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11月, 2020の投稿を表示しています

マリアの讃歌

「マリアの賛歌」 ルカの福音書1:46-55    ルカの福音書は、「女性の福音書」とも呼ばれています。なるほど、 1 章のはじめから、祭司ザカリヤに並んで、妻エリサベツが登場します。神殿で香をたく祭司ザカリヤにみ使が現れ、 「あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。」 と言うと、ザカリヤは、 「この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」 と不信仰になり、その結果として口がきけなくなりました。ところが妻エリサベツは御使いが告げたというその言葉を信じて受け入れ、間もなく彼女はみごもり、 1 年後には男の子を産むのです。そしてその時に口のきけない夫に代って、 「この子の名はヨハネ」 とみ使いに告げられた通りの名前を付けたのした。 そして二人目の女性として登場するのが、マリアです。彼女は女性と呼ぶにはあまりに幼い少女でした。そんなマリアのもとにみ使いが現れ、あなたは神の御子をみごもると告げるのでした。戸惑い恐れるマリアでしたが、最終的には信仰をもって受けとめ、 「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」 と応答しました。私たちのマリアに持つイメージはどのようなものでしょうか。おとなしくて控えめで、従順で…というなぜか大和なでしこを思い浮かべてしまうのですが、実際のマリアは少し違ったようです。女性の自律性など認められない封建的な社会の中で、12,3歳とも言われるこの少女が、個として「産む」と表明し決断する姿に、マリアの強い決意と信仰、献身の姿を見ることができます。ふと私が思い浮かべたのは環境保護の活動家、グプタさんです。マリアってあんなタイプだったのかしら…と言ってしまうと皆さんのイメージも変わってしまうのでやめておきます。  そんなマリアが叔母であるエリサベツのもとを訪れます。なぜでしょうか。御使いがマリアに現れたときに、エリサベツの妊娠を告げたからです。御使いは言いました。 「 1:36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。 1:37 神にとって不可能なことは何もありません。」 マリアはその言葉を聞いて決心がついたのかも知れません。この後 「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」 と信仰告白に至っています。マ

普通の人

「普通の人」(創世記26:26~33) 齋藤五十三師 お祈りします。 「 主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え 」(詩篇 37:3 )。天の父なる神さま、感謝します。あなたは御言葉を通して、私たちを養ってくださいます。どうかこの朝も、霊の糧を通し、聖霊によって私たちの目を開いてください。説教者の欠けも、聖霊が豊かに補ってくださいますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン!   1 信仰者の力強さ  創世記 26 章の描くイサクの人生は、苦労続きの労働の日々でした。苦労の発端は、 16 節の出来事です。イサクの暮らしていた土地の王アビメレクから、突然出て行ってくれといわれたのです。もともとアビメレクは、イサクとその妻を保護するように、国中に命令を出していたのです。ところが、イサクが豊かになっていくのを見て、心中穏やかでなくなっていく。これは妬みです。手のひらを反すように、アビメレクはイサクを追い出していく。   14-16 節: 14 彼が羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。 15 それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に父のしもべたちが掘った井戸を、すべてふさいで土で満たした。 16 アビメレクはイサクに言った。「さあ、われわれのところから出て行ってほしい。われわれより、はるかに強くなったから。」   イサクは、ただ追い出されたのではありません。せっかく掘った井戸もふさがれ、結果、耕した畑も手放さねばなりませんでした。これはイサクの一生の中で、最大のピンチであったろうと思います。しかしイサクは、一切争うことなく土地を後にしていくのです。そして、場所を変えて再び井戸を掘り、汗を流していくのです。この時代、井戸掘りは生涯にわたって続くきつい仕事でした。そうやって額に汗して働き続ける人生、それがイサクの生涯です。そのさなかに井戸を埋められるという嫌がらせを受け、挙句に追い出されてしまう。しかし、主は生きておられました。苦難の続くイサクを、主は 24 節の御言葉で支え続けます。「恐れてはならない。わたしはあなたとともにいるからだ。」イサクはこのように、神の言葉に支えられて、厳しい人生を生きて行ったのです。私たちもまた、神の言葉に支えられて、厳しいこと

復活の子

「復活の子」 ルカの福音書20:27~40   20:27 「復活があることを否定しているサドカイ人たちが何人か、イエスのところに来て質問した。」 サドカイ人は祭司の家系ですが、当時ユダヤを支配していたローマと手を結び特権的地位を確保していました。そのせいで非常に世俗的だったと言われます。当時ユダヤ人の政治的宗教的最高機関はサンヘドリン会議で 71 人の議員で構成されていましたが、なんとその三分の二はサドカイ人だったと言います。政治的な力を持った支配階級だったのですね。またその信仰的特徴としては、旧約聖書全体を重んじ、ユダヤ人の言い伝えや伝統を重んじるパリサイ人とは違い、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)のみを信仰していました。そのためモーセ五書には復活について書かれていないという理由で、彼らは復活を信じていなかったのです。  そんな彼らが求道心からではなく、揚げ足取りのためにイエスさまに質問をしました。その内容が 28 節から 33 節に書かれています。 「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻を迎えて死に、子がいなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎え、子がないままで死にました。次男も、三男もその兄嫁を妻とし、七人とも同じように、子を残さずに死にました。最後に、その妻も死にました。 では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」  私はこのサドカイ人の質問を見ながら以前見た夢のことを思い出しました。まだ私たち家族が台湾にいて、子どもたちも小さかった時に見た夢です。私は病気でもうすぐ死ぬという状態でした。主人がそばで心配そうに私を見ています。私は主人に言いました。「私はもう天国に行くけど子どもたちをよろしくね。そして子どもたちのためにもあなたは再婚して。 1 年経ったら再婚したらいいから。」と私は息も絶え絶え健気に言うのです。すると主人が「わかった。でも 3 カ月後じゃだめ?」と言うのです。私は「ダメに決まってるじゃないの?そんなの私が死ぬのを待ってたみたいじゃない!」と怒るのです。そこで目が覚めました。どうでしょう。私が先に死んで主人が再婚したら、天国で

小さくなったイエスさま(子ども祝福式礼拝)

※本日はこども祝福式だったので子ども向けの紙芝居を使ったメッセージにしました。 五郎くんちのホットケーキ (ピリピ人への手紙2:6-8)   五郎くんは男ばかりの5人兄弟の長男、 5 年生です。お父さんもお母さんも朝早くから夜遅くまで働いていていたので、晩ご飯はいつもとても遅くなってしまいます。だからみんなが学校や保育園から帰ってくるころには、もうおなかがペコペコ。そこで五郎くんがいつもホットケーキを作ります。  「おい、フライパンを持って来い!」「はい!」「あと、ホットケーキミックス、卵、牛乳、それとバターもな。」「はい!」「はい!」「ボールに泡だて器、フライ返しも忘れるな!」「はーい!」みんなおなかが空いているのでよく言うことをききます。  ボールに卵と牛乳を入れてよく混ぜます。そしてホットケーキミックスを入れてざっくりとかき混ぜて、生地がふんわりなめらかになったら、フライパンにバターをしきます。「よ~し!流し込むぞ!」ジュワーッ!!いいにおいがしてきます。  弟たちは一斉にフライパンを覗き込みます。「兄ちゃん、兄ちゃん、いいにおいがしてきたな。」「もうひっくり返してもいいんじゃない?」「まだまだだ。ぷつぷつ泡が出てくるまで我慢だ。」「おっ、いい感じに焼けてきたぞ。さて、ひっくり返すか。よっ!」「兄ちゃん、いい色だな~!」「ああ、もうすぐできるからな。」  さあ、ホットケーキが出来上がりました。大きなお皿を出して、ホットケーキを載せます。「さあ、切るぞ!」「兄ちゃん、公平にな。」「わかってるよ。」でも、 5 等分って難しいのです。切り終わると大きいの、小さいの様々です。  「小さいお皿を 5 枚持って来い!」「兄ちゃん、ぼくこれ!この大きいの!」ちびが言います。「だめだめ!一番大きいのは、一番大きい兄ちゃんがもらうに決まってるだろ!」「え~、ずるいよ!」「二番目に大きいのが二番目。三番目に大きいのが 3 番目、 4 番目に大きいのが 4 番目。そして一番小さいのはチビ、おまえのだ。」 「やだ~!僕のこんなに小さいよ。お兄ちゃんのと取り替えてよ!」「だめだ!お前はチビなんだから一番小さいのでいいんだよ!」「やだ!やだ!大きいのがほしい!」「うるさい!!」五郎はゴツンとチビの頭を叩きます。ちびはわーっと大きな声で泣き出しました。これが

幼子と指導者

「幼子と指導者」 ルカの福音書18:15~27   今日の聖書箇所の記事は、マタイやマルコにも見られる記事です。けれどもマタイやマルコではこの記事の前に、パリサイ人による「離婚」についての質問が書かれているのに対して、ルカだけが「パリサイ人と取税人の祈り」の記事を記しています。これには何か理由がありそうです。パリサイ人は自分が神の律法をすべて守っていること、律法に従って断食し、十分一献金をしていることを胸を張って神に感謝をささげているのです。ところが取税人は、自分が罪人であることを自覚し、うつむき胸を叩いて「神様、罪人の私を憐れんでください」と神にあわれみを請う祈りをしています。どうでしょうか。先のパリサイ人は、今日の個所に出てくるユダヤ教の指導者と重ならないでしょうか。そうです。自分は神の律法を完璧に守っていると主張しているところが共通しているのです。そんなことを頭の片隅に置きながら、今日の本文に入ります。 イエスさまに祈っていただこうと大勢の人が押し寄せてきました。そして 「人々は 幼子たちまで 連れて来た」 とあります。新共同訳では 「乳飲み子までも連れて来た」 となってます。多くの人々がイエスさまの話しを聞こうと、また病をいやしていただこうとイエスさまの元に集まって来ていました。ところが弟子たちは赤ちゃんや幼子についてだけ拒絶し、叱ったのです。子どもたちにはイエスさまから祝福を受ける価値がないということでしょうか。いつの時代でも子どもたちは軽んじられ虐げられています。ところがイエスさまは逆に弟子たちを叱りました。そして弟子たちに叱られてしゅんとしている子どもたちをそばに呼び寄せ抱っこして、 「神の国はこのような者たちのものなのです。」 とおっしゃったのです。人々は驚きました。 24 ~ 27 節を見ると、人々は金持ちに代表されるような多くをもっている者こそ神の国に近いという考え方があったとことがわかります。確かに旧約聖書では信仰者はみな経済的にも祝福されているのです。アブラハムしかり、イサク、ヤコブ、ダビデやソロモンなどみな裕福です。人々はイエスさまが 「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょうか。金持ちが神の国に入るよりはらくだが針の穴を通る方が易しい。」 と話すのを聞くと、驚いてすかさず 「それでは、だれが救われることができ