「慰めを待ち望む」
ルカの福音書2:21~35
21~24節には、律法の習慣(レビ記12:1~8)に従うイエスさまの姿が描かれています。もちろんイエスさまは生後間もない赤ちゃんですから、律法の習慣に従ったのはマリアとヨセフなのですが、実は、イエスさまは律法を制定される側のお方なだということに思いが至るときに、ご自分の制定された律法に自ら従われる姿に、人として歩み始めたイエスさまの覚悟と本気を見る思いです。
まずは、八日目の割礼です。ユダヤ人は生後8日目の男子の赤ちゃんに割礼を施すことが律法で定められていました。割礼は、天地万物を創られた唯一の神を信じる民、「神の民」としての特別な印でした。神さまと特別の約束を交わした民としてのしるしです。そしてこの日に、み使いが両親に告げられた「イエス」という名前を幼子につけたのです。
次に40日の清めの期間が終わったあとの宮詣です。日本でいうお宮参りといったところでしょうか。40日というのも、レビ記にある規定で、女性が男子のあかちゃんを生んだ場合、7日間は、宗教的に汚れているとされて、その後33日間の清めの期間があり、合わせての40日が、その期間となります。(ちなみに女の子の場合は、2週間の汚れた期間を経て、66日間清めの期間を過ごします)この間、母親は隔離されるわけですが、産後のママにとってはありがたい時期です。今みたいに洗濯機や掃除機、炊飯器などがない時代、家事は女性にとって重労働でした。そこから解放されて、自分の体の回復と、新生児のお世話だけしていればいいこの時期は、産後のママにとって必要不可欠な時期だったのです。そして、その期間が明けて、マリアのからだも十分に回復して、 彼らはエルサレム神殿に向かったのでした。Googleマップで検索すると、ベツレヘムからエルサレムまで、距離にして8.9キロ、車で20分の距離です。もちろん当時は車はありませんので、徒歩だと2時間弱というところです。産後の身にとっては、ロバに乗って行ったとしても、決して近いとは言えない距離です。こうして、マリアとヨセフ、小さな赤ちゃんのイエスさまは、エルサレムの神殿に向かったのです。
さて、宮に着くと、律法の規定に基づいて、ささげものをします。ささげものの内容も決まっています。それは、生まれたのが男子であっても女子であっても同じで、「一歳の子羊を一頭と、家鳩のひなか、山鳩を一羽」なのですが、もし家が貧しくて、これらのものを用意できない場合は、「二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひな」でした。マリアがささげたのは、「山鳩一つがいと家鳩のひな二羽」ですね。彼らの貧しさを表しています。こうして、晴れてマリアは産褥開けしたということです。
マリアとヨセフの宮詣にはもう一つの意味がありました。それは、「この子を神さまのものとしておささげする」という意味です。彼らは、二人ともみ使いのみ告げを受けていますから、与えられた赤ちゃんは、特別な子どもであると知っていました。また、羊飼いたちの訪問と証言で、それはますます確かなものとなりました。ですから、この子は私たちに託されてはいるけれども、私たちの子どもではなく、神さまのものです。ですから、この子を神さまにおささげします。おゆだねしますと、その信仰を表明したのです。
さて、25節から、老人シメオンが登場します。実は、後に出てくるアンナに関しては、非常に歳をとっていたと、84歳だとありますが、シメオンに関しては「老人」とは書いていないのですが、26節に「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。」とありますし、実際イエスさまに出会ったシメオンは、29節で「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。」とあることから、きっと、長い間、この約束を待ち続けて、すでに老人になっていると推測できるのです。
さてこのシメオンについては、「正しい、敬虔な人」とあります。聖書のいう「正しい」は、杓子定規な堅物人間を指すのではなく、「神と正しい関係にある人」を表します。ここ最近出てきた人ですと、ヨセフも「正しい人」と呼ばれていますし、バプテスマのヨハネの父、ザカリヤも「正しい人」でした。神さまとの関係が正常化されている人、神さまとつながっている人、そんな人は敬虔な信仰を持っている人でしょう。また、「聖霊が彼の上におられた」とあります。ペンテコステ以降は、すべてイエスさまを信じる人には聖霊が宿ります。けれども、当時は、何か特別な使命が与えられている人に、聖霊が宿りました。旧約聖書の王様や預言者といった人たちがそれです。シメオンは祭司でもなければ、当時に人気のパリサイ人でもない、普通の人でした。平信徒だったのです。けれども彼には、特別な使命が与えられていました。その特別な使命というのが、「主のキリストを見る」(26節)ということだったのです。
彼がどうしてこの「主のキリストを見る」つまり、メシア、救い主を見るという使命をいただいたのでしょうか。それは、彼が「イスラエルが慰められることを待ち望んでいた」からでした。彼は、今日の招詞で読んだイザヤ書52:9-10の預言を待ち望んでいたのです。
「エルサレムの廃墟よ、ともに大声をあげて喜び歌え。【主】がその民を慰め、エルサレムを贖われたからだ。【主】はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現された。地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見る。」
彼は、このみ言葉の実現を切実に待ち望んでいましたし、廃墟となったエルサレムが立て直され、その民が慰められ、エルサレムが贖われる(買い戻される)こと、救われることを待ち望んでいたのです。神さまから、必ずこのみ言葉は実現すると、あなたは必ずイスラエルの慰めをみるという約束をいただいていたのです
シメオンは、いつものように宮へ向かうわけですが、その日は、いつになく、聖霊の導きを強く感じ、何かが起こるのではないかという、予感と期待をもって、宮に入って行ったのです。するとそこに、みすぼらしい身なりをした若い夫婦と母親に抱かれた赤ちゃんを見つけました。聖霊がシメオンに教えました。「このお方だ!」、ずっと待ち続けていた『慰め』がここにおられると、シメオンには、わかりました。そして聖霊の感動の中、恐る恐るその子に近づきます。心なしか家畜のにおいがする。そして、両親に聞くのです。「抱っこさせていただいてもいいですか」 普通の赤ちゃんでした。後光なんてさしてない、静かに眠るあかちゃん、ひょっとしたら柔らかなママの腕から、突然、ごつごつした冷たい老人の手に渡って、泣いてしまったかもしれません。けれどもシメオンは、長く待ち望んだ救い主に会えたのです。もう大丈夫。イスラエルは、贖われる。イスラエルの栄光は回復する。それだけじゃない、「万民の前に備えられた救い」「異邦人を照らす啓示の光」を私は見た。イスラエルだけじゃない、世界の、全人類の救い主がここにおられる!
彼は、幼子を抱きながら、両親を祝福し、そして母マリアの方を向き、悲しい顔をして言いました。(2:34-35)「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」 この子は確かに救い主です。けれども、この子の存在は、分断を生むでしょう。ある人々は、彼を受け入れ従うでしょう。しかしある人々は、彼に敵対し、苦しませ、やがては殺すでしょう。それは、母親のあなたにとってつらいことです。けれどもこれは避けて通れないことなのです…。
私たち一人ひとりも慰めが必要です。愛されたいのです。大事にされたいのです。優しいことばがほしいのです。大丈夫だよと抱きしめられたいのです。私たちが求める慰めは表面的な、一時的な慰めじゃない。確固とした信頼のおける慰めです。
安心してください。「慰め」はすでに与えられました。「慰め」はすでに来たと言ってもいいでしょう。その慰めは、完全であり、永遠です。イエス・キリストこそ、完全な、永遠の慰めだからです。
ハイデルベルグ信仰問答の問一
「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」
「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」
この「慰め」と訳されたドイツ語のもともとの意味は、私たちの心を置くべきよりどころや確信という意味合いを持つ言葉だそうです。私たちの「慰め」「拠り所」を自分自身に置いたり、恋人や伴侶に置いたり、お金や社会的地位、自分の容姿や力に置いても、一時的な「慰みもの」にしかなりません。本当の慰めは、私たちの体も魂もすべてをお任せることのできるイエス・キリストに置くのです。イエスさまは、私たちの慰めになるために、人となって地上に生まれてくださり、十字架への道を歩み、そして、私たちをご自分のものとするために、罪と死から、私たちを贖いだしてくださったのです。罪の奴隷になっていた私たちを、ご自身の十字架の血潮という代価を払って、買い取ってくださり、ご自分のもの、ご自分の子どもとしてくださったのです。永遠にです。この肉体のいのちが終わってもなお、私たちは神さまの子どもです。神さまのものです。これが、私たちが拠り所とすべき、唯一の慰めです。お祈りしましょう。
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