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12月, 2022の投稿を表示しています

星に導かれて(マタイの福音書2:1〜12)

今日の聖書箇所には星が出てきます。ここに登場する東方の博士たちは、「その方の星」を見たので、はるばるエルサレムまで1200キロもの道のりを、キャラバン隊を組んでやってきたというのです。この星博士ですが、博士と言うより占星術師と言った方がいいでしょう。星を観察しながら、災害がくるぞとか戦争が起るぞとか予告をして、国の為政者たちに忠告したり、進言したりしていたようです。 彼らは、東の国で不思議な星を見つけました。皆さんのまわりには星マニアはおられるでしょうか。私の経験からすると、星好きの方は、たいてい好奇心旺盛です。見たことのない不思議な星を見つけようものなら、それを調べないではいられないでしょう。さっそく彼らは調べ始めました。すると過去にこの東の国に捕囚の民として連れて来られた民族が残していった資料に出くわした…そう考えることができるでしょう。そこにはこうありました。「ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一本の杖が起こり…」(民数記24:17)これだ!と思った彼らは、この星はユダヤの王、いや世界の王が生まれたしるしだと確信したのです。そして星を頼りに長い道のりを恐らく数ヶ月かけてやって来ました。あとに出て来るように貴重品をたくさん持っていましたから、よくある絵のように、 3 人の博士がラクダに乗ってお気楽旅…とはいかなかったことでしょう。キャラバン隊を組んで、非常時にも対応できるようにしました。また人やラクダなどの食料や水を準備しなくてはいけません。恐らく準備に何日も要したことでしょう。またそもそも「ユダヤの王」を礼拝しに行きたいと王に申し出たとしたら、はいそうですかどうぞと、すぐに許可してくれたとは思えません。だいたいユダヤの国は、600年前には宿敵でした。当時の東の国、バビロニア王国やアッシリア王国は、イスラエルを滅ぼし、多くの人々を捕囚として引いて行った国です。そう思うと、東の国の王がやすやすと旅の許可をしたとは思えないのです。きっと一悶着あったでしょう。とにかく、そうこうしてるうちに時間が流れ、エルサレムに到着したのは、すでにイエスさまがお生まれになってから、1年以上、いや2年近くも経ってしまっていたいたのです。彼らが最終的にベツレヘムに着いたときには、赤ちゃんだったイエスさまは、「幼子」、つまり「幼児」になっていましたし、彼らはすでに家畜小屋では

時が満ちて(ガラテヤ人への手紙4:4〜7)

「時が満ちて」(ガラテヤ 4:4 ~ 7 )  齋藤五十三師 1.      時が満ちて 4 節(読む) 時が満ちて、神はご自分の御子を遣わされた。 これはクリスマスの出来事です。 「時が満ちて」、つまり、クリスマスの出来事は、偶然とか思いつきではなく、満を持してのこと。背後に深いご計画があったのだと、パウロは私たちに伝えています。 この計画は神の胸の内にありました。しかもそれは、深い配慮と熟慮をもって練られたもので、じっと実現の時まで準備に準備を重ねたものであったのです。  確かに、歴史を紐解くと、御子キリストの生まれた時代は、満を持してと言うのに相応しい、特別な時代であったと分かります。それはローマの平和が地中海世界を覆っていた時代です。すべての道はローマに通じると言われ、道路も整備され、人々も行き交っていた。また言葉においては、今日の英語のような、コイネーと呼ばれるギリシャ語が広く使われ、違う地域の人でもかなり自由にコミュニケーションをとることができました。 しかも、そんな時代の便利さとは裏腹に、人々の心は飢え渇いていたと言います。各地の伝統的な宗教は行き詰まり、ローマ社会も、ユダヤ人の社会でも、人々は心に抱えきれないような問題を抱えていたそうです。例えば、福音書の初めに洗礼者ヨハネが、大勢の人々に悔い改めの洗礼を授ける場面が出て来ますね。 ヨハネの元に多くが押し寄せるほどの、心の飢え渇きを人々は抱えていたというのです。  でも神は、そんな時代の様子を見て、臨機応変に御子を遣わしたわけではありません。先ほど申し上げたように、深い計画に基づいてのことであったのです。パウロが記したエペソ人への手紙によれば、神は何と、この世界の基、土台を置かれる前からご計画を練っていたと言います。そうです。神はそれほどの思いをもってこの世界を、人々を、そして私たち一人一人を気遣っている。皆さん一人一人のことも配慮し、思っておられる。そんな深い思いが、このクリスマスの出来事の背後にあったことを、まずは覚えておきたいと思います。   2.      「女から生まれた者、律法の下にある者」という謙遜  さて、そのようにして時が満ちる中、神は何をなさった、というのでしたか。神は、御自分の御子を遣わされたのでした。 クリスマスとは、神が御子を遣わして下

その名はインマヌエル(マタイの福音書1:18〜25)

先週は、朝岡先生がルカの福音書のマリアの受胎告知から説教をしてくださいました。御使いから「おめでとう、恵まれた方!」と告げられ、何が「恵み」なのかと戸惑うマリアでしたが、神さまの救いのご計画という、大きな「恵み」を前に、自分のイメージしていた「恵み」を引っ込めて、「おことばどおり、この身になりますように」と祈るマリアの姿に教えられたことでした。 ルカの描くクリスマスのストーリーは、明るいです。老夫婦ザカリヤとエリサベツに子どもが与えられたストーリーから始まり、マリアの受胎告知。戸惑いはあっても、いさぎよく「おことばどおり、この身になりますように」と告白するマリアの口からは賛美がほとばしり出るのでした。続く羊飼いのストーリーも、天上の御使いたちの大合唱が描かれています。なんとも明るいではないですか。それに比べて、マタイの描くクリスマスは暗い。まず系図から始まるというのがとっつきにくい。メシアが生まれるという預言の成就という意味で、欠かせないのは分かるけれど、読み手には堪えます。そして、今日取り上げるヨセフの苦悩の場面。そして東の国の博士の来訪と、ヘロデ王の 2 歳以下の男の子の大虐殺事件。なんとも暗い印象を受けます。言ってみれば、ルカがクリスマスの光の部分を描いたとすると、マタイは、その光によってできる影の部分を描いていると言ってもいいでしょう。けれども、太陽の光が強ければ強いほど、濃い影ができるように、神の救いの成就という大きな光が現れたときに、おのずと深い影が差すのかもしれません。 さて今日は、ヨセフの苦悩に目を留めていきましょう。18節 「イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」 今年の夏にうちの娘二人が結婚しました。結婚前の娘たちは、もちろん嬉しさはあるのですが、マリッジブルーというのでしょうか、戸惑いや多少後ろ向きの感情も出て来ていたようです。ところが、お相手の男性の方は、もう結婚に向かってまっしぐら、後ろを振り返ることなく、期待いっぱいでその日を待っているのがよくわかりました。男性の方が単純…、(もとい!)純粋なのでしょうね。そんなことを考えると、この時のヨセフの落胆は、どれほどだったか想像できます。当時の婚約期間は1年ぐらいだったよ

おことばどおり、この身に(ルカの福音書1:26〜38)

『おことばどおり、この身に』  ルカ の福音書1:26-38   12 月に入りました。早いもので一年の締めくくりの月となります。また先週から待降節が始 まって、今日はその第二主日です。戦争は終わらず、疫病も止まず、闇の力が重くのしかかる 暗い時代に、まことの光としてお出でくださった御子イエス・キリストを待ち望む日々を、よい備 えをもって過ごしたいと思います。日々の忙しさに追われ、待ち望むこと、備えること、静まること を忘れがちな私たちです。落ち着いた心で、御子を迎える備えをさせていただきましょう。皆さ んお一人一人に、主イエス・キリストの祝福が豊かにありますように祈ります。 1.マリアへの受胎告知   今、私たちの手に届けられ開かれている聖書は、神さまの私たちに対する愛と救いのメッセ ージを伝える誤りない「神の言葉」です。そしてその主人公は私たちの救いのために父なる神 がお遣わしくださり、人となって私たちのもとに来てくださった神の御子イエス・キリストです。し かしまた聖書には神にあって歩んだ多くの人々の姿が描かれてもいます。その多くは私たちに とって生きた時代も場所も境遇も異なる人々ですが、しかし聖書が赤裸々に記す彼らの人生 を見つめていくと、そこには生きることにともなう様々な艱難辛苦を経験し、躓きや失敗を繰り 返し、涙や痛みを味わい、人生の重荷を背負って歩んだ等身大の人々であったことが分かりま す。その意味で聖書は「人間の書」であるとも言えるでしょう。   聖書は一人の人の人生を軽んじません。むしろ聖書には人間に対する深い理解と洞察が あります。人が生きることには労苦がともない、人生における涙や痛みを味わい続けるような 人生があることを知っています。その上でそのような人生は誰一人として無意味であったり、無 価値であったりするものではないことを証ししています。そこには神によって生かされる人生の 尊厳、生きることそのものへの大いなる肯定があるのです。   今朝、私たちも聖書に出てくる一人の人物に目を留めたいと思います。それが「マリア」で す。聖書の中で印象に残る登場人物を挙げたら恐らく上位に入るのがマリアでしょう。イエス・ キリストの母となった女性、しかも天の使いの告知によって神の子を実に宿した処女として、歴 史の中でももっとも崇められてきた女性の一人ですしかしそれ