「心から歌って賛美する」
エペソ人への手紙5:19
今年の年間テーマは、「賛美する教会」で、聖句は、今日の聖書箇所です。昨年2024年は「分かち合う教会」、2023年は「福音に立つ教会」、2022年や「世の光としての教会」、2021年は「祈る教会」、2020年は「聖書に親しむ教会」でした。このように振り返ってみると、全体的にバランスのとれたよいテーマだったと思います。そして、私たちが、神さまから与えられたテーマを1年間心に留め、実践しようとするときに、主は豊かに祝福してくださいました。
今年「賛美する教会」に決めたきっかけは二つあります。一つは、ゴスペルクラスです。昨年一年は人数的には振るわなかったのですが、個人的には、ゴスペルの歌と歌詞に感動し、励ましを得た一年でもありました。私の家から教会までは車で45分なのですが、自分のパートを練習するために、片道はゴスペルのCDを聞き、片道は「聞くドラマ聖書」を聞いて過ごしました。たとえば春期のゴスペルクラスで歌った「He can do anything!」は、何度も私の頭と心でリピートされました。I
cant do anything but He can do anything! 私にはできない、でも神にはなんでもできる。賛美は力です。信仰告白です。そして私たちが信仰を告白するときに、神さまは必ず応答してくださいます。
もう一つのきっかけは、クリスマスコンサートのときの内藤容子さんの賛美です。改めて賛美の力を感じました。彼女の歌う歌は「歌うみことば」「歌う信仰告白」とよく言われるのですが、まさに、みことばと彼女の信仰告白が、私たちの心に強く訴えかけました。
さて、今日の聖書箇所をもう一度読みましょう。エペソ人への手紙5章19節、
「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」
「詩と賛美と霊の歌」というのは何でしょうか。「詩」というのは、「詩篇」のことです。初代教会の礼拝では詩篇の朗読は欠かせませんでした。しかも礼拝の中で詩篇を歌うのです。確かにもともと詩篇は、楽器と共に歌われましたから、本来的な用いられ方なのでしょう。今でも礼拝の中で詩篇歌を用いる教会があります。
二つ目の「賛美」は、信仰告白の歌のことです。私たちは礼拝の中で、使徒信条を告白して、私たちが神について、人間について、救いについて、何を信じているのかを、教会として告白するのですが、それを歌にのせるのが、ここで言う「賛美」だということです。私たちが歌う教会福音讃美歌の中でも、そんな信仰告白を歌う歌はたくさんありますね。
そして三つ目の「霊の歌」は、自由な言葉で個人的な証しを歌う歌です。ゴスペルは、アメリカで奴隷にされて、苦しみの中にあった黒人奴隷たちの心の叫びが歌になったものですが、これも「霊の歌」でしょう。また、内藤容子さんが歌う賛美は、ご自身の証しを歌にしているも曲もありました。コンサートでも歌われた「そのままで」という曲がまさにそれにあたります。この歌で涙が止まらなくなってしまった人が何人かいたようです。こんな歌詞でした。
「そのままでいい」
どれくらい信じてるかな そんなこと言うけど これしなかったら ダメなんでしょ ああならないと いけないんでしょ なんの役にもたたなくなったら 見放すんでしょ だって このままのあたしが 愛されるはずない だから 鞭打って働いてるよ 疲れてるのに あなたのため だから 愛してくれるんでしょ でも 神様の愛はそんなんじゃない その荷物を君が一人で抱えてるから 君を好きなんじゃない 辛いことを涙見せずにこらえてるから 君を好きなんじゃない 明るいから 強いから 笑ってるから 正しいから そんなことで そんなことで 君のことを好きなんじゃない ただ その存在が大切で嬉しい ただ その命が何よりも愛しくて いつでも側にいたい ありのままの君が好きだよ たとえ何も出来なくても 飾らないで 背伸びしないで そのままで君を愛してるよ ありのままで従っておいで 必要な力 すべて与えるから そのままの君に わたしが働いて わたしの業を行うから わたしの栄光 あらわすから
一つは、「互いに語り合う」こと。当時の初代教会では、礼拝の中で、文字通り、歌によって互いに語り合っていたようです。カトリック教会では、司式者と会衆がことばを交わしながら礼拝を進めていきます。司式者が「父と子と聖霊の御名によって」と言うと、会衆が「アーメン」と応答して礼拝が始まり、聖書朗読がされた後、「これは主のことばです。」と宣言されると、人々が「神よ、感謝します。」と答えます。また、司式者が「主がともにおられますように。」と言うと会衆が「あなたとともにもおられますように。」と返答します。またプロテスタント教会の礼拝で行う交読文も「互いに語り合う」ことです。司会者と会衆が、詩篇などを1節ずつ交互に読むというものです。また、このような具体的なプログラムがなくても、礼拝全体は、神と会衆との語り合いで進められていきます。招詞では、神さまが会衆を礼拝招かれ、最初の賛美で、神をほめたたえる歌を私たちは歌い、神の礼拝への招きに応えます。そして、司会者が祈り、主の祈り、使徒信条の告白をもって、神への語り掛けが続き、みことばの説教によって、今度は、神の側が、私たちに語ります。その後、私たちは応答の賛美をもって主に語り、献金をもっても主に感謝の応答をします。そして、頌栄ですべての栄光を神さまにお返しし、祝祷をもって、神からの祝福を受けます。いかがでしょう。礼拝全体が、神さまと会衆の語り合いによって進められているのです。
次に「主に向かって」ということが大切です。アメリカなどのメガチャーチでは、礼拝が何かエンターテイメントみたいになってしまい、ステージの演奏やメッセージを、会衆が鑑賞するだけの礼拝が行われるようですが、それは正しい礼拝でしょうか。よく「礼拝を受ける」という言い方がなされるのを聞きます。けれども、礼拝はあくまで神に向かってささげられるものだということを忘れてはいけません。新型コロナウイルスのパンデミックによって、多くの教会は、オンライン礼拝を提供するようになりました。けれども、もし画面の向こうの礼拝をただ視聴し、鑑賞しているのであれば、それはやはり礼拝とは言えないでしょう。礼拝は、賛美は、主に向かってささげられるものです。そういう意味で、礼拝で賛美を導く、司会者や奏楽者、また、若い人たちの大きな大会などで、賛美リードをする人たちは、特に気を付けなければいけませんい。これらの人たちの役目は、あくまで、会衆の視線を主に向けさせることであって、自分に注目を集めることではないからです。
そして、最後「心から」主の賛美です。賛美は信仰告白です。神への愛と感謝を心からおささげし、心から主をほめたたえること、それが賛美です。そういう意味で、神さまを信じている人だけが、本当の賛美をささげることができるのだと言ってもいいでしょう。また神を人格的に知れば知るほど、私たちの賛美は本物になって行きます。こうして信仰の成長が賛美の成長につながっているのです。
私たちは、ゴスペルクワイアに未信者の方を招いています。未信者の人がささげる賛美は、賛美と言えるのかとの意見もあると思いますが、本来すべての人は、神を賛美するように創られていることを思うと、未信者でも賛美することができます。神のかたちに創られた私たちは、神に向かって賛美するときに、本来の在り方に帰ることができるのです。そして、たとえ未信者であっても、賛美を歌う中で、信仰に目が開かれ、神に出会うということは大いにあり得ますし、実際それが起こっていることを感じています。
また、「心からの賛美」というのは、私たちの心に住む「聖霊」によって可能になります。聖霊は、私たちの心を神さまに向けさせ、信仰を与え、平安と喜びを与えるのが聖霊です。私たちが、聖霊によって心からの賛美をささげる時に、感情的な興奮ではない、魂(霊)の感動を覚えることでしょう。
以上が、聖書が賛美について私たちに教えていることです。もともと私たちは、罪のせいで、神から遠く離れ、神さまに愛されていることにも気づかず、自己中心で、自分のために生きている者でした。けれども、神さまが、罪の中でもがき苦しんでいる私たちを見つけ出し、憐れんで、イエスさまの十字架の犠牲によって、私たちを罪の中から救い出し、神の子どもとしてくださったのでした。それによって、私たちは、神を賛美する者へと変えられたのです。こうして救われた私たちは、救いに関して、なんの功績もありません。私たちの救いは100パーセント、神さまの恵み、プレゼントだからです。ですから、救われた私たちがが、神さまのために何かできることがあるとすると、それは、感謝の応答としての賛美だけだと思うのです。朝起きると、今日も命を与えてくださった神さまに賛美をささげ、一日のなすべきことと、仕事が与えられていること、愛する家族が与えられていることを、主に感謝しつつ賛美します。また、住む家が与えてられていること、食べるものが与えられ、経済的にも何とかやっていけていることを神に感謝し、賛美をささげます。出勤の時、買い物の道すがら、青い空を見上げて、この大空を造られた主を賛美し、草や木や花を見て賛美し、この世界を今日も憐れみによって保ってくださっている主に賛美をささげるのです。私たちの心の中が、一日賛美が溢れている、そんな1年を皆さんと一緒に過ごしたいと思います。お祈りしましょう。
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