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10月, 2020の投稿を表示しています

人生を変える宝との出会い

「人生を変える宝との出会い」 マタイの福音書 13:44 ~ 46 林明信牧師(那覇めぐみ教会)   【はじめに】 天の御国とは何か 人生は変えられる   1.畑とは ・借り物畑の小作人 ・私たちの人生 ・辛さに満ちた畑 2.畑に隠された宝 ・平凡な人生の中に ・宝を見つける(林牧師の証し) ・福音は人生を変える   3.宝を買い取る ・悔い改め    (Ⅱコリント 5:17 ) ・告白        (ローマ 10:10 ) ・神との和解   ( 1 ヨハネ 1:9 )   【結び】 宝との出会い 素晴らしい人生がはじまる その宝を自分のものに

モーセと預言者に聞け

 「モーセと預言者に聞け」 ルカの福音書16:19-31   今日の聖書の個所に登場するラザロと金持ちのお話しを読んでいると、日本の昔話しによく出てくる欲張り爺さんと正直爺さんのおはなしを彷彿とさせます。欲張り爺さんはお金に物を言わせて、贅沢にわがままに生活します。一方正直爺さんは、たいてい貧しくて慎ましくも夫婦仲良くまじめに生きています。そして途中大どんでん返しが起こり、正直爺さんが大判小判を手に入れ、幸せになり、欲張り爺さんは痛い目にあって財産もすっからかんになくなるというお決まりパターンです。けれどもそんな昔話と今日のラザロと金持ちの話が決定的に違うのは、それが人生の途中で起こるのではなく、人生の終わり、死を境にして起こるということです。そうなるともう取り返しがつきません。そんなことにならないように、イエスさまはこのたとえ話を通して、私たちに警告を与えています。私たちは謙虚にこのたとえ話が言わんとしていることに耳を傾けたいと思います。  天の父なる神さま、尊いお名前を賛美します。変わりやすい天候の中、今日も健康が支えられて、あなたを礼拝するために集められましたことを心から感謝します。どうぞしばらくの時、御聖霊がこの会堂に臨在下さり、あなたが私たちに何を語ろうとしていらっしゃるのか心の耳を傾け、従う思いをもって聞くことができますように。語る小さな者を聖霊によって強めてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン  さて、私たちは普段死を意識して生きているでしょうか。さすがに人生も終わりに近づいてくると死を意識せざるを得ないことでしょう。とは言っても昨年の日本人の平均寿命をみなさんご存知でしょうか?女性 87.45 歳、男性 81.41 歳でともに過去最高、そして女性の過半数がなんと 90 歳まで生きているのです。  また以前は死が身近にあったのですが、核家族化が進み、三世代同居の家が少なくなり、また三世代同居をしていたとしても最後は病院で亡くなるというのが普通になっていますので、やはり死は私たちの生活から遠く離れています。辛うじて宗教家だけは死は必ず訪れるのだと警告してきました。一休和尚などは、お正月にこんな句を詠みました。「門松は、冥途の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」しかし最近は宗教離れの時代、死を警告すると

きわみまで愛されて(ヨハネの黙示録3:14~22)

  「極みまで愛されて」 ヨハネの黙示録3:14~22  「極みまで愛されて」と題しましたように、ラオディキア教会にキリストのご愛は豊かに示されています。教会の現状は霊的に裸同然の貧しさで、その信仰の生ぬるさは「吐き出そう」と言われるほどです。そのすべての原因が、「見よ、わたしは戸の外に立って叩く」と告げられるごとくに、救い主を屋外に追い出して自分たちの交わりの外に置き去りにしたままの「キリスト抜き」の信仰生活でした。  そのようなラオディキア教会に、主は霊的に豊かな者となるために「火で精錬された金を、白い衣を、目薬を買いなさい」と奨められます。七つの教会の中で「わたしは、愛する者を」と告げられたのは唯一、このラオディキア教会なのです。その群れに「ともに食事を」と交わりを求められたことに、さらに「わたしとともにわたしの座に着かせよう」と、ご自分の栄光のみ座をラオディキア教会に約束されたことに、ともに主のご愛の真実さ、豊かさを覚えて主の御名を讃えます。 柴田敏彦師

安息日の解放

 「安息日の解放」 ルカの福音書 13:10~17   マタイ、マルコ、ルカの福音書は共観福音書と言って、イエスさまが地上でなされた業や話されたことなどが書かれています。それらには共通するエピソードが多くあるのですが、今日のエピソードはルカ独自のものです。また他の福音書にも安息日にまつわる論争はいくつかあるのですが、今日のテーマ「解放」が主題になっているのは、この個所だけなのです。いろいろと特別な個所なので、注意深く読み進めて行きたいと思います。   10 節、「イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。」 この時の安息日はまだ土曜日でした。正確には金曜日の日没から土曜日の日没までです。今のキリスト教では日曜日ですね。イエスさまの復活を記念して私たちクリスチャンは、日曜日を安息日として、仕事を休み、こうして教会に来て礼拝しています。十戒の第四戒は、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」ですから、聖書を規範として生きる私たちにとっては「安息日を守る」というのは大事な戒めです。コロナのせいで、一時期は会堂での礼拝が休止され、自宅での家庭礼拝に切り替えたこともありましたが、それでも日曜日は安息日、礼拝の日という認識は変わりません。安息日は大事に守られるべきです。  けれども当時の人々には逆の問題がありました。十戒を真剣に守ろうとするあまり、安息日の本質、目的が忘れ去られ、安息日に関する細かい規定が独り歩きし始めたのです。その禁止事項は多岐に及んでいます。例えば、「種を蒔くこと」「収穫すること」「脱穀すること」「ふるいにかけること」「縄を結び、結び目を作ること」「文字は2文字以上書いてはいけない」「安息日に出歩くことのできる距離は1Kmまで。」などです。ユダヤ教では39の禁止事項にそれぞれ6つの細かい規定があり、39×6で234もの禁止事項があるらしいです。とにかくこんな背景があることを覚えておいてください。   11 節「すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことができない女の人がいた。」 この女性に関する情報は 16 節にもあります。 16 節「この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。」 この女性はアブラハムの娘とありますから、ユダヤ人、イスラエル人です。そしてこうして不自由