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4月, 2020の投稿を表示しています

石を取りのけなさい

「石を取りのけなさい」(ヨハネ 11:28~44 )  天のお父さま、感謝します。神の言葉に耳を傾けるこの時、聖霊が豊かに働き、御言葉に聴く私たちの心に光を照らしてくださいますように。御言葉の内に主イエスの御声を聴き取ることができますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン! 1. その石を !?   39 節 a 「イエスは言われた。『その石を取りのけなさい。』」  ここでイエスさまが言われた石とは、果たして墓穴をふさぐ実際の石のことだけだったのだろうか ? 読みながら私は、そう思わずにはいられませんでした。イエスさまの言葉に驚くマルタたちの反応に触れて、思わずそんなことを考えてしまったのです。「これは実際の石のことだけなのか ? 」と。  主イエスが「石を取りのけなさい」と命じた時、人々は驚いたのです。驚くということ。これは普通の反応だと思います。ラザロが葬られてからすでに四日が経っていました。火葬ではありませんから当然、腐臭がするはず。マルタは驚いて言葉を返します。「主よ、もう臭くなっています」と … 。マルタは本来、信仰深い女性です。すぐ前の 27 節で「わたしを信じる者は永遠に死ぬことがない」との主の言葉に「主よ。信じております」とすぐに応えた、この信仰深いマルタでさえ、この時ばかりは「もう臭くなっています」と驚く。ここに信仰者と言えども、人間の限界があったのだと私は思いました。  ここで私が考えたのはこういうことです。この時、石でふさがれていたのは墓穴だけではなかった。墓を取り巻く人々の心の眼もまた石でふさがれ、見るべきものが見えなくなっていたのでは、と。そうです。この時、集まった人々の心にはいろんな思いが交錯していました。主は、彼らの心の眼をふさいでしまっている、その石も取りのけようとされたのではなかったか。「石を取りのけなさい」との言葉に驚く人々の反応は、主イエスには見えるものが、彼らには見えなかったということを物語っています。  私たちはどうでしょう。私たちの信仰の眼を何かがふさいでいて、大事なものが見えなくなっているということはないだろうか。「石を取りのけなさい」との言葉は、実は私たちに向けても語られているのかもしれません。でも、誤解のないようにと願います。主イエスはここで、

朽ちるものが朽ちないものに

「朽ちるものが朽ちないものに」 コリント人への手紙第一  15 : 50 ~ 58  先週はイースター礼拝でした。説教ではヨハネの福音書のトマスから学びました。懐疑論者トマスとの異名を持つ彼は、実は誰よりも主を愛し、復活の主に会えると信じて待ち続けた信仰の人でした。そして、「見ないで信じる者は幸い」とトマスに言われたイエスさまは、今を生きる私たちも聖霊によって復活の主を信じることを求めておられます。私たちは聖霊によって、復活の主を信じ、「私の主!私の神!」と告白することができるのです。 【序論】 さて、今日の聖書箇所も、私たちの復活信仰に関わる重要な個所です。申し上げるまでもなく、イエスさまの復活があってこその私たちの復活です。言い換えると、もしイエスさまが復活しなければ私たちの復活もないということです。ですからこのコリントの手紙を書いたパウロは 15 章の 3 ~ 5 節で、「最も大切なこと」として以下のことを言っています。 「キリストは聖書に書いてある通りに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてある通りに、三日目によみがえられたこと、またケファに現れ、それから 12 弟子に現れたことです。」 ここでパウロは、キリストの復活がゆるぎない事実であることを確認しています。ところが12節以降を見ると、「キリストは死者の中からよみがえられた」のに「死者の復活はない」と言う人たちがいたとあります。現代人にとって復活は信じがたいことであることは私たちもわかります。けれどもそれは当時の人々にとっても簡単なことではなかったのです。「死んだ者が再びよみがえるなんてありえない!」という人が少なからずいました。パウロはそんな人々に、キリストは確かに十字架にかかって死んだこと、葬られたこと、三日目によみがえられたこと、そしてイエスの復活については多くの証人がいるのだということを熱く語っています。そして、その流れの中で、キリストが復活されたならそれを信じる信仰者の復活も必ずあるということを 12 ~ 28 節で語っています。そしてその後、具体的に復活のからだについて、 35 ~ 49 節にかけて説明しているのです。それはからだの復活であり、そのからだは、朽ちないからだ、栄光あるからだ、力あるからだ、そして御霊に属するからだだと説明

見ないで信じる者は幸い

「見ないで信じる者は幸い」 ヨハネ福音書20章24~31節 復活によって罪と死に勝ち、今も生きて、この世界を統べ治めていらっしゃるイエスキリストの父なる神様。あなたの聖なる御名を心から賛美申し上げます。あなたの復活を記念するこのイースターの朝、復活の主を礼拝することのできる幸いを心から感謝致します。主イエス様は、私たちの罪の身代わりに、多くの苦しみを受け、十字架にかかって死んでくださり、贖いを成し遂げてくださったばかりか、3日目によみがえってくださいました。それは、私たちに復活の希望を与えてくださるためでした。世界は今、まさに闇の中にあります。私たちには光が必要です。よみがえりの希望が必要です。主よ。今朝、復活の光で私たちを照らしてください。この世界を照らしてください。これからみことばに聞きます。語るこの小さなものを主がきよめてお用いください。ゆだねつつ、主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン  先週は、受難週主日でしたので、私たちはイエス様の十字架の苦しみの意味について学びました。十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたイエスさまは、子としての身分を放棄し、神に捨てられ、神への従順を貫いてくださることにより、私たちが「父よ」と神さまをお呼びする道を開いてくださったのでした。 イエスさまは、本当に息を引き取りました。死なれたのです。イエスさまの体は、十字架から取り降ろされ、アリマタヤのヨセフという人が、自分が所有する新しい墓を提供し、遺体をそこに納めました。「イエスと言う奴は、生前自分がよみがえると公言していたらしい」ということで、墓の周りには番兵が立ち、イエス様の遺体は厳重に見張られていました。しかも墓の入り口は、大きな石でふたをされており、容易には空けられません。ところが、安息日が明け、イエスさまが死んでから三日目の朝、女の弟子たちが墓に向かうと、墓を塞いでいた石は取り除けられ、墓の中は空っぽで、イエス様の死体はそこにはなかったのです。そしてヨハネの記述によると、イエスさまは、まずマグダラのマリヤにその復活のお姿を現しました。その後、その日の夕方、弟子たちがユダヤ人たちを恐れて鍵がかけられていた家に集まっていたところに、「 シャローム(平安があるように) 」と言って現れ

わが神、どうして

「わが神、どうして」 マタイ27:45~50 牧師 齋藤千恵子  今週は受難週です。就任して初めての礼拝が受難週の主日というのは、実に意味深です。また新型コロナウイルスの不安と脅威の中での礼拝、緊張します。しかしこのような中でも主を礼拝するためにお集まりくださった皆様に敬意を表します。コロナ対策のために普段の礼拝とは勝手の違うところも多々あり、戸惑われている方もいらっしゃると思います。けれども万全の体制とは言えないまでも、できる限りの体制をもって、何とか礼拝を続けたいと思っていますので、ご理解くださいますようお願いします。  さあ、イエスさまの苦難と十字架に思いを馳せながらみことばに聞きましょう。 27:45 さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。  私たちが生きているこの世界は、「光よ、あれ!」で始まりました。世界が始まる前「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり…」という状態でした。真っ暗闇でした。そこに神の愛のご意思が働き、「光よ、あれ!」とおっしゃった。そう、神さまが私たちに御顔を向けられた時に光があったのです。  しかし、神の御子イエスさまが人に裁かれ、断罪され、裏切られ、あざけられ、鞭うたれ、標本の虫のように十字架に釘づけにされ、磔になったときに、闇が全地を覆いました。この闇は何を表しているでしょうか。聖書が「闇」に言及するとき、その意味するところは、「霊的無知」であり、「悪」であり、「さばき」であり、「苦しみ」です。例えば、出エジプトの時、イスラエルがエジプトから出て行くのを阻止したエジプトとその王ファラオに神は10の災いを下されました。その中の一つが、エジプト人が住むところだけ、3日間真っ暗闇になるという災いでした。けれどもイスラエル人の住むその場所には「光があった」と書かれています。そうなのです。神さまが御顔を向けたところに光があり、神の臨在のあるところに光があるのです。反対に神かが御顔を背けたところ、神がいないところ、そこは闇なのです。そしてイエスさまが十字架につけられたその時、全地は闇に覆われました。 27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。  この部分は

礼拝メッセージ

今、新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るっています。 そのような中で教会によっては、 礼拝に集まることを控え、 オンラインで礼拝を始めたところもあります。 私たちの教会は、 慎重に集まりを続けながらも、 来られない方々のために 礼拝メッセージを配信することにしました。 教会員に限らず、 キリスト教や聖書に興味を持っていらっしゃる方にも 聖書のメッセージをお届けしたいと思っていますので、 ぜひご利用ください。 みなさまの上に神さまの豊かな祝福がありますように。 祈りつつ。 牧師 齋藤千恵子