スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

5月, 2021の投稿を表示しています

神が自分たちとともに(使徒の働き14:19~28)

 「神が自分たちとともに」 使徒の働き14:19~28 今日の個所でパウロとバルナバによる第一次伝道旅行が終わります。いろんなことがありました。アンティオキア教会から送り出されたバルナバとパウロ、そして助手のヨハネは、まずは海を渡り、バルナバの出身地、キプロス向かいます。キプロス島の東海岸に船を付け、東から西へ伝道しながら移動します。そして西海岸パポスという町で、魔術師エルマと戦い、その後船で北上しました。ペルゲで伝道し、ピシディアのアンティオキアに到着しましたが、そこに到着する前に、ヨハネが離脱しました。あとでこのことがパウロとバルナバが反目し合う原因となります。そしてパウロはユダヤ人の会堂で福音を語りました。その説教を通して、ユダヤ人やギリシャ人がたくさん救われましたが、迫害も起こり、パウロたちはそこを追われることになります。そしてイコニオンでも同じことが起こり、彼らはまたも追われて、リステラへと向かったのです。そこでは足の不自由な男が救われ、足も癒され飛び上がって歩き出すという奇蹟が起こりました。それを見たリステラの人々は、バルナバをゼウス、パウロをヘルメスと呼んでいけにえをささげ、拝もうとしたのでした。それを知ったパウロたちは、必死になって止めたのです。さて今日はここからです。   14:19 ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。 アンティオキアからリステラまでは、距離にして160キロだそうです。彼らの執念は相当なものでした。けれどもパウロは驚かなかったことでしょう。なぜなら、執拗にクリスチャンを追う彼らの姿は、イエスさまに出会う前のパウロの姿そのものだったからです。使徒働き9:1~2には、そのときのパウロの様子が描かれています。 「サウロはなおも主の弟子たちをおびやかして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。」 この迫害者のエネルギー、熱量はどこから来るのでしょうか。意外かかもしれませんが、「正しさ」から来ます。「正義感」から来るのです。パウロにとっては身に覚えのある正義感でした。自分は

御霊に導かれて荒野に(マタイの福音書4:1~2)

  「御霊に導かれて荒野に」~神の言葉を握って~(マタイ 4:1-2 ) この箇所は、この後に続く「人は … 神の口から出る一つ一つのことばで生きる」を中心に語るべき所です。しかし、本日は聖霊が降ったことを記念する聖霊降臨日です。少し目線を変えて、御霊に導かれて荒野を歩んだ主イエスの姿から学びたいと思います。 1. 試み ?  誘惑 ?   1-2 節:「それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。」    この箇所は、よく考えながら読むと、いろいろ疑問のわいてくる所です。この直前は、イエスの洗礼の場面でした。天が開け、御霊が鳩のように降り、天の父の祝福が聞こえました。しかし、そうした祝福の高みから奈落に突き落とされるかのように、イエスさまは厳しい荒野へ向かう。しかも、何と洗礼の折りに天から降った御霊ご自身がイエスを荒野に導くのです。目的は何と、悪魔の試みを受けるため。いったい何が起こっているのかと、私たちは一瞬、わからなくなる。    ある注解者は、信仰者を訓練する天の父と関連付け、神の子イエスに対する、父の訓練だと理解します。ライオンがわが子を谷底に落として鍛えるような、光景です。でも 1 節はハッキリと、それが「悪魔の試み」であったと告げています。天の父の試みではない。 … そのように、ここは単純には読み解けない所です。しかもヤコブ書 1 章には、「神は悪に誘惑することのない方」、とありますので、余計に分からなくなってしまう。いったい、これはどういうことだろう。  いろいろ思い巡らす中での私の結論はこうです。実はこれが、この世で生きる信仰者の現実なのだと。イエスさまがそうであったように、神の子とされた私たちもまた、説明しようのない荒野の苦難の中に入っていくことがあるのです。 皆さんはイスラエルの王ダビデが晩年に、人口調査をして罪を犯した事件を御存じでしょうか。イスラエルの民が、神の民ではなく、まるで自分の所有であるかのように数えたのです。あれは王座に長くいたダビデの高ぶりを示す事件でした。で、それを書き留める聖書の二つの箇所は、全く違う書き方をしていて私たちを悩ませる。第二サムエル 24 章によれば「主の怒りがダビデをそそのかし」罪を犯

天地の創造主(使徒の働き14:11~18)

  「天地の創造主」                                                            使徒の働き 14:11~18   先週はリステラで、足の不自由な人がパウロの説教を聴いて救われ、足も癒されたというところまで読みました。今週はその続きです。 14:11 群衆はパウロが行ったことを見て、声を張り上げ、リカオニア語で「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになった」と言った。 最近の若い人は、ちょっとすごいことが起こったり、できたりすると、すぐ「神~!」と言いますが 、リステラの人々 は、この足の不自由な人が癒されるという奇蹟を見て、本当にパウロとバルナバを神様(現人神?)だと思ったようです。これはユダヤ人の会堂で話し、会堂の中で奇蹟を行ったとしたら起こりえない反応です。一神教の背景では、人が不思議なことや奇蹟をやって見せても、だからと言ってその人が神だとは思わないからです。その点、リステラの人々は日本のような多神教の国と共通するものがあると言えるでしょう。 ところが、この時点では、パウロもバルナバも彼らが何を騒いでいるのか、何を言っているのか、全く分からなかったようです。なぜなら、彼らはリカオニア語が分からなかったからです。この地域は周辺諸国と同様、ローマの支配下にあり、公用語はギリシャ語でしたから、人々はパウロたちのしゃべっているギリシャ語は理解できました。けれども彼らが日常的に使っていた言葉はリカオニア語だったのです。この状況、私はよくわかります。というのは、私たちは長く台湾で生活していましたが、私たちが現地で学んだ言葉は、中国語(北京語)でした。台湾の公用語は中国語だからです。(ちなみに日本占領下の50年間は、日本語が公用語でした。)ところが、台湾には台湾語という言葉があって、仲間内の会話は台湾語を使うのです。特にご年配の方とコミュニケーションをとるためには台湾語の方がいいですし、商売をしようと思ったら、台湾語ができないと話になりません。というわけで、台湾語のできない私たちは、よく疎外感(アウェー感)を感じたものです。説明が長くなりましたが、とにかく、パウロたちはこのリカオニア語が理解できませんでした。彼らは、今まではユダヤ人の会堂で、知った宗教、文化、言語の中で伝道してきましたが

癒されるにふさわしい信仰(使徒の働き14:8~10)

  「癒されるにふさわしい信仰」 使徒の働き 14:8-10  パウロとバルナバはアンティオキア教会からの派遣を受けて、地中海沿岸の地方都市へ宣教旅行に出かけました。これが第一次伝道旅行です。キプロス島での宣教を終えて、ピシディアのアンティオキアに移動し、ユダヤ人の会堂で福音を語りましたが、そこで迫害が起こり、その地を追われました。その後二人は、次の宣教地イコニオンへ向かいます。しかしそこでも迫害の手が伸びたので、二人は難を避けて、イコニオンから40キロほど離れたリステラという町に行きました。今回は、このリステラの町で起こった二つの出来事のうちの最初の出来事に注目したいと思います。 このリステラという町には、ユダヤ人の会堂がなかったようです。パウロたちの宣教の手法は、まずはユダヤ人の会堂で、聖書の知識のあるユダヤ人や外国人改宗者たちに福音を宣べ伝えるものでした。けれども、会堂がなければ仕方ありません。彼らは、ギリシャ人の雄弁家がしていたように、街の広場で、異邦人を対象に福音を語り始めました。 私たちの教会も伝道するとき、一見不都合と思えるようなことが起こったり、道が閉ざされたりすることがあります。けれども神さまが私たちの前に置かれる状況や場所、時というのは、いつもベストであることを信じましょう。神さまにはご計画があるのです。それが自分の計画や思い描いていたタイミングと違っても、私たちはそれを受け入れて、与えられた状況でベストを尽くしたいと思います。実際パウロたちは、会堂ではなくこの広場で、神さまが備えられた人に出会ったのでした。もし会堂で語っていたら、この人とは会えなかったでしょう。なぜなら彼は生まれつき足が不自由でしたから、生活の一切を人のお世話になっていました。誰かが会堂に連れて行ってくれなければ、行けなかったはずです。彼はおそらくいつものように、広場で一日時間が過ぎて行くの待っていました。ひょっとしたら生活のために物乞いのようなことをしていたのかもしれません。しかし、神さまのタイミングのコーディネイトは完璧でした。彼はこの日、パウロたちに出会い、そこで福音を聞いたのです。   さて、この聖書箇所を読んで皆さんが目に留まった言葉はなんでしょうか。私はやはり「癒されるにふさわしい信仰があるのを見て」というくだりです。ですから今日のタイトルもそのよ

世に勝つ者(Ⅰヨハネの手紙5:1~5)

  「世に勝つ者」  Ⅰヨハネの手紙5:1~5   少し整理してみたいと思います。ここで頻繁に出てくる単語は何でしょうか。「生まれる」4回、「信じる・信仰」3回、「命令を守る」3回、「愛する」5回、そして「打ち勝つ・勝利」4回です。このことからこの5つの単語がキーワードだということがわかります。「生まれる」「信じる」「命令を守る」「愛する」「勝つ」の5つです。   5:1 イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。 まずすべては「神から生まれる」から始まります。この「生まれた」という動詞の時制は完了形で、過去に起こったことが今も続いているという意味で「現在の状態」を表します。つまり、私たちは神から生まれて、今も神の子どもということです。そしてこの動詞は、神さまが主語の時は能動態、人間が主語の時は受動態です。つまり生む主体は神さまということです。私たちは赤ちゃんの側なので、生まれることについては、何もできないということです。私も4人子どもの母親ですが、赤ちゃんが自分の意思と努力で生まれてきた子は一人もいません。赤ちゃんはただ受け身で生まれるのです。 神さまは私たちを選んで、この救いに至る道に導いてくださり、さあこの道に乗っかりなさいと促してくださいました。例えば、飛行機に乗る場合、私たちには何もすることがありません。ただ飛行機に乗れば、飛行機が私たちを目的地に連れて行ってくれるからです。もし私たちにできることがあるとすると、飛行機を信頼してそこに乗ることです。この信頼が「信じる」「信仰」ということです。先、先週の祈祷会で「救いと信仰の関係」について学びました。「救いを受けるのは、水に溺れて、誰かに助けてもらわないとどうにもならない状況にあるのと似ています。もはや自分では何もできず、泳ぐこともできないので、溺れるほかなく、ただ身を委ねて救い出してもらうしかない状況です。唯一私が救いに貢献できるとしたら、自分の罪深い性質を差し出すことくらいでしょう。」私たちはイエスさまを十字架につけたその罪をイエスさまの前に差し出し、赦しを乞い、「ありがとうございます」と、その救いを受け取って新しく生まれるのです。 さて、信仰によって神から生まれたわたしたちに、2つのことが起きました。一つは、「神の命令を守る者」とされたこと。もう一つが「愛す