スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

夢見る人ヨセフ(創世記37章1~36節)

  「夢見る人ヨセフ」 創世記 36 章1~36節   今日からヨセフ物語に入ります。ヨセフ物語はとてもドラマティックなストーリーなので、絵を使って語っていきたいと思います。 さてヨセフが17歳のころのことです。一家は、神さまの約束の地カナンのヘブロンというところに住んでいました。ヨセフの実母ラケルは、歳の離れた弟ベニヤミンを生んだ時に難産で死んでしまいました。家には、実母ラケルの女奴隷ビルハと、もう一人の母レア、そしてレアの女奴隷ジルパがいました。そして、それぞれに子どもがいて、全部で12人の兄弟でした。 母親が違う家族が一緒に住むということは簡単ではありません。私が台湾にいるときには、そんな複雑な家庭で育ったお友だちがいました。台湾では大晦日になると家族がそろってご馳走を食べて一緒に過ごします。彼女は、台湾のお正月を体験してほしいと、私たち家族を家に招いてくれました。行ってみると、彼女の家は大家族でした。ところが彼女の話を聞くと、家族関係がなかなか複雑です。なんとお父さんには外に女性がいて、その家族を養っていたのです。そして、お正月には、その二家族が一緒に食卓を囲んでいました。母親同士がいっしょに食事の支度をし、子ども同士も、まるでいとこのように仲良しでした。不思議な光景です。けれども後で聞くと、彼女のお母さんは、そのことでとても痛みを感じていて、毎日苦しくて眠れず、長く鬱状態だということでした。 ヨセフの家も似たようなものでしょう。そして家族全員と血がつながっている唯一の人ヤコブは、最愛の妻だったラケルの子ヨセフを特別にかわいがりました。そのかわいがり方は露骨で、とうとうヨセフにだけにあや織りの長服を作ってあげたというのです。他の子どもたち(とはいってもみんな大人でしたが)は、労働しやすい丈の短い地味な服しかありませんでした。ちなみに、あや織りの長服は、Ⅱサムエルの13:18にも出て来ます。 「彼女は、あや織りの長服を着ていた。昔、処女である王女たちはそのような身なりをしていたのである。」  この時あや織りの長服を着ていたのは、ダビデ王の娘、つまり王女タマルでした。つまり労働しなくてもいい、貴族階級の人が着る服だったのです。父に甘やかされたヨセフが、この服を与えられ、大喜びで「見て!見て!」なんて、兄弟たちの前でくる...
最近の投稿
  「エサウ/エドムの歴史」 創世記 36 章  35 章までのヤコブ物語がいったん終了します。一癖も二癖もあるヤコブ、波乱万丈の生涯を送ったヤコブでした。それでもヤコブは、アブラハムから始まり、イサクへと引き継がれた祝福の約束の後継者として、旧約聖書の表舞台を歩んできました。この後 37 章から始まるヨセフ物語もしかりです。ヨセフ物語はこの後、創世記の終わり 50 章まで続きます。 そんなヤコブ物語とヨセフ物語の間に置かれた36章は、神さまの祝福の約束の裏舞台を歩むエサウの歴史です。もちろん多くの紙面は割かれていませんが、それでも丁寧にエサウから三代目までの家系図がここに描かれています。ここを読む限り、エサウ一族の発展ぶりは目覚ましいものがあります。彼の財産はあまりに多くて、ヤコブ一族と共存できるようなものではありませんでした。そこで、ヤコブが帰還して、父イサクを看取ってから、エサウはカナン地域の南西部にあるセイル山地に住むことになります。住むとは言っても、そこには、先住民族がいました。エサウは彼らと姻戚関係を結び、融合しながら、上手に彼らを利用し、やがては先住民族を滅ぼし、首長の座をエサウの子孫が引き継ぎ、ついには、自分たちから王を立てて、小さな「部族」から「民族」を形成するに至ります。それが、今後何かとイスラエル民族と対立するエドム人となっていくのです。   聖書には、神が選びの民、イスラエルをどんなに愛し、忍耐をもって導いて来られたかが描かれています。けれども、選びの民ではない人々も、神の愛と祝福から完全に切り離されるということはありませんでした。時として、選びの民よりも祝福されているようにさえ見えます。今もそうですね。神さまは神の子どもたちを特別に愛し、導いてくださっています。けれども、神さまを知らない人にも等しく太陽を登らせ、雨を降らせ、祝福を与えておられます。ですから私たちは、自信を持って、未信者の人にも「神さまはあなたを愛しています!」ということができるのです。神さまの愛は、私たちが思っているよりも大きいのです。 エサウの生涯を振り返ってみましょう。エサウは、人生の大事な選択の時に、神さまの祝福を軽んじ、神のみこころよりも、自分の願いと思いを通してきた人生でした。おなかがすいていたエサウは、一杯の赤い煮豆と引き...
  「世の終わりまでともに」(マタイ 28:16-20 )   1.     疑う者たち 16   さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。 17   そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。    「十一人の弟子たち」と聞いて一瞬、「あれっ、十二人ではないのか」と思われた方もあるかもしれません。そう、一人欠けている。イエスを裏切ったユダが欠けて十一人なのでした。彼は銀貨三十枚でイエスを売り渡したものの、後に心責められて自ら命を絶ったのでした。ここで山に集まったのは、そうした十字架の試練を目撃したサバイバーたちです。けれども、この十一人とて無傷ではなかったのです。ペテロは三度、イエスを知らないと否定し、他の弟子たちも皆、十字架の主を見捨てて逃げてしまったのでした。  そう、十一人はいずれも挫折を経て、脛に傷を持っていた。その彼らが今再びガリラヤで一つ所に集まっているのです。これは意義深いこと。これが復活のメッセージの力です。挫折し、傷を負った者たちをも一つに集め、傷や躓きを癒していく。これが復活の恵みです。  「イエスが指示された山に登った」とありました。どこの山かは不明です。実はマタイの福音書において「山」には特別の意味が込められています。有名なのは「山上の説教」。その他にも重要なことがしばしば「山」で起こっていく。ですから十一人が、彼らの原点であるガリラヤに帰り、そこで「山」に登った。きっと何か大事なことがここで起ころうとしている。そんな予感を誰もが覚える場面です。  弟子たちは山に登りました。イエスさまの指示に従ったのです。すると、そこでイエスさまが待っていたのです。弟子たちが登ったあと「イエスが現れた」とは記されていません。待っておられたのです。イエスさまは弟子たちを心待ちにしていたのです。何しろ天使を通してあらかじめ、「先にガリラヤへ行く」と伝えたイエスさまでした。先にガリラヤに行って、弟子たちを心待ちにしている。そんな主の思いが滲んでくるところです。  けれども、この箇所に私は少し驚きました。山に登ってイエスさまに会いながらも、十一人の中に「疑った者たち」がいたのです。復活の主に出会い、彼ら...
「神の家、ベテル」  創世記 35 章 1 ~ 29 節  ヤコブは、叔父ラバンから逃れ、ハランから故郷に帰る途中、ペヌエルで兄エサウとの感動の再会を果たし、これで心に引っかかっていたことがすべて解決し、これからは順風満帆な日々を送れるだろうと思っていたことでしょう。ところが、その後、滞在したシェケムで、娘ディナが、地元の有力者の息子によって凌辱され、それに激怒した兄たちが、その村の男たちを皆殺しにし、女、子どもを略奪するという悲惨な出来事が起こりました。周辺の村々は、ヤコブ一族を敵視するようになり、ヤコブは彼らがいつ攻めて来るかも知れない状況の中で、戦々恐々と過ごし、もはやここにも住めないと思っていました。そんなときに、神さまは、ヤコブに語ったのです。 35節 「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」 「ベテル」は、もともと「ルズ」と呼ばれていました。「ベテル」というのは、ヤコブ自身がつけた地名です。彼は、まだ若いころ、兄と父をだまして長子の権利を奪ったために、兄エサウに命を狙われることになりました。そして命からがら逃げだした彼は、ルズで一夜を過ごしたのでした。石を枕にして寝たていたところに主は現れ、ヤコブに天と地をつなげる梯子をみ使いが上り下りしている夢を見させたのでした。そして主はそこでヤコブに語ります。創世記28章13~15節 「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」 この神の御声を聞いて、ヤコブは感動し、告白します。 「まことに【主】はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」「ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」 そして、ヤコブは目覚めるとすぐに、自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、油を注ぎました...

本当に主はよみがえって(ルカの福音書24章33~53節)

「本当に主はよみがえって」 ルカの福音書 24 章 33 ~ 53 節 先週はイースターで、エマオの途上で二人のお弟子さんがイエスさまに出会ったお話しをしました。食事の席で、イエスさまがパンを取って裂いた時に、さえぎられていた弟子たちの目が開かれ、目の前のお方がイエスさまだとわかったのです。その瞬間イエスさまは見えなくなりましたが、二人は復活のイエスさまに会ったことを他の弟子たちにも伝えたくて、すぐさま立ち上がり、もと来た道をエルサレムに引き返して行ったのでした。当時のエルサレムは城壁に囲まれていて、その城壁の門は日没の時間になると、閉ざされたといいますから、急がなくてはいけません。きっと彼らは 11 ㎞の道のりを走るようにして戻ったのではないかと思います。 彼らが到着すると 11 人の弟子(ユダを抜いた?)とその仲間が集まっていました。そして彼らは何やら興奮して話し合っているようでした。話し合っている内容は、34節 「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」 でした。ここで言うシモンはもちろんペテロのことです。えっ?イエスさまいつの間にペテロに会ってたの?と私たちは思います。おそらく、女たちの墓が空っぽだったという知らせを受けて、ペテロはすぐに墓に行って、確かに空であることを確認したのですが、その後に、復活のイエスさまが個人的にペテロに出会ったのではないかと思われます。ルカの福音書には詳しくは書かれていませんし、他の福音書にもないのですが、それ以外考えられません。とにかく、その話でもちきりの時に、エマオ途上で復活のイエスさまに出会った二人の弟子(クレオパともう一人)が、息せき切ってみんなが集まっている部屋に帰ってきて、 「道中起こったことや、パンが裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した」 のでした。そこにいた人々は、その日、朝から起こっている一連の出来事を聞いて、大騒ぎだったのではないでしょうか。 さらに、そんな状態の彼らの真ん中に、突然イエスさまが現れたのです。 36 節 「これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、『平安があなたがたにあるように』と言われた。」 これもまた復活のからだの不思議です。ドアをノックして普通に入って来ても十分驚きなのに、みんなが話をしている真ん中にいきなり現れるなんてどうしたことでし...

エマオの途上(ルカの福音書24章13~32節)

  「エマオの途上」 ルカの福音書 24 章 13 ~ 32 節   ここに二人の弟子が登場します。一人の名前はクレオパでした。もう一人の名前は記されていませんが、二人ともイエスさまの弟子でした。イエスさまが特に選んで身近に置いたのは皆さんご存知 12 人の弟子でしたが、それ以外にもイエスさまにはたくさんの弟子がいたのです。ルカの 10 章では 70 人の弟子たちに病気を癒したり、悪霊を追い出す権威を授けて送り出した記事がありますが、恐らくこの二人はその中にも入っていたことでしょう。 13 節に「ちょうどこの日」とあります。イエスさまが十字架につけられて、墓に葬られたのが、金曜日の夕方。土曜日はイエスさまはお墓の中でした。そして安息日が明けた日曜日の早朝、時間がなくてイエスさまの遺体にちゃんと香油を塗るなどの処置ができなかったことを気にしていた女の弟子たちが、夜明けを待って大急ぎでお墓に行きました。すると、お墓を塞いでいた大きな石がわきに転がしてあり、イエスさまの遺体がなくなっていました。女の人たちは困ってしまって、立ちすくんでいると、み使いが現れて言うのです。 「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」 (5-7節)その時に、この女の人たちは、「あっ、そういえばそうだった!イエスさまは必ず三日目によみがえると言っておられた!」と思い出し、実際イエスさまにお目にかかったわけではなかったのですが、イエスさまのよみがえりを信じて、急いで弟子たち+αに知らせたのです。ところが、お弟子さんたちは、信じませんでした。彼女たちの言うことを 「たわごと」 だと思ったのです。当時は女性の証言はまともに聞いてもらえなかったのです。 クレオパともう一人の弟子は、恐らく女たちの知らせを受けたその場所にいたと思われます。そして彼らも、女たちの話を「たわごと」だと思ったのです。そして、彼らはとにかくここから離れたいと思いました。イエスさまが逮捕されてからというもの彼らはあまり寝られなかったでしょうから、どこか静かなところで休み...

あなたの足を洗う神(ヨハネの福音書13章1~11節)

  2026 年 3 月 29 日 新船橋キリスト教会 説教者:山口陽一師(市川福音キリスト教会) あなたの足を洗う神 ヨハネ 13 章 1 ~ 11 節 はじめに  受難週を迎えました。一世紀の末、 4 番目の福音書として記されたヨハネによる福音書からヨハネだけが記す洗足の記事を学びます。ヨハネはこれを十字架の愛として記しています。   1、最後まで愛された( 1 節)   1 節「さて、過越祭の前のこと 、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、 世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、 彼らを最後まで愛された 。」 ヨハネ福音書では 13 章から十字架の記事が始まります。全部で 21 章ですから十字架と復活の記事に 4 割以上をあてています。  ちなみに、 12 章までの前半には「 7 つのしるし(奇跡)」が記されています。カナの婚礼、役人の息子の癒し、 38 年間病気で苦しんだ人の癒し、 5 千人の給食、水の上を歩く、盲人の癒し、ラザロの復活です。これらはイエスが神であることのしるしです。 先週で、 NHK の朝ドラ「ばけばけ」が最終回となりました。ラフカディオ・ハーンは自然を神とする日本を慈しみました。これは日本人の琴線にふれることでした。しかし、聖書は世界を造られた神のほかに神はいないことを教えます。しかも、その神が人となってくださったこと、そればかりか、人の罪を背負って十字架に死んで下さったこと、そこに愛があることを語るのです。 十字架は神の愛の現れです。今日はその愛を、感謝をもって受け取らせていただきましょう。ヨハネの福音書は、イエス・キリストを「まことの光」「いのち」と紹介しましたが、 13 章からはキリストの「愛」が語られます。   2、洗足と十字架( 2 ~ 5 節)     2 節「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。」 ユダの裏切りは心に引っ掛かります。このユダのことは、最後にもう一度触れます。「夕食」はユダヤにとって最も大切な過越祭の食事です。祝いの席でユダは裏切りを心に決めていました。不...