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アブラハムのとりなし(創世記18:16~33)

「アブラハムのとりなし」 創世記18:16~33   3人の旅人が、アブラハムの熱心な招きに応えて、アブラハムの家で休憩し、おもてなしを受けました。この3人の旅人のうち、二人はみ使いで、一人は神ご自身でした。彼らがアブラハムのところに来た目的は二つあったようです。一つは、アブラハムの妻サラによって、来年の今ごろ男の子が生まれるということを告げるため。そしてもう一つは、今日の聖書箇所にあるように、ソドムへのさばきの予告でした。 3人の旅人は、アブラハムのおもてなしを受けて、ゆっくり休んで、再び先に進もうとされました。アブラハムは、旅の人たちを見送るために、しばらく一緒に歩きます。なんだか古き良き時代の日本人みたいですね。お客さんを玄関の外までお送りして、見えなくなるまで、手を振ったり、お辞儀をしたりして見送る、そんなアブラハムの姿に同じアジアを感じました。こうして、しばらく一緒に歩き、ここからは下りというところまで来て、立ち止まり、目の前に広がる低地を望みました。かつて、ロトが選んだ肥沃な土地です。そしてそこにひときわ栄えている町がありました。ソドムです。そのソドムの町を見ながら、主は考えられました。 17 節。 「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが【主】の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、【主】がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。」 主は、アブラハムの選びの目的について思いを巡らします。選びの理由ではありません。救いの理由は私たちの側にはありません。それは神の一方的な「恵み」なのです。けれども、目的に関しては明確です。それは、「私たちが祝福の基になるため」です。アブラハムと彼の子孫により、地のすべての国民が祝福を受けるために、神はアブラハムと私たちを選びました。ですから、私たちは、祝福の基となるべく、 「【主】の道を守り、正義と公正を行うようになる」 必要があります。主が私たちを選ばれたのは、祝福を私たちの中にとどめておくためではありません。自分の幸せ、自分の家族の幸せ、自分の国の祝福...
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うめきとりなす聖霊(ローマ人への手紙8:26~27)

「うめきとりなす聖霊」 ローマ人への手紙 8 章26~27節 今日はペンテコステです。ペンテコステとは、ギリシャ語の「50」という意味で、イースターから50日目にイエスさまの弟子たちに聖霊が降り、そこから「教会」が生まれたことを記念する日です。キリスト教においては、「教会の誕生日」として、クリスマス、イースターと並んで、祝われます。使徒の働き2章にその日の出来事が書かれています。イエス・キリストの昇天後、弟子たちがエルサレムに集まって祈っていると、突然激しい風のような音が聞こえ、炎のようなものが弟子たちの頭に降ってきて、頭上に留まりました。すると、弟子たちは聖霊に満たされ、さまざまな外国語で語り始めたというのです。それまでは、聖霊が降るのは、イスラエルの預言者とか王とか、特別な人だけだったのに、この時から、イエスさまを信じるすべての人に聖霊が降り、一人ひとりの心に住んでくださるようになりました。 聖書の神さまはお一人なのですが、3つの位格( Person )があります。御父と御子(イエス・キリスト)と聖霊です。この3つの位格は、本質において同一で、力と栄光において同等のひとりの神です。特に、聖霊は誤解を受けやすく、何か幽霊やパワーのように思われたりしますが、聖霊も Person 、つまりご人格なので、父なる神さまやイエスさまと同じく、私たちは呼びかけたり、交わったりすることができます。そして、このお方は、私たちの外から働きかけてくださるだけでなく、イエスさまを信じた私たちの心の内に住まわれ、私たちの内側で働いてくださいます。そして信じる心を与え、慰めや励ましを与え、私たちが聖書を読んだり、説教を聴いたりするときに、みことばの理解を助けてくれます。ただ、このお方は、よく Shy (恥ずかしがりや)だと言われるのですが、表舞台に立つことを好みません。黒子のように、イエス・キリストにスポットが当たるように動き、イエスさまが栄光を受けることを喜ばれます。また、聖霊は目には見えませんが、風のように感じることができますし、風で木の葉が揺れるように、聖霊の働きの影響を私たちは見ることができます。時にはそよ風のように私たちを慰め、時には嵐のように私たちの心をえぐり、悔い改めへと導きます。また、病を癒したり、悪霊を追い出したり、超自然的な働きをするのも聖霊です。今日は、そ...

サラに男の子が!(創世記18:1~15)

「サラに男の子が!」 創世記18:1~15 アブラハム一族は、13章で甥のロトと別れた後、ヘブロンにあるマムレの木の下に天幕を張って、生活を営んでいました。きっと大きな木で、木陰も大きく、日照りや雨風もある程度しのぐことができたと思われます。それでも、昼間は暑かったのでしょう。アブラムは、風の抜ける天幕の入り口で、座って涼んでいました。ふと気配を感じて、目を上げると、 3 人の人がこちらに向かって歩いてくるではありませんか。「旅のお方だろうか。こんな暑い時間に、外を歩くなんてどうしたことだろう。うちで休んでいっていただこう!」こうしてアブラハムは、3人に声をかけます。それにしても丁寧なお出迎えで驚きます。2節後半から。  「アブラハムはそれを見るなり、彼らを迎えようと天幕の入り口から走って行き、地にひれ伏した。彼は言った。『主よ。もしもよろしければ、どうか、しもべのところを素通りなさらないでください。水を少しばかり持って来させますから、足を洗って、この木の下でお休みください。私は食べ物を少し持って参ります。それで元気をつけて、それから旅をお続けください。せっかく、しもべのところをお通りになるのですから。』」 まるで頼み込むようにして、客人を迎えます。こうして、サラに頼んで、3セア(約23リットル?)の小麦粉でパン菓子を作ってもらい、牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を自ら選び、召し使いに渡し、急いで料理させました。また、凝乳(ヨーグルト)、牛乳、パン菓子、子牛料理を運び、彼らの前に並べ、彼らが食事をしている間、そばに立って給仕をしたというのです。 まるでどこかの国の王族の接待をしているかような丁重ぶりです。私たちはこんなおもてなしを受けたことがあるでしょうか。私は、この接待のごちそうもさることながら、アブラハムの相手に気を遣わせまいとする配慮に満ちた振る舞いに敬服します。あなたがたを私がこうしてお迎えするのは、当たり前のことなのです。私はなすべきことをしているにすぎません、という態度です。 私はそんなアブラハムを見ながら、私たちがアメリカにいた頃に出会った、神学校の職員さんのことを思い出しました。イナ・デモアさんという女性です。私たちは、子どもを3人連れてアメリカに行きました。その時長女は小学二年生、長男は幼稚園の年長さんの年齢でし...

真に欲すべきもの(出エジプト記20:17)

「真に欲すべきもの」~第十戒:「欲しがること(むさぼり)」の禁止~(出エジプト 20:17 )   1.     第十戒が特別なものであること  十戒の学びも、本日の十番目の戒めをもって最終回です。  第十戒、 17 節「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない」。  この戒めは、十戒全体のまとめであるため、他の九つの戒めとは大きく性格が異なっています。何が違うのかと申しますと、第一から第九戒は、それを破るなら、いずれも罪が明らかな行為として表に出てくるものばかりなのです。表に出れば、誰の目にも戒めの違反、つまり「罪」があったことを確認することができるものばかりです。たとえば第一戒「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」。この「ほかの神」を心の中だけに秘めておくこともできるのでしょうけれど、多くの場合、それが外に出てきてしまうのです。すると誰が見ても、その信仰者が戒めを破っていると分かるのです。他の戒めもすべてそうです。例えば第六戒「殺してはならない」を学んだとき、心の中の憎しみも隠れた殺人であるとお伝えしましたが、それが表に出てくることがあります。人は、文字通りに肉体の命を奪うだけでなく、言葉や態度でも、肉体を殺すのと変わらないほどの深い傷を相手に負わせることができるのです。そうすると、第六戒が破られたと確認することができます。  このように第一から第九戒はいずれも、表に出てくることのある罪を扱うのですが、第十戒は違う。これは専ら心の中だけのことなのです。  「あなたの隣人の家を欲してはならない」。これは「むさぼり」「貪欲」等とも言われ、本来自分のものではないもの、そして自分のものにしてはいけないものを欲する心の中の罪です。ですから第十戒は、ひたすらに心の中だけを問題にします。なぜなら、外に出てくれば、それは他の戒めを破った罪になってしまう。例えば「隣人の家を欲しい」と思って、実際に盗ってしまったら、それは第八戒「盗んではならない」を破ったことになりますね。そのように第十戒はただ心の中だけを問題にします。そのため、他の人には分からない。たとえ私が皆さんのものをひそかに欲しいと思っても、皆さんには決して分...

契約のしるし(創世記17:1~27)

アブラムとサライの女奴隷ハガルとの間に、イシュマエルが生まれたとき、アブラムは86歳でした。それからさらに13年が経ち、アブラムは99歳、サライも89歳になっていました。ローマ書4章19節には、こうあります。「彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。」 二人の生殖能力はすでに死んだも同然、いや、サラに至っては死んでいたとあります。彼らは、おそらくハガルによってもうけた一人息子イシュマエルが跡を継ぐと思っていたことでしょう。本論とは関係ないかもしれませんが、アブラムとサラは、代理母でさらに子をもうけようという考えはもうなかったようです。ハガルの一件で、ほとほと懲りたのでしょうね。 さて、そんなアブラムに神が13年ぶりに語りかけます。1節後半 「わたしは全能の神である。」  「私は全能の神」、ヘブライ語では「エルシャダイ」。私たちにとっては、よく聞く主の呼び名ですが、神さまが、この呼び名でご自身をあらわすのは、この時が初めてです。「全能の神」、その呼び名が今の彼らに必要だったからです。死んだも同然のアブラムとサライ。17節では、神さまがサライを通して子どもを与えると告げたのですが、アブラムは、その時、ひれ伏して笑いました。形はひれ伏すという敬虔な態度でしたが、内心笑っていたのです。けれども、神さまは言います。「わたしは全能の神である!」私たち人間の能力は関係ない。私たちがたとえ死んだも同然の罪深い人間であろうと関係ない。救われるに値しない、神から遠く離れてしまっているようなものでも関係ない。いや、不可能であればあるほど、人間の能力がゼロに近くなればなるほど、全能の神は力を発揮するのだというのです。サライの死んだ胎にいのちを宿すことのできる神は、死に向かい滅びるばかりの私たちを救い、新しいいのちを与えることができるお方です。 「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」 この意味は、神の前を堂々と胸を張って歩めるように、道徳的に完璧でありなさいという意味ではありません。聖書で、神さまが全き者であれと言われるときは、いつも神さまとの関係において、まっすぐであるようにという意味です。神の前に誠実に生きるようにということです。神のまなざしはいつも私たちに注がれています。そう...

私を見てくださる方(創世記16:1~16)

「私を見てくださる方」 創世記16:1~16  15章では、アブラハムが神さまから、彼の子孫を空の星のように増やすとの再度の祝福のお約束をいただいています。その時、アブラムは質問します。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」(15:3)すると神さまは、言われます。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」(15:4)アブラムは、神さまのこの言葉を聞いて、素直に信じました。「それが彼の義と認められた」(15:7)と聖書にあります。アブラムはこの時、もう一つ突っ込んで質問すればよかったのにと思います。「神さま、私自身から生まれ出てくる者とおっしゃいましたが、それはサライとの子どもという意味ですか?」けれども、アブラムはそれを確認しませんでした。おそらく、アブラムは、サライ以外の女性との間に子どもをもうけるなどということは思いもよらなかったのではないかと思います。 彼らがエジプトからカナンの地に住んで、すでに10年が経ちました。アブラムは85歳、サライも75歳でした。サライは、自分が子を宿す能力が衰えていることに焦りを覚えます。そしてサライは思うのです。子を授かるという神さまのお約束は、「アブラム自身から生まれ出てくる者」ではあるけれども、「私から」ではないのではないか。ひょっとしたら、別の女が、アブラムに子を産むという可能性はないだろうか。だとしたら、私が子を産むというところにこだわっていることは、神さまの約束の実現を阻んでいることにはならないだろうか。いったんそう思いだしたら、もうその考えで頭が占領されたことでしょう。きっとそうにちがいない、そういうことだ。それしかありえない。そして、サライは夫アブラムに言うのです。「ご覧ください。【主】は私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。」これは私の考えではあるが、私が産めなくしているのは、神さまなのだから、まんざら外れではないでしょう。そう言っているかのようです。当時の文化的背景からすると、それは常識的な判断でした。女は子を産んでなんぼのものでしたし、子どもを産めないということは「三行半(み...

わたしの羊を飼いなさい(ヨハネの福音書21:15~19)

「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ 21:15-19 )   1.     新たな派遣のために   14 節(読む)  主イエスと弟子たちは、三度目の再会をともにしていました。場所は、主と弟子たちが最初に出会った思い出のガリラヤの湖畔。そこは確かに思い出の場所なのですが、先週、私たちは学びました。弟子たちは、思い出ではなくて、復活し、今も生きてともにおられる主イエスと出会う必要があったのです。それがこのガリラヤ湖畔で実現したのです。  このように湖の畔で食事を共にするのは、以前もよくあったことだと思います。ペテロ、ヤコブ、ヨハネは漁師出身の弟子たちで、炭火で魚を焼いての朝食は、いわゆる「漁師めし」だそうです。そのように食事をしながら、彼らはかつて、ガリラヤで神の国の福音を伝えた日々を振り返っていたかもしれません。神の国を宣べ伝え始めたのは三年前のこと。この三年は密度の濃い日々でした。主イエスと寝食を共にし働く中、弟子たちはしばしば主の御業に驚き、その教えに学びながら過ごしたのです。でも、そんな日々の最後に挫折があったのでしたね。弟子のひとりが裏切り、主イエスは十字架に引き渡され、弟子たちは、主を見捨てて皆が逃げてしまった。振り返るほどに、苦々しい、心に痛みを覚える挫折でした。  しかし、そんな弟子たちを主イエスは再び、復活の後、最初に出会ったこのガリラヤに招いたのです。もう一度、このガリラヤから、という再出発。そして彼らは新たな派遣のときを迎えていたのでした。  しかし、ここに一つだけ、新たな派遣の前にどうしても取り扱わなければならないことがありました。それはまるで、喉に刺さった魚の骨のよう。それを抜かないと食事も喉を通らない。この朝食の炭火がそれを象徴的に物語っています。この「炭火」という言葉、実は新約聖書に二回しか出てこない珍しい言葉。一回目、つまりそれが最初に出てきたのはどこでしたか。それは18章18節、十字架前夜の大祭司の中庭での炭火でした。その炭火を前にペテロは、「自分はイエスを知らない」と三度にわたって否定してしまう。そう、あの忌まわしい傷が、ついに、このガリラヤ湖畔で取り扱われていくのです。この取り扱いの中で、一つのことにご注目ください。主はペテロに三度問うのですが、ただ同じ問いを繰り返...