スキップしてメイン コンテンツに移動

復活の子

「復活の子」

ルカの福音書20:27~40

 

20:27 「復活があることを否定しているサドカイ人たちが何人か、イエスのところに来て質問した。」

サドカイ人は祭司の家系ですが、当時ユダヤを支配していたローマと手を結び特権的地位を確保していました。そのせいで非常に世俗的だったと言われます。当時ユダヤ人の政治的宗教的最高機関はサンヘドリン会議で71人の議員で構成されていましたが、なんとその三分の二はサドカイ人だったと言います。政治的な力を持った支配階級だったのですね。またその信仰的特徴としては、旧約聖書全体を重んじ、ユダヤ人の言い伝えや伝統を重んじるパリサイ人とは違い、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)のみを信仰していました。そのためモーセ五書には復活について書かれていないという理由で、彼らは復活を信じていなかったのです。

 そんな彼らが求道心からではなく、揚げ足取りのためにイエスさまに質問をしました。その内容が28節から33節に書かれています。「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻を迎えて死に、子がいなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎え、子がないままで死にました。次男も、三男もその兄嫁を妻とし、七人とも同じように、子を残さずに死にました。最後に、その妻も死にました。 では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」

 私はこのサドカイ人の質問を見ながら以前見た夢のことを思い出しました。まだ私たち家族が台湾にいて、子どもたちも小さかった時に見た夢です。私は病気でもうすぐ死ぬという状態でした。主人がそばで心配そうに私を見ています。私は主人に言いました。「私はもう天国に行くけど子どもたちをよろしくね。そして子どもたちのためにもあなたは再婚して。1年経ったら再婚したらいいから。」と私は息も絶え絶え健気に言うのです。すると主人が「わかった。でも3カ月後じゃだめ?」と言うのです。私は「ダメに決まってるじゃないの?そんなの私が死ぬのを待ってたみたいじゃない!」と怒るのです。そこで目が覚めました。どうでしょう。私が先に死んで主人が再婚したら、天国で主人はどちらの夫なのでしょう。はい、この時のサドカイ人の質問はこんな質問だったのです。

当時は家の存続のために妻が子どもを産まないで死んだ場合には兄弟がその女性と結婚し子孫を残すというような「レビラート婚」が法的に認められていました。25:5 兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。25:6 そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。」(申命記255-6節)。日本でも由緒正しいお家では、つい最近までそんな制度があったと聞きます。とにかくサドカイ人は当時のしきたりを理由にこんなありもしない例を挙げて、イエスがなんと答えるか試したのです。実際このレビラート婚が適応されることはほとんどなく、ほとんど机上の空論でした。それに対してイエスさまは、復活はあるということ、そして復活のからだと御国でのあり方は、この世のそれとは全く違うものであると答えたのです。

 

34 イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、35 次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちは、めとることも嫁ぐこともありません。36 彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。

 この復活という特別の恵みに与かるにはふさわしい者がおり、神がそれを認めるのだと35節で言っています。特別の恵みに与かるのにふさわしい者、神がそれを認める者とは誰でしょうか。それはもちろん神の前に罪を悔い改め、神のみ子イエス・キリストを救い主と信じる者です。私たちの行いが正しいからでもなく、自分の努力で神に認めてもらったわけでもなく、ただ神さまの一方的な選びと憐れみ、恵みによって、私たちは復活の約束をいただいたのです。

また救われた私たちは天の御国で「御使いのようであり、復活の子として神の子」なのだとあります。「御使いのようであり」とはどういうことでしょう。それは御使いのように霊的な存在で、高貴さと栄光の姿を持っているということもありますが、御使いの仕事、役割を考えてみるものいいでしょう。それは神をほめたたえ、礼拝し、神にお仕えすることです。私たちも天の御国では御使いのように、神をほめたたえ、礼拝し、自分の賜物を生かして神にお仕えします。また、「復活の子として神の子なのです」とはどういうことでしょう。御国に入る時、私たちは復活の子として罪の性質と肉のからだを脱ぎ捨て、新しいからだをいただき、神の子として完全な神の家族としての交わりに入れられるのです。そしてその世界ではめとることも嫁ぐこともなく、死ぬこともないとイエスさまは言います。とにかく次の世はこの世とは全く違う次元の世界であり、私たち自身も、全く変えられるのだということです。

 

37 モーセも柴の箇所で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました。38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです。」

 そして最後にイエスさまは、モーセ五書しか信じないサドカイ人のために、出エジプト記で神が燃える柴の中からモーセに現れたとき、ご自身のことを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれたことを例に挙げました。今日の招詞で少し読みましたが、もう一度その個所を見てみましょう。出エジプト記3:1~6「モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。すると【主】の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」【主】は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。」

 アブラハム、イサク、ヤコブは、特別神に選ばれ、イスラエル民族の祖先となった族長です。彼らは神と特別親しい交わりにありました。そしてその親しい交わりは地上の生涯を終えたからと言って断絶されたわけではない、今も彼らは生きていて、親しい神との交わりの中にあるのだと言っているのです。そしてイエスさまは、「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神だから」とおっしゃいました。神さまがご自身を「アブラハムの神、イサク神、ヤコブの神」と呼んだからには、彼らは神にとっては生きているのだと言っているのです。「神にとってはすべてが生きている」とは、原語を直訳すると「神に対して」「神に向かって」生きていると訳せるようです。私たちは人に対して、この世に対しては死にます。しかし救われ永遠のいのちを神からいただいた私たち、神に御国に入るのにふさわしいと認められた私たちは、復活の子として、神の子として、その完全な関係の中で生きる続けるのです。 

 39-40「 律法学者たちの何人かが、『先生、立派なお答えです』と答えた。彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとはしなかった。」

 彼らは、イエスの答えが理解できたかどうかはわかりません。ただイエスさまがついこの間までアブラハムやイサク、ヤコブと一緒にいたかのように話す様子、また御国の様子や復活のからだのことなどをあまりにも詳しく、臨場感をもって語るので、驚いてしまって言葉を返せず、降参したというのが正直なところでしょう。

 サドカイ人はこの世の視点で神の国を見ているので、「彼女は誰の妻になるのか」という現実にはありもしないつまらない質問をしました。彼らはイエスの答えを聞いて一言も返せず、恥じ入ったことでしょう。御国のこと、復活のことは、今を生きる私たちクリスチャンにとってもわからないことばかりです。三次元で生きる私たちが四次元の世界を想像できないように、神の国は私たちの想像をはるかに超えてすばらしいのです。けれども私たちはその素晴らしさの断片を聖書を通して垣間見ることができます。私たちが生かされているこの地上では、私たちは苦しみがあり、痛みがあり、悩みがあります。けれども私たちは復活の子です。神さまが御国に入るのにふさわしいと認めてくださっています。私たちはその希望を携えながら、この世の旅路を御国を目指して歩んで行きましょう。

 

【祈り】

復活の主であるイエス・キリストの父なる神さま。私たちに復活の希望を与えてくださいましたことを感謝します。御国は私が想像できないようなすばらしい世界であり、そこでは私たちは神との完全な関係と栄光のからだが与えられていることを覚えます。私たちはこの御国に望みを抱きながら今週も復活の子、神の子らしく雄々しく歩んでいくことができますように。主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン


コメント

このブログの人気の投稿

クリスマスの広がり(使徒の働き28:23~31)

「クリスマスの広がり」 使徒の働き28:23~31 私が使徒の働きを松平先生から引き継いだのは、使徒の働き11章からでした。それ以来、少しずつ皆さんといっしょに読み進めてきました。これだけ長く続けて読むと、パウロの伝道の方法には、一つのパターンがあることに、皆さんもお気づきになったと思います。パウロは、新しい宣教地に行くと、まずはユダヤ人の会堂に入って、旧約聖書を紐解いて、イエスが旧約聖書の預言の成就者であることを説いていくという方法です。このパターンは、ローマでも変わりませんでした。もちろん、パウロは裁判を待つ身、自宅軟禁状態ですから、会堂に出向くことはできませんが、まずは、ローマに11あったと言われるユダヤ人の会堂から、主だった人々を招きました。そして彼らに、自分がローマに来たいきさつ語り、それについて簡単に弁明したのでした。エルサレムのユダヤ人たちから、何か通達のようなものがあったかと懸念していましたが、ローマのユダヤ人たちは、パウロの悪い噂は聞いておらず、先入観からパウロを憎んでいる人もいないことがわかりました。パウロは安心したことでしょう。これで、ユダヤ人たちからありもしないことで訴えられたり、陰謀を企てられたりする心配ありません。そして、今度は日を改めて、一般のユダヤ人たちも招いて、イエス・キリストの福音について、じっくり語ろうと彼らと約束したことでした。 けれども、みなさん疑問に思いませんか。パウロは異邦人伝道に召されていたはずです。自分でもそう公言しているのに、なぜここまでユダヤ人伝道にこだわるのでしょうか。今までも、新しい宣教地に入ると、必ずユダヤ人の会堂で説教するのですが、うまくいった試しがありません。しばらくすると必ず反対者が起こり、会堂を追い出され、迫害につながっているのです。それなのになぜ、ここまでユダヤ人にこだわるか、その答えは、パウロが書いたローマ人への手紙の9章から11章までに書かれています。 パウロの同胞、ユダヤ人への愛がそこにあります。パウロは9章2-3節でこう言います。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。」 凄まじいほどの愛です。そういえばモーセも同じような祈りをしま

イスラエルの望み(使徒の働き28:17~22)

さて今日の個所は、ローマに到着してから三日後から始まります。パウロはローマに到着すると、番兵付きながらも自分だけの家に住むことが許されました。当時ローマ市内には、11ものユダヤ人の会堂があったと言われています。パウロはさっそく、ローマに住むユダヤ人クリスチャンに頼んで、その会堂の長老たちなど、おもだった人たちを家に招いたのです。そして自分がエルサレムでユダヤ人たちによって告発されたことについての弁明と、これまでの裁判のいきさつについて語り始めました。 ここでのパウロの語りは、これまでのユダヤ人たちに対する少し挑発的な語りに比べると控え目で、ユダヤ人の誤解を解くことに終始しています。パウロは、自分がこのように捕らえられ囚人としてローマにやって来たのは、なにも、ユダヤ人に対して、また先祖の慣習に対してそむくようなことをしたからではなく、「イスラエルの望み」のためなのだと語っています。それこそパウロが伝えたい福音の中心だからです。旧約の預言者たちによって語られた「イスラエルの望み」、「救い主メシア到来の望み」が実はもう実現しているのだということです。パウロは実にこのことのために、今こうして、鎖につながれていたのでした。 パウロの弁明を聞いたユダヤ人のおもだった人たちの反応はどうだったでしょうか。彼らはまず、自分たちはパウロたちのことについてエルサレムからは何の知らせも受けていないこと、したがってパウロたちについて悪いことを告げたり、話したりしているような人はいないということ、ですから一番いいのは、直接パウロから話しを聞くことだと思っていることを伝えました。もちろん彼らの中には、パウロの悪いうわさを聞いていた人もいたでしょう。けれどもそうしたうわさ話に耳を傾けるより、本人から直接話を聞いた方がよいと判断したのです。彼らは言います。「この宗派について、至るところで反対があるということを、私たちは耳にしています。」実際、クラウデオ帝がローマを治めていたころ、キリスト教会とユダヤ人の会堂に集まる人々でごたごたがあって、「ユダヤ人追放令」が発布されました。そんなに昔のことではありません。彼らは、この宗派の第一人者であるパウロにから、直接話を聞いて、何が両者の違いなのか、ナザレのイエスを信じるこの宗派の何が問題なのかをつきとめたいとも思っていたことでしょう。 さて、パウロ

祝福の日・安息日(出エジプト記20:8~11)

「祝福の日・安息日」(出エジプト 20:8-11 ) はじめに  本日は十戒の第四戒、安息日に関する戒めです。この箇所を通して本当の休息とは何か(聖書はそれを「安息」と呼ぶわけですが)。そして人はどのようにしたら本当の休みを得ることができるかを、皆さんと学びたいと願っています。お祈りします。   1.        聖なるものとする 8-10 節(読む)  「安息日」とは元々は、神が世界を創造された七日目のことですが、この安息日を聖とせよ。特別に取り分けて神さまに捧げなさい、というのがこの第四戒の基本的な意味です。この安息日を今日のキリスト教会は日曜日に置いて、主の日として覚えて礼拝を捧げています。安息日という名前は、見てすぐに分かるように「休息」と関係のある名前です。でも、それならなぜ休息とは呼ばず、安息なのでしょう。安息とは何を意味するのか。このことについては、一番最後に触れたいと思います。  いずれにせよ第四戒の核心は、安息日を記念して、「聖とせよ」ということです。それは、ただ仕事を止めて休めばよいということではありません。この日を特別に取り分けて(それを聖別と言いますが)、神さまに捧げなさいということです。すなわち、「聖とする」とは私たちの礼拝に関係があるのです。  でもどうして七日目を特別に取り分け、神さまに捧げる必要があるのでしょう。どうしてだと思われますか。 10 節冒頭がその理由を語ります。「七日目は、あなたの神、主の安息」。この日は「主の安息」つまり神さまのものだ、と聖書は言うのです。この日は、私たちのものではない。主の安息、主のものだから、神さまに礼拝をもって捧げていくのです。   2.        七日目に休んだ神  七日目は主の安息、神さまのものである。でも、どうしてでしょう。その理由がユニークで面白いのです。 11 節に目を留めましょう。 11 節(読む)  神さまはかつて世界を創造された時、六日間にわたって働いて世界を完成し七日目に休まれました。だから私たちも休んで、七日目を「安息日」として神さまに捧げなさい、ということです。ここで深く物事を考える方は、神さまが七日目に休んだことが、なぜ私たちが休む理由になるのですか、と思われるかもしれません。そう思う方があったら、それは良い着眼です。