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癒されるにふさわしい信仰(使徒の働き14:8~10)

 

「癒されるにふさわしい信仰」

使徒の働き 14:8-10

 パウロとバルナバはアンティオキア教会からの派遣を受けて、地中海沿岸の地方都市へ宣教旅行に出かけました。これが第一次伝道旅行です。キプロス島での宣教を終えて、ピシディアのアンティオキアに移動し、ユダヤ人の会堂で福音を語りましたが、そこで迫害が起こり、その地を追われました。その後二人は、次の宣教地イコニオンへ向かいます。しかしそこでも迫害の手が伸びたので、二人は難を避けて、イコニオンから40キロほど離れたリステラという町に行きました。今回は、このリステラの町で起こった二つの出来事のうちの最初の出来事に注目したいと思います。

このリステラという町には、ユダヤ人の会堂がなかったようです。パウロたちの宣教の手法は、まずはユダヤ人の会堂で、聖書の知識のあるユダヤ人や外国人改宗者たちに福音を宣べ伝えるものでした。けれども、会堂がなければ仕方ありません。彼らは、ギリシャ人の雄弁家がしていたように、街の広場で、異邦人を対象に福音を語り始めました。

私たちの教会も伝道するとき、一見不都合と思えるようなことが起こったり、道が閉ざされたりすることがあります。けれども神さまが私たちの前に置かれる状況や場所、時というのは、いつもベストであることを信じましょう。神さまにはご計画があるのです。それが自分の計画や思い描いていたタイミングと違っても、私たちはそれを受け入れて、与えられた状況でベストを尽くしたいと思います。実際パウロたちは、会堂ではなくこの広場で、神さまが備えられた人に出会ったのでした。もし会堂で語っていたら、この人とは会えなかったでしょう。なぜなら彼は生まれつき足が不自由でしたから、生活の一切を人のお世話になっていました。誰かが会堂に連れて行ってくれなければ、行けなかったはずです。彼はおそらくいつものように、広場で一日時間が過ぎて行くの待っていました。ひょっとしたら生活のために物乞いのようなことをしていたのかもしれません。しかし、神さまのタイミングのコーディネイトは完璧でした。彼はこの日、パウロたちに出会い、そこで福音を聞いたのです。 

さて、この聖書箇所を読んで皆さんが目に留まった言葉はなんでしょうか。私はやはり「癒されるにふさわしい信仰があるのを見て」というくだりです。ですから今日のタイトルもそのようにもしました。「癒されるにふさわしい信仰」というのはどんな信仰なのでしょう。もしそんな信仰があるなら私も身に付けたい、そう思わないでしょうか。けれども、ちょっと待ってください。この聖書の「癒される」のところに米印が付いていて、下の脚注を見ると「救われる」とあります。この個所は「救われれるにふさわしい信仰」と理解することもできるということです。聖書を見ると、癒しと救いはいつもセットです。もっと言うと、「癒し」は救いに伴うしるしなのです。そのことについてはまた後で触れます。

さて、話しをもとに戻しましょう。「癒されるにふさわしい信仰」とは、どのようなものでしょうか。まず、第一に自分の無力を自覚することです。この使徒の働きの記者はルカです。ルカは医者ですから、この男性の身体的状態を詳しく書いています。一つは「彼の足は不自由」だったということ。直訳では「足に力がない」という意味です。二つ目は「生まれつき足が動かない」ということ、これも原語では母の胎にいる時からとあり、まぎれもなく先天性の障害を持って生まれてきたのだということを表しています。もう一つは「一度も歩いたことがない」ということです。ここも「決して~ない」とされています。つまり医者ルカの見立てとしては、彼は足に先天性の障害を持っており、それは固定化されて、歩くどころか、立ったことさえない。だからこの先、彼が立って歩けるようになる可能性はゼロだと言っているのです。

実はこの可能性ゼロというのが、神のみわざが現れるためには好条件なのです。人は、自分はまだやれる、自分の力で何とかなる、努力すれば、鍛えればきっとやれると思っているうちは、神に頼りません。そして神も働いてくださいません。「癒されるにふさわしい信仰」「救われるにふさわしい信仰」というのは、自分の無力を自覚することが、スタートとなります。先週も紹介しました。ニューシティーカテキズムの注解の一文をまた思い出してしまいました。「救いを受けるのは、水に溺れて、誰かに助けてもらわないとどうにもならない状況にあるのと似ています。もはや自分では何もできず、泳ぐこともできないので、溺れるほかなく、ただ身を委ねて救い出してもらうしかない状況です。」私たちは自分の無力と悲惨を自覚するとき、はじめて神に救いを求め、神はその御手を動かしてくださいます。

 そして二つ目が、神に可能性を見出すことです。神に癒しと救いを求めるのです。この足の不自由な男は、じっとパウロの話すことに耳を傾けました。パウロが話していたこと、それはもちろんイエス・キリストの福音です。イエスさまの十字架による罪の贖い、赦し、そして復活の希望です。彼にとっては初めて聞くことだったでしょう。しかし福音は彼の心を捕えました。「これだ!」と思いました。そしてパウロは、そんな彼に目を留めました。「じっと見つめた」と書いてあります。なぜでしょうか。それは彼の聞き方が際立っていたからです。そこには大勢の群衆がいたことでしょう。けれども彼の聞き方は、他の誰とも違っていたのです。彼には障害がありました。それは一目見ればわかりました。けれども彼の目は、彼の表情は、生まれつき体が不自由で、自分の不遇を嘆き、親を恨み、絶望の淵にある人たちのようではありませんでした。事実、彼はパウロの語るみことばによって、絶望の中に光が射しこむ経験をしていたのでしょう。出会うべきお方と出会った。救い主と出会った。彼の中にイエス・キリストへの信仰が生まれました。救われたのです。ですからパウロは「彼をじっと見つめ、癒されるにふさわしい信仰があるのを見た」と言っているのです。そしてパウロは彼の信仰を目に見える形で証するようにと、神さまに示されたのでしょう。大声でその足の不自由な男に向かって、「自分の足で、まっすぐ立ちなさい」と言ったのです。するとどうでしょうか。彼は飛び上がって歩き出しました。他の訳では「躍り上がって歩き出した」とあります。先ほど言いましたように、癒しは、救いの現れでした。彼の内面で起こったことが、外に現れたのです。彼は救い主イエス・キリストと出会って、心は踊っていました。ひょっとしたら彼にとっては、それで十分だったのかもしれません。しかし神は、彼に起こったことをまわりの人々に証しするために、肉体の癒しも与えたのです。信仰が先です。救いが先です。イエスさまに出会い、信じたときに、恵みとして、そして証しとして癒しが与えられたのです。 

さて「癒されるにふさわしい信仰」の3つ目は何でしょうか。それはみことばに応答する信仰です。たとえこの足の不自由な男が癒されたとしても、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」というパウロの命令に従わなければ、この奇蹟は起きませんでした。神さまは「自分の足で」とおっしゃっています。神の救い、癒しへの応答は個々人に求められています。立ち上がる力は神さまがくださいます。問題は私たちが立ち上がる決意をし、それに伴う行動を起こすかどうかです。皆さんにとって今、立ち上がるとは、どんな行動を起こすことでしょう。何を始めることでしょう。

 最後に、癒しが与えられるかどうかは、神の主権にゆだねられていることをお話しなくてはいけません。先日同盟の和泉福音教会の遠藤芳子先生のお話しをインターネットで聞く機会がありました。芳子先生は牧師であったご主人の遠藤嘉信先生を難病のALSで天に送ります。そしてまだ悲しみが癒えない、4か月後にご自身にがんが見つかります。そして手術を受け、放射線治療などご自身の治療が終わるとすぐに、今度は当時中学生のお嬢さんが、背骨が痛いと言い出し、難しい病気にかかっていることが分かったのです。インタビュアーがどうしてそのような試練を乗り越えられたのですか、その強い信仰はどこから来るのですかと芳子先生に聞きました。すると先生はこうおっしゃいました。「この世的に不幸なことが立て続けに起こったとしても、いやそうであるからこそ、そういうことで揺るがされない救いが与えられているのだということが見えてくのです。本当の幸せはここにあるということが、この世の幸せが奪われるほどに見えてくるのです。」「病がないから幸せだとか、癒されたから神さまが分かるとかいうことではありません。病のどん底で苦しみが続き、死に直面する中で、神がそこにおられることが分かるのです。そして、この肉体が滅んでいくのを目の当たりしてもなお、希望を持って生きられる救いを得ていることの価値が、益々見えてくるのです。」癒しは神の主権の中で行われます。祈って癒されることもありますし、癒されないこともあります。それは最終的に神がお決めになることです。私たちは、たとえ病が癒されたとしてもやがては死にます。けれども死をもってさえ失うことのない救い、神の子とされている幸せを私たちは知っています。病いや肉体の不自由、老い、そのような中でも変わらない神の愛の中に、私たちはいるのだということを、今朝覚えたいと思います。



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