「時が満ちて」(ガラテヤ4:4~7)
1. 時が満ちて
4節(読む)
時が満ちて、神はご自分の御子を遣わされた。 これはクリスマスの出来事です。 「時が満ちて」、つまり、クリスマスの出来事は、偶然とか思いつきではなく、満を持してのこと。背後に深いご計画があったのだと、パウロは私たちに伝えています。 この計画は神の胸の内にありました。しかもそれは、深い配慮と熟慮をもって練られたもので、じっと実現の時まで準備に準備を重ねたものであったのです。
確かに、歴史を紐解くと、御子キリストの生まれた時代は、満を持してと言うのに相応しい、特別な時代であったと分かります。それはローマの平和が地中海世界を覆っていた時代です。すべての道はローマに通じると言われ、道路も整備され、人々も行き交っていた。また言葉においては、今日の英語のような、コイネーと呼ばれるギリシャ語が広く使われ、違う地域の人でもかなり自由にコミュニケーションをとることができました。
しかも、そんな時代の便利さとは裏腹に、人々の心は飢え渇いていたと言います。各地の伝統的な宗教は行き詰まり、ローマ社会も、ユダヤ人の社会でも、人々は心に抱えきれないような問題を抱えていたそうです。例えば、福音書の初めに洗礼者ヨハネが、大勢の人々に悔い改めの洗礼を授ける場面が出て来ますね。 ヨハネの元に多くが押し寄せるほどの、心の飢え渇きを人々は抱えていたというのです。
でも神は、そんな時代の様子を見て、臨機応変に御子を遣わしたわけではありません。先ほど申し上げたように、深い計画に基づいてのことであったのです。パウロが記したエペソ人への手紙によれば、神は何と、この世界の基、土台を置かれる前からご計画を練っていたと言います。そうです。神はそれほどの思いをもってこの世界を、人々を、そして私たち一人一人を気遣っている。皆さん一人一人のことも配慮し、思っておられる。そんな深い思いが、このクリスマスの出来事の背後にあったことを、まずは覚えておきたいと思います。
2. 「女から生まれた者、律法の下にある者」という謙遜
さて、そのようにして時が満ちる中、神は何をなさった、というのでしたか。神は、御自分の御子を遣わされたのでした。 クリスマスとは、神が御子を遣わして下さったということ。これは、普段から教会に来ている人にとっては、当たり前のメッセージかもしれません。 しかし、それは決して当たり前ではなく、大変な謙遜、へりくだりなくしてはあり得ないことだったと、そうした謙遜を4節はこのように記していました。「女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました」と。
「女から生まれた」とは、言い換えれば、神の御子が私たちと全く同じ人間として生まれた、ということです。人は皆、母親の胎から生まれてくるし、人類はそうやって命を繋いできたのですが、そのように女性を通して人間が命を繋いでいくようになさったのは、他でもない神様ご自身でした。神がそのように人を造ったのです。そして、そのような人間の創造には、キリストご自身もかかわっているのです。 人間を造ったのは、父なる神さまだけではない。ヨハネ福音書がその冒頭で、「すべてのものは、この方(つまりキリスト)によって造られた」と記すように、イエス・キリストもまた、私たちの命を造ってくださった神ご自身なのです。
しかし、そのように人間を造った神であるキリストが、何と「女から生まれた者」となってくださった。人間を造ったお方が、今度は、人間の一人として生きるために来てくださった。これは、へりくだる謙遜なしには、決して出来ないことであったと思うのです。
「律法の下にある者として」来てくださったこともまた、謙遜な姿勢を表しています。 ここで言う「律法」は、この文章の流れで言うと、単にユダヤ人の律法ということではなく、異邦人も含めた、すべての人が守るべきもの。「生きる道」とも呼ぶことができる大きな掟です。すなわち、神と人を愛して生きなさいという愛の律法。イエス様ご自身が、聖書の全体が、実は、この「神と人を愛して生きなさい」という、大きな法を土台にしているのだ、とおっしゃいました。私たち人間は、神と人を愛するために生きている。 そして、この神と人を愛するよう命じる律法もまた、神が定めて、人間に与えたものだったのです。 でも、神ご自身であるキリストが、今度は人となって、御自分が定めた律法に従うためにこの世界に来てくださった。これもまた、何と言うへりくだりなのか、と思うのです。
そうです。驚くようなへりくだりです。生命を造った方が、女から生まれて人間となり、律法を定めたお方が、その律法の下に身を低くして、神と人を愛するために生きようとなさった。 なぜ、そこまで身を低くすることができるのでしょうか。それは、そこに愛の動機が働いているからです。
女から生まれた者、律法の下にある者として来てくださったという謙遜の大きさ。これは話が大きすぎて、私たちには、イメージしにくいかもしれません。でもこれを、先輩牧師の水草先生という方が、分かりやすい例えで教えてくださいました。この先生、難しいことを分かりやすく、一枚の絵にするように話すのが得意なのです。水草先生曰く、キリストが地上に生まれたへりくだりは、犬好きの人が、犬を愛するあまり、犬小屋に暮らすようなものだと言うのです。犬好きの人が、犬小屋に暮らす。それがクリスマスの出来事。
犬の主人は、自分の犬に、犬小屋のような生活の場所を与えて、いのちを守る工夫をするものです。そして、餌を与えるときには「お座り」させるような、生きるルールも定める。しかもです。その主人にもし、犬を愛する思いが溢れたら、もっと犬を近くで助けたいと、犬小屋で一緒に暮らすようになるかもしれない。一緒に暮らせば、犬の気持ちもさらによく分かるようになる。 まあ、そこまで犬を愛する人を私は見たことがありませんから、これはあり得ない謙遜、あり得ないへりくだりですが、神は、そのあり得ないことをした。 実はこれが、神の御子が人となった、ということなのです。 人間を創造したお方が人となり、自ら定めた律法に従うために地上に暮らした。これはあり得ない愛から生まれた、あり得ない謙遜。 そして、このあり得ない謙遜をキッカケに、人間の歴史は、大きな転換を迎えることになるのです。
3. 贖い、神の子となるために:クリスマスの最大の目的
イエスさまは、大変な謙遜をもって人となってくださいました。そこには二つの目的がありました。 一つは、律法の下にある者を贖い出すため、そしてもう一つは、私たちが神の子の身分を受けるため。
5節(読む)
「贖い出す」という言葉、これは、もともとの意味は繋がれている奴隷を買い取って、自由にすることを意味しました。 すなわちイエスさまは、律法の下にある人間を解放し、自由にするためにこの地上に生まれくださったのです。その前提としてあるのは、私たち人間は皆、律法に縛られていて、不自由であるということです。
律法に縛られている、と聞くと、素朴な疑問を抱く方があると思います。律法は、神がくださった、神と人を愛することを教える良い掟なのに、なぜ人間を縛ってしまうのですか、と。 確かにそうです。律法は本来、とても良いものなのです。 でも、この良い律法を物差しにして人間を測ってみるとどうでしょう。良いものであるだけに、逆に人間に不足や足らなさがすぐに分かってしまう。すなわち、神と人を愛することができない、私たち人間の自己中心な姿が、鏡に映し出されるように明らかになってしまう。これが「罪」の問題です。聖書が教える「罪」とは、簡単に言えば人間の自己中心性なのです。神と人を愛することが良いことだと分かっていても、愛することが出来ない。いつも自分の都合で考えている。そんな自己中心性が、律法という鏡の前に立つと分かってしまう。そして、そこから逃れることができない。人間は罪のゆえに、律法の下で縛られて生きているのです。
ところが、ところが、でした。その律法の下で私たちと一緒に生きるためにキリストは人となった。それは私たちを自由にし、解放するためであったのでした。そう、イエスさまは、私たちを贖い出し、自由にするために、この地上に人としてお生まれ下さった。これがクリスマスの第一の目的。 そして、その先に、もう一つの目的があるのです。私たちが、神の子どもとしての身分を受けるため。これが、クリスマスの最大の目的です。
神が人となられたクリスマスの目的が、罪の解決にあるということ。これは一般によく言われることだと思います。でも、この第一の目的で止まってしまって、その先があることが、実はあまり語られていない。すなわち、クリスマスの目的は、私たちを罪から自由にすることだけではなく、さらにもう一歩、私たちを神の子どもとすることなのです。
なぜ、神の子キリストが、犬小屋のような地上に下り、人の子となったのでしょう。それは、私たちが神の子どもになるためだった。私たちを神の子にするために、まことの神の子が、マリアから生まれて人の子となってくださった。今日は、このクリスマスのメッセージを、深く心に留めて頂きたいのです。
結び
私たちを神の子にするために、御子キリストは、人の子として生まれた。
私はよく皆さんに申し上げています。私たちは、神の子どもですと。そのようにして私たちが神の子となったことは、クリスマスの出来事がもたらした大きな実りなのです。
でもどうでしょう。皆さんの内には、自分が神の子であるとの実感がどれほどあるでしょうか。私たちは普段から、自分が神の子であることを、どれほどに感じているでしょうか。 実は、私たちはある一つのサインを通して、自分が神の子であることを確かめることが出来るのです。そのサインが現れると、私たちは、自分が神の子であることに気付くのです。そのサインは、お祈りです。私は断言します。日常生活の中で、祈っている人は、神の子どもです。困った時、苦しい時、病気の時、あるいは感謝の時、嬉しい時も、「天の父よ」と神に祈る人は、間違いなく神の子ども。なぜなら、その人の心には聖霊が住んで働きかけ、「父よ」との祈りを導いているからです。
6節(読む)
祈る人は、間違いなく神の子ども。私たちの中には、そうやって、クリスマスの出来事が実を結んでいるのです。クリスマスに神の御子が人となって来てくださったから、私たちは今日もまた、「天の父よ」と、祈ることができる。すべては、神の子が地上に降り立ち、人となった出来事から始まっているのです。
今から五十年前の1972年4月、アポロ16号が月に着陸し、一人の宇宙飛行士が月に降り立ちました。チャールズ・デュークという人です。 実は、アポロ計画の宇宙飛行士の中には、月に降り立った経験を通して人間の小ささ、そして神の大きさを知り、クリスチャンになった人が少なくないのです。このデューク宇宙飛行士もその一人です。彼は今も存命中ですが、このような言葉を語りました。 人が月に降り立ったことも、神の御子が地上に降り立ったことに比べるならば、まことに小さな出来事に過ぎない。神の子キリストが地上に降り立ち、人として生まれた。この奇跡に優る驚きはないとデューク氏は語っています。 そして、この奇跡が私たちの中に実りを結んでいるのです。私たちが「天の父」と祈る度に思い出して欲しい。そのように祈れるのは、御子キリストが人としてお生まれくださったからなのだと。この驚きを、今日も心に刻みたいと思います。お祈りします。
天の父よ、感謝します。私たちがこのように祈れるのは、御子が人となった、クリスマスの恵みあってのことでした。今も生きて働くキリストの命に生きる私たちの証しを通して、さらに多くの方々が、神の子どもとされていきますように。生ける御言葉、人となられたイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン!
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