「サラの死と埋葬」
創世記12章1~20節
サラの生涯は幸せだったでしょうか。いろんなことがありました。夫が神さまから呼ばれたことによって、住み慣れた土地を離れなければなりませんでした。たいていの女性は定住志向ですから、寄留者として生きなければならないことは、サラにとってはつらいことだったことでしょう。時には、いのちの危険があるようなところに寄留することもありました。そんなときには、決まって夫アブラハムは、自分のことを兄だと言ってくれと頼むものですから、彼女は2回もその土地の王に召し抱えられる危機に遭いました。それは、サラの美しさのゆえでした。最近はルッキズムと言って、容姿が美しいことが幸せの条件のように思われています。確かに美しいことで得をすることもあるかもしれませんが、美しさゆえの悩みもあるようです。美しさゆえの誘惑があり、落とし穴があるからです。
けれども、サラの生前の一番の悩みは、やはり子どもがいないことでした。一時は自分で子を産むことをあきらめて、女奴隷ハガルを夫に与えて、彼女によって子をもうけようとしました。けれども、実際に身ごもったハガルを見るのは耐えがたく、ハガルに辛く当たり、彼女が逃げ出すぐらいひどくいじめたのでした。そんな事件があった後、不思議な3人の旅人が来て、「来年の今ごろ、サラに男の子を産む」と告げました。その時サラは、天幕の陰に隠れて、思わず心の中で笑ったのです。ところが神はご真実で、サラは本当に身ごもり、一年後には子どもが与えられました。その時サラは、すでに90歳。しかし、子どもが与えられた喜びに浸る日々もつかの間、今度は女奴隷ハガルの子イシュマエルが邪魔になります。そして、イサクの乳離れの祝いの席で、イシュマエルがイサクをからかったことを機に、夫にイシュマエルを追い出すようにと攻め寄り、とうとう二人を家から追い出してしまったのでした。
こう見ていくと、時代の制約はあったとしても、サラも普通の女性だったと思うのです。ところが、聖書での彼女の評価は高いです。Ⅰペテロへの手紙3章3-6節では、こうあります。「あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。かつて、神に望みを置いた敬虔な女の人たちも、そのように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえば、サラはアブラハムを主と呼んで従いました。どんなことをも恐れないで善を行うなら、あなたがたはサラの子です。」
この聖句を見ると、サラに代表されるような主に評価される女性の特徴というのは、①夫に従順であること。②神を恐れる純粋な生き方をしていること。③外面ではなく、心の中を柔和で穏やかな霊で飾っている人。なるほど、サラが約90歳で、アビメレク王の目に留まって召し抱えられたというその魅力は、内面の美しさが、外ににじみ出ていたからだったようです。私たちは歳をとるにつれ、内面が外に現れます。サラは、心揺さぶられる時はあったかもしれませんが、やはり、神を恐れ、純粋で柔和、穏やかな、神さまの前に心美しい女性だったのです。
さて、サラが召されたときのアブラハムはどうだったでしょうか。「悼み悲しみ、泣いた」とあります。アブラハムの生涯で、「泣いた」と記されているのはここだけです。しかもこの「悲しむ」という言葉は、「胸を打って悲しむ」という激しい悲しみを表しています。そして「泣いた」ということばも「声を出して泣いた」ことを意味しています。こんな激しい泣き方を見ても、アブラハムがどんなにサラを愛していたのかがわかります。加藤常明先生という有名な説教者がいますが、先生が連れ合いに先立たれた時におっしゃっていた言葉が忘れられません。先生はこう言っていました。「妻に先立たれたときの気持ちは、悲しいなんてもんじゃない。苦しいんだよ。」神さまから助け手として与えられた妻を失うというのは、想像以上のダメージがあるのかもしれません。
けれども、いつまでも悲しんではいられません。サラの遺体を埋葬しなくてはいけません。アブラハムは一時的な埋葬はしたようですが、代々使えるような私有の墓地にサラの遺体を移したいと願っていました。3節を見ると、「アブラハムは、その亡き人のそばから立ち上がり、ヒッタイト人たちに話した」とあります。こうして、彼らとの土地購入の交渉が始まったのです。
23:4 「私は、あなたがたのところに在住している寄留者ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば、死んだ者を私のところから移して、葬ることができます。」
アブラハムは言います。「私は、あなた方のところに在主している(だけの)寄留者です」。こうしてまずは、自分の立場をはっきりと表します。私は寄留者であってあなたたちの国には属していない。独自のアイデンティティと価値観、文化と習慣を持つ者だと言っているかのようです。そしてアブラハムは言います。「私有の墓地を私に譲っていただきたい」と。「私有の」というのが絶対条件でした。私は私の信じる神を礼拝する場としての墓地がほしい。異教の習慣や偶像礼拝の入り込まない墓地がほしいということです。
この交渉は、難航しました。ヒッタイト人は言います。6節「ご主人、私たちの言うことをお聞き入れください。あなたは、私たちの間にあって神のつかさです。私たちの最上の墓地に、亡くなった方を葬ってください。私たちの中にはだれ一人、亡くなった方を葬る墓地をあなたに差し出さない者はおりません。」 彼らはアブラハムが誠実な人柄で、信頼のできること。そしてアブラハムが彼の信じている神さまに非常に祝福されていることはよく知っていたのでしょう。「あなたは、私たちの間にあって神のつかさです!」と高評価をしています。だから、「どうぞ私たちの最上の墓地に、亡くなった方を葬ってください」というのです。「私たちの土地にはたくさん墓地があります。どうぞどれでもご自由にお使いください」と。けれども、アブラハムの願いは、彼らから土地を買って、自分たちの墓地を持つことです。自分が死ねばそこに入る。イサクも、イサクの子どもも代々そこに入るのです。7節を見るとアブラハムはうやうやしくヒッタイト人たちに礼をして、交渉を続けます。そして具体的に、自分が願っている洞穴を指して言うのです。8節後半から9節、「ツォハルの子エフロンに頼んでいただきたいのです。彼の畑地の端にある、彼の所有のマクペラの洞穴を譲っていただけるようにです。十分な価の銀と引き換えに、あなたがたの間での私の所有の墓地として、譲っていただけるようにしてください。」つまり、こういうことでしょう。「お願いです。お金は十分に払うので、私の所有の墓地を譲ってほしいのです。できればあのマクペラの洞穴をお願いします」と。それを受けて、今度は、マクペラの洞穴の所有者、エフロンが出てきます。10節を見ると、交渉の場所は「町の門」でした。公式な裁判や会議は、当時は町の門でなされます。そこで、ヒッタイト人たち全員が集まりました。さながら国を挙げての臨時総会が開かれたということでしょう。このような仰々(ぎょうぎょう)しい対応を見ていると、ヒッタイト人にとっても、外国の民が自分たちの土地に私有地を持つというのは、慎重にならざるを得ない事柄だったのでしょう。特にアブラハムたちは、独自の神を礼拝し、強いナショナリティ(アイデンティティ)を持っています。ですから、洞穴の所有者エフロンも答えます。「いいえ、ご主人。どうか、私の言うことをお聞き入れください。あの畑地をあなたに差し上げます。そこにある洞穴も差し上げます。私の民の者たちの前で、それをあなたに差し上げます。亡くなった方を葬ってください。」「差し上げます」を3度も繰り返すエフロン。しかも、アブラハムは洞穴だけでよかったのに、なぜかそこにある畑地まで乗っけてきました。するとアブラハムは、再び深々と礼をしていうのです。15節「もしあなたが許してくださるなら、私の言うことをお聞き入れください。畑地の価の銀をお支払いします。どうか私から受け取ってください。」こういうことでしょう。「わかりました。畑地も買いましょう。ですから、お願いです。私たちの墓地として、その土地を譲ってください!」その土地を買うことにこだわっているアブラハムに、最後エフロンは法外な値段を突き付けてきました。銀400シェケルです。当時の土地の相場はわかりませんが、明らかに高すぎる値段のようです。商魂たくましいのか、どうしても売りたくないのか…。ところがアブラハムは、このチャンスを逃しませんでした。「わかりました。その値段で買いましょう!」商談成立!17-19節「こうして、マムレに面するマクペラにあるエフロンの畑地、すなわち、その畑と、畑地にある洞穴と、畑地の周りの境界線内にあるすべての木は、その町の門に入るすべてのヒッタイト人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。その後アブラハムは、マムレに面するマクペラの畑地の洞穴に、妻サラを葬った。」思いがけず、畑地とそこにある木々も手に入れることになりました。これにも何か意味があることなのでしょう。
「マムレはヘブロンにあり、カナンの地にある。こうして、この畑地とその中にある洞穴は、ヒッタイト人たちの手から離れて、私有の墓地としてアブラハムの所有となった。」(19-20節)
こうしてアブラハムは、この約束の地で、はじめて自分の土地を得たのでした。小さな土地でした。けれども神さまが、「わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。」と約束してくださったのです。アブラハムはまだ見ぬ神の約束をそこに見たのでした。そして、やがてこのマクペラの洞穴に、アブラハム自身が入り、イサクが入り、イサクの妻、リベカが入り、次の代のヤコブが入り、ヤコブの妻レアが入るのです。三代目のヤコブは遠くエジプトで死んだのですが、遺言で「私が先祖とともに眠りについたら、エジプトから運び出して、先祖の墓に葬ってくれ。」と息子ヨセフに頼み、今わの際(きわ)では、こんな遺言を残しています。「私は、私の民に加えられようとしている。私をヒッタイト人エフロンの畑地にある洞穴に、先祖たちとともに葬ってくれ。その洞穴は、カナンの地のマムレに面したマクペラの畑地にあり、アブラハムがヒッタイト人エフロンから、私有の墓地とするために、畑地とともに買い取った洞穴だ。そこにはアブラハムと妻サラが葬られ、そこにイサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った。その畑地とその中にある洞穴は、ヒッタイト人たちから買ったものだ。」(49:29-32)こうして、アブラハムがサラのためにマクペラの洞穴と畑地を買い取ったことで、カナン全土を与えると言った神の約束は色あせることなく、代々引き継がれていったのでした。
今日の聖書箇所から、私たちは、クリスチャンが持つお墓の意義を見ることができます。一つは、故人が生涯をかけて信仰を貫けたことを感謝し、神さまに礼拝をささげる場としてのお墓です。もう一つは、もちろん故人を偲び、追悼するための記念碑としてのお墓。そして三つめは、復活信仰の表明です。お墓は、天の故郷への一里塚なのです。そして最後に家族、親族代々の救いの希望の場です。皆さんご存じのように、主人の両親がお墓をきっかけに求道を始め、信仰告白に導かれ、洗礼を受けました。お墓は家族の救いの希望です。お祈りしましょう。
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