサベツで、二人とも由緒正しい祭司の家系でした。当時祭司は世襲制でしたが、エリサベツは不妊で跡継ぎがいないまま、すでに年を取っていました。ところがある日、ザカリヤが神殿で祭儀を行っているときに御使いが現れ、妻エリサベツは子を生むと告げられるのです。しかもその子は、来たるべき救い主(メシヤ)の先駆けとして、イスラエルの民にメシヤを迎える準備をさせるのだと言うのです。名前まで決められました。「ヨハネ」とつけなさい、と。「ヨハネ」の意味は、「主は慈しみ深い」ですが、まあ、どこにでもあるような平凡な名前です。新約聖書中でも私が知っているだけで 5 人もいます。英語ではジョンですが、例えばニューヨークで無作為に石を投げれば、ジョンさんにあたると言ってもいいほどありふれた名前です。しかし負っている使命がすごかった。彼は、 450 年ぶりの預言者にして、最後の預言者だったのです。(イスラム教では、ヨハネを預言者と認めず、ムハンマドが最後の預言者)しかも彼の誕生は旧約聖書で預言されていました。旧約聖書には数多くの預言者が出てきますが、何百年も前から預言されて生まれて来た預言者はいません。イザヤ書 40 章 3 節にはこうあります。 「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。』」 この預言の成就として、

この方以外には(使徒の働き4:1~12)

  「この方以外には」 使徒4章 1 ~ 12 節   しばらく途絶えていましたが、使徒信条を辿りながらの説教を再開します。 私たちの信仰の内容をまとめた使徒信条の二つ目の項目は、「私たちの主イエス・キリストを信じます」という内容です。これを念頭に置きながら、使徒の働き4章より学んでいきます。お祈りします。   天の父なる神さま、お名前を賛美します。神の言葉に耳を傾けるひととき、聖霊の導きの中、私たち一人一人が十字架と復活の主イエス・キリストと出会うことができますように。語る説教者の欠けをも聖霊なる神が補い、用いてください。救い主キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン!   1.     苛立ちの中で 1-3 節前半「 ペテロとヨハネが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人たちが二人のところにやって来た。彼らは、二人が民を教え、イエスを例にあげて死者の中からの復活を宣べ伝えていることに苛立ち、二人に手をかけて捕らえた。」     「 彼ら(つまり権力者たち)は、ペテロとヨハネが民を教え、イエスの復活を宣べ伝えていることに苛立ち」とありました。今日の個所の背景にあるのは、権力者たちの苛立ちです。彼らは苛立っていた。   話の発端は、すぐ前の3章初めにあった、神の宮での癒しの出来事です。生まれつき足の不自由だった人が、イエスの名前で癒されて立ち上がっていく。そして彼が喜びのあまり神を賛美する姿に驚き、大勢の人が集まって来ました。それを機会にペテロは、イエス・キリストの十字架と復活を語ったのです。そこでは五千人以上がイエスを信じました。そうした騒ぎを見るにつけ、「これはたまらん」と宮を管理する権力者たちはペテロ、ヨハネを逮捕したのです。とにかく彼らは苛立っている。たとえ、それが良いことでも、大きな騒ぎになって、自分たちの体制が揺らぐ可能性があろうものなら苛立つ。世の権力者の多くは、このようなものなのだろうと思います。   5-7 節「翌日、民の指導者たち、長老たち、律法学者たちは、エルサレムに集まった。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族もみな出席した。彼らは二人を真ん中に立たせて、「おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」と尋

神は約束に従って(使徒の働き13:13~23)

  「神は約束に従って」 使徒の働き13:13~23 【はじめに】 「使徒の働き」の講解説教を再開します。前の説教 (8/9) は、パウロとバルナバ、そして助手としてヨハネが第一次伝道旅行に出発しました。アンティオキア教会から送り出されて、まずはキプロスという島に行きました。そこはバルナバの出身地でしたから土地にも明るく、行きやすかったのでしょう。そしてキプロス島の東海岸サラミスに到着して、巡回伝道しながらパポスに向かったのでした。そしてそこで地方総督セルギウス・バウルスに伝道しました。途中魔術師エリマの邪魔がはいりましたが、最終的には総督は信仰に入ったというお話でした。 その後彼らはパポスを後にして、船でベルゲに渡りました。今のトルコの南部です。そこで想定外のことが起こりました。助手としてついてきたヨハネがこの伝道旅行から離脱してしまったのです。ヨハネはまだ若く、お金持ちのお坊ちゃまだったので、厳しいこの伝道旅行にはついて行けないと思ったのでしょうか。理由は書いていないのでわかりません。とにかく彼はエルサレムに帰ってしまったのです。このヨハネをめぐっては、のちに次の伝道旅行に連れて行くか行かないかで、パウロとバルナバが反目し合い、互いに別行動をとる原因になってしまうのですが、それはまた、後ほど詳しく学びましょう。とにかく仲間が一人欠けたのは大打撃でした。しかし、だからと言ってこの伝道旅行を中断するわけにはいきません。彼らはヨハネに別れを告げて、アンティオキアに向かいました。このアンティオキアは、彼らが派遣されたアンティオキア教会のあるシリアのアンティオキアではなく、ピシディアのアンティオキアです。ぺルガから内陸に入ったところにあります。彼らはそこでもユダヤ人の会堂を拠点に伝道しました。   1,安息日に会堂で奨励をするパウロ ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)での礼拝の場面は、先週も出てきました。イエスさまがナザレの会堂で、会堂司にイザヤ書の巻物を渡されて、それを朗読し、座って「今日この聖書のことばが実現しました!」と聖書の説き明かしをしました。この聖書朗読で立って、説教で座ると言うのは、ユダヤ式の礼拝形態だったようです。ところがパウロは、他の人が聖書を朗読した後、会堂司に指名されると、立ち上がって、手振りで会衆を静かにさせてから話し始めたのです。

宣教開始(ルカの福音書4:14~21)

  「宣教開始」 ルカの福音書 4:14-21 ルカの 1 章、 2 章ではイエスさまの誕生のいきさつが詳しく書かれていました。そして 3 章になると、バプテスマのヨハネが登場します。「主の通られる道をまっすぐにする」という使命を果たすべく、ヨハネは人々に悔い改めを迫り、ヨルダン川でバプテスマを授けました。そして 4 章から成人したイエスさまが登場します。この時イエスさまは 30 歳ぐらいだったと言われています。そしてこの後の約 3 年間を公生涯と言って公の宣教活動をされました。それでは公生涯に入る前は何をなされていたか…。イエスさまは大工のせがれとしてガリラヤのナザレで普通に生活しておられたのです。私たちと同じように日々の糧を得るため汗水たらして働き、父ヨセフの仕事を手伝っていました。何も 30 歳でスーパーマンのように突如として現れたわけではないということです。こうしてイエスさまは、父なる神さまのご計画に従って、救いの道を開くために十字架に向かって歩み始めました。 4 章以降で、まずイエスさまは聖霊によって導かれ、荒野で 40 日間断食しました。そしてサタンの試みを受けられたのです。断食の期間中、人としてのイエスさまは、飢えと疲れによって非常に弱っていましたが、そんな状態にあっても神のことばを武器にサタンを撃退し、大勝利を治めたのでした。そしてイエスさまは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られました。   「帰られた」とあります。そうなのです。イエスさまはガリラヤに帰られました。当時の都エルサレムで華々しくメシヤデビューしたわけではないのです。イエスさまはご自分が生まれ育ったガリラヤの田舎町を「帰るところ」としてくださいました。皆さん思い出してください。ガリラヤと言えば、預言者イザヤによって「異邦の民のガリラヤ」、「闇の中」「死の陰の地」と呼ばれたその地でした。霊的には暗いガリラヤです。それに「預言者は故郷で尊ばれない」というようにイエスさまにとって故郷であるガリラヤは伝道しにくいところだったはず。それでもイエスさまはここから宣教を開始したのです。それだけではない。イエスさまの宣教活動の大半は、このガリラヤが舞台だったのです!まさにイザヤの預言がここに実現しました。 「異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住ん

「御霊によって祈る」(エペソ6:18)

「御霊によって祈る」 エペソ人への手紙 6:18   今日の聖書箇所は、今年の年間聖句です。昨年の年間聖句は第一ペテロの 2 章2節。生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めなさい。」でした。そして今年のテーマは祈りです。「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」エペソ人への手紙 6 章 18 節の前半部分です。 さあ、「祈り」と聞くと皆さんどう思うでしょうか。ある人は、「祈りか~、苦手なんだよね」と思うかもしれません。わたしもそうです。聖書や信仰書を読むのは、時間さえとればむしろ容易いですが、祈りは時間をとったうえで、集中しないといけない。これが難しいのです。今日は、そんな祈りが苦手という私を含めた皆さんのためのみことばです。    さて祈りの目的は何でしょうか。何でも行動に移すには動機と目的が必要です。この個所では祈りの目的は「強められること」だと言っています。さかのぼって 10 節を見るとこうあります。「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい」。「終わりに言います。」というのは、この手紙を書いたパウロが、文末にどうしても言いたいことを書いたということでしょう。またこの時パウロはローマの獄中で鎖につながれていました。そしていつ裁判が行われ、処刑されるかわからない状況にあったのです。そのことを思うと、ひょっとしたら人生の最後という意味で、「終わりに言います」と言っていたのかもしれません。とにかくパウロは、文末にかなり強い調子で「強められなさい」と言っています。そして、 11 節、 13 節、 14 節で立て続けに「堅く立ちなさい」と 3 度も言っているのです。  どうして強められて、堅く立たないといけないのでしょうか。最近は、「ゆるい」という言葉を頻繁に聞きます。社会全体が疲れていて、緊張しているので、ゆるさを求めているのかもしれません。けれどもパウロは、強められるように、堅く立つようにと言っています。なぜでしょうか。それは悪魔の攻撃があるのでそれに対抗するためです。「悪魔」については続けて補足説明があります。「悪魔」とは、「支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊」( 12 節)です。そして悪魔は 16 節にあるように、私たちを攻撃し