「ファラオの夢」 創世記 41 章 1 ~ 57 節 1節「それから2年後」 ヨセフが濡れ衣を着せられて、投獄されていたときに、もともと宮廷に仕える献酌官長と料理官長の夢を解き明かしてあげました。果たして、その夢は3日後に実現し、献酌官長は再び王のもとで仕えることになりました。その時にヨセフは、自分は無実の罪でここに収監されているのだから、私がここから出られるように取り計らってほしいと、献酌官長にお願いしたのですが、献酌官長は、ヨセフのことをすっかり忘れてしまいました。それから 2 年が経過したときのことです。 17 歳で兄たちに奴隷として売られたヨセフは、もう 30 歳になっていました。長くてつらい1 3 年間でした。 その頃、エジプトの王ファラオは夢を見ました。不思議な夢でした。ファラオがナイル川のほとりに立っていると、つやつやした、肉付きの良い雄牛(水牛)が7匹上がってきて、葦の茂みの中で草をはんでいました。のどかな光景です。ところが、しばらくすると、今度は醜く痩せ細った別の雄牛が7匹、ナイル川から上がってきて、先の肥えた雄牛をそれぞれ一匹ずつ食い尽くしてしまったのです。 ファラオは、びっくりして目が覚めましたが、再び寝入ると、またも不思議な夢を見ました。そこには一本の茎によく実った7つのよい穂が出てきました。ところがそこに、焼けてしなびた7つの穂が出てきて、やはり、先の7つのよく実った穂を飲み込んでしまったとのいうのです。 さすがに続けざまに不気味な夢を見たファラオは不安になりました。そして朝になると、国中の呪法師や知者と呼ばれる人たちを呼び寄せ、ファラオが見た夢の意味を解き明かさせたのです。ところが、いつもならやすやすと解き明かす彼らが、今度ばかりは、誰も説き明かせなかったというのです。そうなると、ファラオはますます不安になります。心が落ち着かず、何とかこの夢の意味を知りたいと心焦るばかりでした。 そんな王の様子を見て、献酌官長はやっとヨセフのことを思い出しました。「王さま、私は大変な過ちを犯しました。かつて私が投獄されていたときに、私の夢を解き明かした若者がおりました。彼は、『自分は無実の罪で投獄されているのだから、あなたが再び王に仕えるようになったら、口をきいて、私をここから出しておくれ』と...
「夢を解くヨセフ」 創世記 40 章1~ 23 節 39章を読んでから40章を読むと、ある一つのことに気が付きます。39章では、あれほど繰り返し「主がヨセフとともにおられた」と、また「主がヨセフを成功させ」とあったのに、40章になるとぱったりそれが出てこないのです。主はいなくなってしまったのでしょうか。主はもうヨセフとともにおられないのでしょうか。私たちの人生にも、思わずそう思ってしまう時があります。 幸い私は、それほどの心の闇を経験したことがありません。けれども私の知り合いで、双極性障害をもっておられる方おられます。その人は、とても敬虔な信仰の持ち主で、元気な時は小さなこと一つ一つ主に感謝して、主と共なる人生を楽しんでいるのですが、一旦うつ状態になると、落ち込みがひどく、本当に死にたくなるのだと言います。その人は言います。「何がつらいかって、神がいなくなってしまうことだ」と。暗闇のどん底で、神が見えなくなってしまう。どんなにつらくても主がともにいてくださると信じられれば、闇から抜け出す手がかりも見つかるのだけれど、どんなに泣こうが喚こうが、神は答えてくださらない。「神はいない」、それは絶望でしかないのだと。 ただ安心してください。神はおられます。私たちとともにおられます。私たちがそれを感じられなくても、信じられなくても、神は私たちの傍らにおられるのです。そしてともに苦しみ、ともに悲しみ、ともに泣いておられます。 主が39章で、「主はともにおられる」と何度も繰り返されたのは、40章で迎える圧倒的な暗闇、絶望としか思えない状況でも、主がともにおられることを思い出すことができるようになるためです。何もうまくいかない、八方ふさがり、希望のかけらも見つけられない、そんな時にも、主がともにおられることを忘れないためだったのです。 ヨセフは冤罪で監獄へ入れられました。先回も触れましたが、ひょっとしたらポティファルはヨセフの無実を知っていたのかもしれない。ヨセフがポティファルの妻にいたずらをしようとしたというのは、妻の虚言かもしれないとうすうす気づいていたのかもしれない。それはこの後のヨセフへの処遇を見ると、ますますそう思われてきます。 ヨセフが入れられた監獄は、ポティファルの管轄にありました。その監獄は、私たちがイメ...