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9月, 2021の投稿を表示しています

主にあって、人をつなぐ(ローマ人への手紙16:1-2)

  「主にあって、人をつなぐ」 (ローマ 16:1-2 ) 齋藤五十三   最初に、今日、新船橋キリスト教会にあって礼拝を共にしている皆様によろしく、とお伝えします。 オンラインにて礼拝しておられますお一人お一人によろしく。また、礼拝堂に集っておられるお一人お一人にもよろしく。   「五十三先生、今朝はどうしたのか ... 」と不思議に思われた方もおられると思います。確かに、少し普段と違う挨拶で始めました。実は私たちの教会の実習生として良い交わりをいただいております、木田友子姉の出身の教会のグループである「ミッション東北」という団体があります。毎年秋に、ギリシャ語で交わり、或いは共同体を意味する、「コイノニア」という名前の集いを 10 月に持っておられるそうです。今年は、それをオンラインの「礼拝」として行うので、御言葉から語って欲しい、という依頼を受けました。そのコイノニア礼拝のために準備したのが、本日の説教です。お会いしたことのないミッション東北の教会の方々を思いながら準備をしたのですが、その準備の中で、私自身、教えら、また励ましをうけるところが多くありました。それは、私たちキリスト者の交わりを深いところで繋いでいるものは、いったい何かいうことです。準備する中、私も励まされましたので、「ぜひ」新船橋キリスト教会の皆さんにも分かち合いたいと願った次第です。  冒頭の「よろしく」「よろしく」の意味は、本日、共に御言葉に聴いていく中で、明らかになると思います。ご一緒に御言葉に聴いて参りましょう。   お祈りします。   天の父よ、感謝します。主にある新船橋キリスト教会の皆様と礼拝を共にするこの交わりのうちに、聖霊が豊かに働き、私たちの心を照らし、キリストの御声を聴かせてください。生ける御言葉、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン!   1.     教理と実践の向こうに 1節 「私たちの姉妹で、ケンクレアにある教会の奉仕者であるフィベを、あなたがたに推薦します。」     ローマ人への手紙をずっと読み進めてくると、最後の 16 章に入って、その冒頭、フィベという個人名が出てきます。そして「推薦します」とパウロが語っていく。私は、これを読んだ時に最初、意外に感じました。   それはローマ書という書物の性格による

毎日聖書を調べた(使徒の働き17:10~15)

「毎日聖書を調べた」 使徒の働き17:10~15 さて、私たちはパウロとシラス、テモテとルカによる第二伝道旅行から学んでいます。彼らはいつも4人で行動をしていたわけではなかったようです。パウロはどこに行っても迫害の標的にされてしまうので、短い期間で宣教地を転々としなくてはいけませんでした。ですから他の人たちは、生まれたばかりの教会の必要に合わせて、そこに残って、信徒を教え、訓練し、教会の基礎作りを手伝ったようです。 さて、こうして次の宣教地ベレアには、パウロとシラスが向かいしました。テサロニケの拠点、ヤソンの家にはもう泊まれたなくなってしまったので仕方がありません。夜の闇に紛れて出発し、テサロニケから60キロ離れたベレアに向かったのです。ベレアにもユダヤ人の会堂がありました。ですからパウロは懲りもせず、また会堂を拠点に説教をするという方法で、イエス・キリストの福音を宣べ伝えます。なぜユダヤ人にこだわるのでしょうか。またなぜ会堂にこだわるのでしょうか。なぜならユダヤ人は、何といっても選びの民だからです。ですから優先的に彼らに福音を宣べ伝えなければなりませんでした。けれどもそれだけではありません。ユダヤ人は旧約聖書を信じているわけですから、クリスチャンになるほんの手前まで来ているわけです。そして最後のただ一点、イスラエルがずっと待ち望んでいたメシアが、イエス・キリストである、そのことを受け入れれば、まるでドミノ倒しの最後のコマが倒れて全部ひっくり返るように、一人のクリスチャンが出来上がってしまうのです。 こうしてパウロはここでも会堂を拠点にして、旧約聖書の預言を引用しつつ、説明し、論証する方法をとりました。するとどうでしょう。テサロニケでは、ユダヤ人たちの「ある者たち」が信じた程度だったのですが、ここでは「多くのユダヤ人」(12節)が信じました。またテサロニケでは、「神を敬う大勢のギリシア人たち」「かなりの数の有力な婦人たち」が救われましたが、ここでも「ギリシアの貴婦人たち」、そして「男たちも少なからず信じた」とあります。そして、ベレアでも心を頑なにして信じないユダヤ人たちはいましたが、テサロニケのユダヤ人とは違って紳士で、ねたみに駆られて騒ぐこともなかったので、非常に順調に伝道が進みました。 さて、イエス・キリストを信じたベレアのユダヤ人たちのことがここに描

ねたみに駆られて(使徒の働き17:1~9)

「ねたみに駆られて」 使徒の働き17:1~9 さて、牢獄から解放されたパウロとシラスは、その足でリディアの家に行きました。紫布を扱う女性実業家で、パウロたちを通して信仰を持ち、後々までパウロたちの宣教を物心両面で支えたリディアの家です。そしてそこで「兄弟たちを励ましてから」次の宣教地に旅立ちました。迫害を受け、ムチ打たれ、牢に投げ込まれていたパウロたちですが、励まされるのではなく、かえって兄弟たちを励ました、というのですからさすがパウロです。それは強がりではなく、看守とその家族の救いの喜びが、迫害の痛みを上回ったということでしょう。    パウロとシラスは、アンピポリスとアポロニアを通って、テサロニケに到着しました。それまで同行していた「使徒の働き」の記者ルカはどうやら、ピリピに残ったようです。16章までは「私たち」となっていますが、17章以降では「彼ら」になっていますからもそれが分かります。とにかくピリピからテサロニケまで、途中アンピポリスとアポロニアで一泊ずつして目的地テサロニケまで到着しました。     テサロニケは、マケドニア州の首都で、ローマから自治権を認められている自由都市でした。ですから後に出て来るこの町の役人は、彼ら自身が選挙をして選んだ役人です。またテサロニケは、港のある貿易で栄えている町で、人口も多く、大変にぎやかだったようです。そんなテサロニケの町でしたが、パウロたちがまず目指したのは、ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)でした。ピリピには会堂がなく、川岸の祈り場でユダヤ人と異邦人求道者の集まりが持たれていましたが、ここテサロニケにはユダヤ人の会堂がありました。ということは、ユダヤ人たちが少なからず住んでいたということです。また4節を見ると、「神を敬う大勢のギリシャ人たちやかなりの数の有力な婦人たち」が、その会堂に集っていたとあります。ここのユダヤ人たちは、非常に伝道熱心だったようです。そしてパウロとシラスは、その会堂で3回の安息日を使って、聖書に基づいて、集まる人々と論じあったとあります。何もテサロニケでの滞在が3週間だったとは限りません。Ⅰテサロニケの2章9節では当時のことを振り返って、 「私たちは、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。 」とありますし、ピリピ4章16節では

獄中に響く賛美 使徒の働き16:25~30

  「獄中に響く賛美」(使徒の働き16:25~40) 皆さんは、礼拝のとき以外に讃美の歌を歌うでしょうか。賛美にもいろいろな種類があって、伝統的な讃美歌もありますし、プレイズソングやワーシップソング、最近はラップの賛美まであります。また、内容も神さまをほめたたえる讃美や、信仰告白の賛美、慰めや励ましの賛美などいろいろです。そして、賛美というのは、私たちが思っているよりも、私たちの信仰や霊性に密接に関わっています。私たちの内に住む聖霊と私たちが声に出すさんびがこだまして、下を向きがちな私たちの視線を上に向けさせます。また賛美することによって、私たちの信仰は引き上げられ、成長させられるのです。今はコロナ禍で、この会堂では賛美の歌を歌うことはできません。けれども賛美は繋がれていません。ぜひ家で、大きな声で賛美をささげてください。今日は獄中で祈り賛美するパウロとシラスの姿から学びたいと思います。   パウロたちは、占いの霊に憑かれた女奴隷を解放したことによって、主人たちの恨みを買い、長官たちに訴えられ、何の取り調べもないまま、裁判もされずに鞭打たれ、牢に投げ込まれてしまいました。背中の傷口は痛み、横になることはおろか、壁にもたれることさえできない状態だったでしょうから、真夜中になっても眠ることもできませんでした。うめき声や叫び声が獄中に響いても良さそうなこの状態の中、なんとパウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていたというのです。ああ、パウロとシラス、二人いてよかったなと思います。もちろん信仰の人パウロ(シラス)なら、一人でも祈れるし、賛美もできるでしょう。でもやっぱり二人って心強いのです。どちらからともなく祈り始め、もう一人がその祈りに心を合わせ、祈りをつなぐ。そして心に不思議な平安と喜びがひたひたと湧いてきて、自然に賛美の歌が生まれてきたのでしょう。賛美は、私たちの心に住む聖霊からあふれ出て来るものです。エペソ 5:19 には「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」とあります。賛美は聖霊の賜物なのです。 そして他の囚人たちはそれに聞き入っていました。「聞いていた」のではなくて、「聞き入っていた」のです。榊原康夫先生の注解によると、「一言も逃すまいと講義を聞く学生の姿」を現すことばだそうです。囚人たちは、