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獄中に響く賛美 使徒の働き16:25~30

 


「獄中に響く賛美」(使徒の働き16:25~40)

皆さんは、礼拝のとき以外に讃美の歌を歌うでしょうか。賛美にもいろいろな種類があって、伝統的な讃美歌もありますし、プレイズソングやワーシップソング、最近はラップの賛美まであります。また、内容も神さまをほめたたえる讃美や、信仰告白の賛美、慰めや励ましの賛美などいろいろです。そして、賛美というのは、私たちが思っているよりも、私たちの信仰や霊性に密接に関わっています。私たちの内に住む聖霊と私たちが声に出すさんびがこだまして、下を向きがちな私たちの視線を上に向けさせます。また賛美することによって、私たちの信仰は引き上げられ、成長させられるのです。今はコロナ禍で、この会堂では賛美の歌を歌うことはできません。けれども賛美は繋がれていません。ぜひ家で、大きな声で賛美をささげてください。今日は獄中で祈り賛美するパウロとシラスの姿から学びたいと思います。 

パウロたちは、占いの霊に憑かれた女奴隷を解放したことによって、主人たちの恨みを買い、長官たちに訴えられ、何の取り調べもないまま、裁判もされずに鞭打たれ、牢に投げ込まれてしまいました。背中の傷口は痛み、横になることはおろか、壁にもたれることさえできない状態だったでしょうから、真夜中になっても眠ることもできませんでした。うめき声や叫び声が獄中に響いても良さそうなこの状態の中、なんとパウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていたというのです。ああ、パウロとシラス、二人いてよかったなと思います。もちろん信仰の人パウロ(シラス)なら、一人でも祈れるし、賛美もできるでしょう。でもやっぱり二人って心強いのです。どちらからともなく祈り始め、もう一人がその祈りに心を合わせ、祈りをつなぐ。そして心に不思議な平安と喜びがひたひたと湧いてきて、自然に賛美の歌が生まれてきたのでしょう。賛美は、私たちの心に住む聖霊からあふれ出て来るものです。エペソ5:19 には「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」とあります。賛美は聖霊の賜物なのです。

そして他の囚人たちはそれに聞き入っていました。「聞いていた」のではなくて、「聞き入っていた」のです。榊原康夫先生の注解によると、「一言も逃すまいと講義を聞く学生の姿」を現すことばだそうです。囚人たちは、ある者は窃盗のかどで、ある者は強盗や殺人のかどで収監されていたはずです。ところがそんな犯罪者たちが、耳をそばだてて、一言も逃すまいと二人の祈りと賛美の声に聞き入っていました。そして看守もそれをやめさせなかった。やめさせてはいけないような何か神聖なもの、冒してはならない何かを感じたのかもしれません。そして真夜中でしたから看守は眠ってしまったようです。 

16:26 「すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。」

聖書の中には何度となく地震が出てきます。イエスさまが十字架に架かり息を引き取った時、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて…」(マタイ27:51)とあります。またイエスさまが復活されたときにも地震が起こりました。マタイ28:2「すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。」また、旧約聖書でもモーセがシナイ山に登ると「山全体が震えた」とあります。これらの地震は、神の臨在を表します。この牢獄の地震も明らかに神のなせるわざでした。この獄舎のあるところだけが揺れたのか、その地域一帯が揺れたのかは分かりませんが、確かに神が起こした地震だったのです。そしてその揺れのせいで、獄舎の扉は全部開いてしまい、おそらく壁に固定されてあったであろう鎖もみんな外れてしまったのです。

不思議なことに囚人たちは誰も逃げませんでした。パウロとシラスの賛美の声と地震は、一つの力から出ているのだとわかり、畏敬の念に満たされていたのかもしれません。ところが、地震で目が覚めた看守は、牢の扉が全部開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自害しようとしました。なぜでしょうか。囚人を逃がした看守は死刑と定められていたからです。実際、使徒の働き12章でペテロが御使いに導かれて、牢から脱走した時に、当時の王、ヘロデ・アグリッパ1世は、その牢の番兵たちを皆殺してしまいました。この看守は、どうせ殺されるなら、自害しようと思い立ったのでしょう。彼は腰に差していた短剣を抜いて自分の胸(喉)を一突きにしようとしたその時です。奥の牢から叫び声が聞こえました。「自害してはいけない。私たちはここにいる!」と。看守ははっと我に返り、明かりを求めてから、声の主(ぬし)であるパウロたちが収監されている一番奥の牢に駆け込んで行って、震えながら二人の前にひれ伏しました。 

16:30 そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。

16:31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

看守はパウロとシラスを外に連れ出しました。その際に、彼は他の囚人たちをもう一度鎖につなぎなおしたか、扉に錠をかけなおしたのだろうと言っている注解者もいますが、わかりません。ただ確かなことは、最終的に誰一人逃げなかったことです。

「救われるために何をしなければなりませんか」これは、本人が意識していようとしていまいと、誰もが持っている問いです。ひょっとしたらこの看守は、ずっとその問いを持ち続けていたのかもしれません。けれども誰もその問いに答えてくれる者はいなかった。ところが、看守はこの一連のことを通して、この人たち、パウロとシラスはその答えを持っているとわかったのでしょう。そして「救われるためには、何をしなければなりませんか?」救われるために何かをする。難行苦行を積むとか、たくさん献金するとか、善い行いをするとか、人が考えつく救いの条件はそのようなものです。しかし、パウロとシラスは彼に答えました。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」キリスト教の救いは行いによる救いではありません。信仰による救いです。つまり、信頼してそこに乗っかる救いなのです。皆さん今椅子に座っていますが、この椅子の強度を疑っていたらそうして座っていられないでしょう。この椅子は丈夫で、壊れることはないと信じているから座っているのです。自分の身をゆだねているのです。そのように「信じる」というのは「信頼して、安心して身をゆだねる」ということなのです。「救われるために何をしなければなりませんか」との問いに、パウロとシラスは答えます。「主イエスを信じなさい。」「主イエスをあなたの主として心に迎え、信頼して、安心してあなたの人生をお任せしなさい」皆さんは、この信仰をもっていらっしゃるでしょうか。

16:32 そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。

 何も家長一人が信じれば、家族全員自動的に救われるわけではありません。この看守はすぐさまパウロたちを家に連れて行って、家にいる者全員に主のことばを語ってもらいました。パウロたちは、イエスさまが神の子であられるのに地上に来られたこと、それは十字架によって私たちの罪を贖うためだったということ、そしてイエスさまは復活され今も生きておられ、御自身を受け入れたすべての人に新しいいのちを与えて下さることを語ったのです。そして、その日の晩に家族全員、イエスさまを信じる決心をし、バプテスマ(洗礼)を受けたのです。 

 こうしてパウロたちは、一旦牢を出て、看守の家族を信仰に導き、傷の手当てをしてもらい、食事のもてなしを受け、再び牢獄に戻って来ました。おそらく、看守はこのままパウロたちを逃れさせようとしたと思いますが、パウロたちが、獄舎に戻してほしいと願ったのでしょう。そして夜が明けました。

16:35 夜が明けると、長官たちは警吏たちを遣わして、「あの者たちを釈放せよ」と言った。16:36 そこで、看守はこのことばをパウロに伝えて、「長官たちが、あなたがたを釈放するようにと、使いをよこしました。さあ牢を出て、安心してお行きください」と言った。

パウロたちが訴えられた罪は、せいぜい騒乱罪ぐらいのもので、むち打ちにして一晩牢に留置すれば、それで十分だったということでしょう。翌朝には解放されることになりました。

16:37 しかし、パウロは警吏たちに言った。「長官たちは、ローマ市民である私たちを、有罪判決を受けていないのに公衆の前でむち打ち、牢に入れました。それなのに、今ひそかに私たちを去らせるのですか。それはいけない。彼ら自身が来て、私たちを外に出すべきです。」

  「それはいけない!」この言葉が目に留まりました。私たちは権力が間違ったことをしたときには、物申さなければいけません。 「ローマ市民権」についてウィキペディアにはこんな風に書いてありました。「具体的には、市民集会(民会)における選挙権・被選挙権(ローマの官職に就任する権利)、婚姻権、所有権、裁判権とその控訴権(ローマ法の保護下に入る)、ローマ軍団兵となる権利など。また人頭税や属州民税(資産の10%でおよそ収穫の33%程度)も課されない。」この中の「裁判権」というところに当たるのでしょう。裁判もせず、ましてや有罪判決も出ていないのに、公衆の面前でむち打ち、牢に入れた。これは大変な権利の侵害、名誉棄損でした。

16:38 警吏たちは、このことばを長官たちに報告した。すると長官たちは、二人がローマ市民であると聞いて恐れ、16:39 自分たちで出向いて来て、二人をなだめた。そして牢から外に出し、町から立ち去るように頼んだ。

長官たちは、パウロたちに要求されるがまま、自ら出向いて詫びを入れ、打って変わって下手に出、パウロたちをなだめ始めたのです。そしてこの自分たちの失態を胸のうちに納めて、ここを立ち去ってくれと頼むのでした。

 ここで疑問が出てきます。それはどうしてパウロは、このことをもっと早く、むち打ち刑に処せされる前に言わなかったのか、このローマ市民の権利を行使しなかったのかということです。そうすればこんな痛い思いをしなくてもよかったではないですか。もちろん、そんな暇(いとま)も与えられなかったということもあるでしょう。けれどもここでもう一度振り返ってみたいことは、この牢獄で得たものについてです。何よりも看守とその家族が救われました。またパウロたちの賛美の声に聞き入っていた囚人たちはどうだったでしょう。彼らは戻って来たパウロたちや看守に、いったい何があったのか聞かなかったでしょうか。ひょとしたら、この牢獄から出た後に、生まれたばかりのピリピ教会の扉を叩いた囚人がいたかもしれません。パウロたちがこの牢獄に入らなければ、福音を届けられなかった人々がここにいました。牢獄の外から大音響で「みなさんイエスさまを信じましょう!」とどんなに叫んでもそれは届きません。中に入らなければ届かない人々がいたのです。そうでした。イエスさまも、私たちを救うために人となって、この地上の来てくださったのでした。

 私たちも、自分の人生を呪うことがあるでしょうか。なぜこんな目に合うのか、なぜこんな理不尽な仕打ちを受けるのかと思ったことがあるでしょうか。しかし、振り返ってみると、そのときにしか味わえなかった恵みがあったのではないでしょうか。パウロとシラスが、傷を負い眠れない夜を過ごし、でもその中で深い祈りと賛美の世界を味わったように、そのときにしか味わえない主との交わりがあったはずです。そして、その時しか福音を伝えられなかった人々がいたと思うのです。

 最後にドイツのルター派の牧師であり、20世紀を代表する神学者の一人でもあるディートリッヒ・ボンヘッファーをご紹介したいと思います。彼はヒットラーが台頭し、ドイツの政権を掌握した時、一貫してヒットラーを批判し、反ナチズム教会闘争を展開しています。そしてついには逮捕され、収監され、1945年4月には、絞首刑となっています。それはドイツが降伏する約1か月前のことでした。今日紹介する「善き力にわれ囲まれ」という曲の歌詞は、彼が獄中で、絞首刑になる前のクリスマスに婚約者に送った詩をもとに作られたものです。ここに非常に深淵な信仰の世界があります。今日はそれを皆さんに分かち合って説教を閉じたいと思います。

「善き力にわれ囲まれ」

1、善き力にわれ囲まれ 守り慰められて 世に悩み共に分かち 新しい日を望もう

※善き力に守られつつ 来るべき時を待とう 夜も朝もいつも神は われらと共にいます

2、過ぎた日々の悩み重く なおのしかかる時も さわぎ立つ心しずめ み旨に従いゆく※

3、たとい主から差し出される 杯は苦くても 恐れず感謝をこめて 愛する手から受けよう※

4、輝かせよ主のともし火 われらの闇の中に 望みを主の手にゆだね 来るべき朝を待とう※


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