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まいごのひつじ(ルカの福音書15:1~7)


①「不良ひつじのジョニー」

みことば:ルカの福音書15:1~7

 

②ひつじ園という羊の牧場があります。

ここで羊たちは毎日遊んだり勉強したりお仕事したりしながら暮らしています。

お仕事と言っても、毛を刈ってもらったり、お乳を搾ってもらったり、お世話されることがお仕事です。

強いて言えば、もぐもぐたくさん食べることが、ひつじさんたちの一番のお仕事かもしれません。

ここには羊飼いのおじさんがいて、いつも悪いオオカミから守ってくれて、おいしい草がたくさんあるところに連れて行ってくれるので安心です。

ときどき、ひつじ同士ケンカすることもあるけれど、おじさんが助けてくれるので、みんな平和に暮らすことができます。

 

③ひつじ園には一匹の不良羊がいます。

名前はジョニーです。

ジョニーはいつもイライラしています。

だから他の羊たちはジョニーが苦手です。

ジョニーに近づくといじめられてしまうので、みんなジョニーから遠くに離れてしまいます。

 

④ジョニーは自分よりも力の弱い羊をいじめたり、仕事をさぼったり、他の羊のお菓子をとったり、いつも自分勝手です。

「フン!強い者が一番偉いんだぜ!

お利口さんなんてかっこ悪いぜ!

俺は別に友だちなんかいらないぜ!」

ジョニーはそう言って暴れます。

 

⑤ある日、羊飼いのおじさんが羊たちに言いました。

「今日はみんなで隣の草原に遠足に行きまーす。

みんな列になってついてきてくださーい。」

わーい。羊たちは大喜びです。

隣の草原には、とっても美味しいクルクル草があるのです。

でもジョニーは…

「ケッ。かったるいなー」

またブツブツ文句を言っています。

⑥みんなでゾロゾロと列になって隣の草原に向かいます。

しかしジョニーは、

「みんなでチンタラ歩きたくねーぜ!

俺はバイクで行くぜ!」と言って、

自分だけバイクに乗ってビューンと行ってしまいました。

「おーい!ジョニー!道はちゃんと分かるのか~?」

ひつじかいのおじさんは叫びますが、

「へっ。隣の草原なんてしょっちゅう一人で行ってるんだぜ。

道ぐらい分かるに決まってるぜ!」

ジョニーはそう言って走って行ってしまいました。

 

⑦さて、ひつじ園のみんなは、しばらく歩いて隣の草原に着きました。

「わーい。クルクル草だー。やっぱりおいしいな~~」

「歩いてお腹ペコペコだから更においしく感じるね」

早速、名物のクルクル草をみんなで食べ始めました。

しかしおじさんはキョロキョロと周りを見て落ち着かない様子。

「先に着いてるはずのジョニーが見当たらないなあ…」

おじさんはジョニーの事が心配で仕方なかったのです。

 

クイズ ひつじかいのおじさんはどうしたでしょう。

①やった~!あいつがいなくなってせいせいしたよ。

②どこかな~?捜しにいきました。

③まあいっか~。あきらめてしまいました。

 

⑧ひつじかいのおじさんは、

「みんなはここで待っててね。わたしはジョニーを捜してくるから」と言って

みんなを草原に残して、ジョニーを捜しに行きました。

羊たちは集まって話しだしました。

「ちぇー。ジョニーなんかいない方がいいのにさ~

なんでおじさんは捜しになんか行くんだよ~」

「本当だよ。僕たちだけの方が平和なのにさ」

羊たちは、ジョニーがいない方がいいのにと思いました。

しかし一匹の羊が突然こう言いました。

「でも…羊飼いのおじさんはひつじ園の羊がみーんな大好きっていつも言ってるよ?

わたしが前に迷子になった時、おじさんは

ずーっと遠くまで捜しに来てくれたんだよねぇ…」

それを聞いた他の羊は黙ってしまいました。

実はみんな、何度もおじさんを困らせたり、

おじさんに助けられたりしたことがあったからです。

 

⑨ひつじかいのおじさんがジョニーを捜して山道を歩いていると、

崖の下からメーメーと羊の鳴き声聞こえてきました。

「あ!この声はジョニーだ!」

崖の下にはバイクで転げ落ちたジョニーが倒れています。

「ジョニー!今助けるからなー」

おじさんはそう言って、杖をジョニーの足にひっかけて、助け出しました。

 

⑩ひつじかいのおじさんは、怪我をしたジョニーをおんぶしました。

ジョニーは「おじさん…ごめんなさい。…怒ってる?」と、おそるおそる聞きました。

しかしおじさんは「怒ってなんかないよ。見つかって本当に良かったなあ~」と、

ジョニーをしっかりと抱きしめました。

草原で待っていた羊たちはおじさんが

ジョニーを連れて帰って来たのを見て大歓声をあげました。

「やった!ジョニーが無事に帰ってきたよ!」

「おじさんが必ず見つけてくれるって信じてたよ!」

「ジョニーを助けたおじさんは、ぼくたちのうち誰が迷っても、

絶対に助けてくれるんだよね。」

 

⑪「おかえり、ジョニー」

そう言ってみんなはジョニーに近づきました。

ジョニーは「みんな…今まで、悪かったな」と、恥ずかしそうに謝りました。

サングラスがとれたジョニーの目は、その時どの羊よりも優しく見えました。

(おしまい)

 

実は、ジョニーは群れの中にいるときから、迷っていたんじゃないかなと思うのです。本人はそれに気づいていなかったと思うけど。

なんとなく一人ぼっちで、だれもかまってくれなくて、おじさんだって、きっとぼくなんかより、いい子の羊の方が好きに決まっている、そう思っていたんじゃないかな。

昔「家にいるのに帰りたい」という言葉を聞いたことがあります。そんな風に思ったことがありますか?それは、迷っている証拠です。

小さい時はお母さんがいて、帰る家があって、それだけでしあわせなんだけど、人は大きくなると、だんだん本当の帰るところはどこだろうって思うものです。でも、それがどこかわからないから、いろんなところに行って、頼ってみたりするんだけど、心は寂しいまま。満足できません。

人は神さまに造られているので、みんな神さまの子どもです、だから、神さまのもとに帰ったときに、初めて「帰って来た」と心を安らぐことができるのです。

 でも、人は「帰りたい」という思いと、「帰りたくない」という思いと両方あります。ジョニーもそうでした。「神さまなんていらないぜ」「おれは一人でいきるんだぜ」そう言って、神さまから遠く離れてしまうのです。その「帰りたくない心」は「罪」と言います。

 でもね。神さまは、捜しに来てくれました。帰りたくてもどこに帰ったらいいのかわからない私たちを迎えに来てくれたのです。自分の心の奥底の帰りたい気持ちさえわからなくなっている私たちを、神さまの方から探し出して、「ほら、帰っておいで、そのままでいいんだよ。どうしたんだい、そんなに傷だらけになってしまって。ドロドロに汚れてしまって。そのままでいいんだよ。帰っておいで。」と声をかけて、両手を広げて待っていてくれているのです。

もし、私たちがそんな神さまの声に気が付いて、心のお家に帰ったら、もう、「家にいるのに帰りたい」なんていうモヤモヤはなくなるんだよ。イエスさまは、私たちを何一つ責めないで、ただ抱きしめて、よかった、よかったって喜んでくれる。そして私たちは、帰って来た~っていう本当の安心を味わうんだよ。神さまのところに帰ろうね。

 おいのり

天の神さま、私たちはみんな、迷っています。神さまのところに帰らなければ、本当の安心はありません。そんな私たちを、神さまの方が捜して、見つけ出してくださいました。今、神さまのところに帰ります。私を見つけてくれて、ありがとうございます。イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン


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