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6月, 2023の投稿を表示しています

イエスが生きている(使徒の働き25:13〜22)

「神は死んだ、 God is dead 」と言ったのは、ドイツ人の哲学者であり、虚無主義者(ニヒリズム)でもあるフリードリヒ・ニーチェでした。また、最近ですと、2014年に「神は死んだのか? God's Not Dead 」という映画が放映されました。ご覧になったでしょうか。アメリカの大学で実際に起こった訴訟事件を題材に、大学生と無神論者の教授が神の存在を証明できるか否かで対立する姿を描いた映画です。大学に入学したジョシュは、ラディソン教授が教鞭をとる哲学の授業を受講しますが、無神論者の教授は初日の授業で「 God is dead. (神は死んだ)」という、神の存在を否定する宣言書を提出するよう生徒に強要します。単位を落としたくない生徒たちは言われた通りに提出しますが、ジョシュはそれを拒否します。そんなジョシュに、教授は「神の存在を全生徒の前で証明してみせろ」と迫り、ジョシュはそれに応じるという映画です。 クリスチャンである私たちは、「神は死んだ」とは思っていないはずです。けれども果たして私たちは、本当に「神が生きている」と信じている生き方をしているでしょうか。心のどこかに虚しさを抱え、未来に希望が持てず、自分が生きていることに意味を感じられないなら、私たちは実は「神は死んだ」と思っているのです。今日のテーマは「イエスが生きている」と主張したパウロのお話です。   さて、新しい総督フェストゥスは仕事の早い男で、着任三日後には、エルサレムへ表敬訪問に行き、統治が難しいとされるユダヤ人の政治的、宗教的指導者たちに挨拶をしました。そして、エルサレムに10日ほど滞在し、カエサリアに帰ってくると、さっそく翌日にはパウロの裁判を開きます。ユダヤ人指導者たちもそのために、カエサリアまで下ってきました。原告である彼らは、2年前と同じようにパウロを訴えるのですが、やはり証拠と呼べるものは今も何一つなく、総督フェストゥスは、困ってしまいます。おそらくフェストゥスは、前総督のフェリクスがこの問題を二年も放置した理由がなんとなくわかったのではないでしょうか。ユダヤ人の訴えを聞く限り、パウロはローマ法に抵触するような罪は全く犯していない。できればパウロを無罪にして釈放し、この裁判を終わらせたいのですが、ユダヤ人の手前それもできない。フェストゥスは、この件はどうしたらいいも

聖霊に満たされ(使徒の働き2:1〜8)

「聖霊に満たされて」(使徒 2:1-6 ) 齋藤五十三師 1.      同じ場所で心ひとつに   1 節(読む) 五旬節はユダヤ人の信仰生活において特別な季節でした。そのため、読んでいるといろいろな想像力をかきたてられます。 けれども、そうした季節が持つ特別の意味以上に、この一節の強調点は、共に集まる弟子たちの姿に向けられています。「皆が同じ場所に集まっていた」こと。これが一節のフォーカスです。 ここにはおそらく 120 名ほどが集まっていたようですが、彼らは何をしていたのでしょう。 彼らは祈っていたのです。「祈り」とは書かれていないものの、祈っていたことは明らかです。 使徒の働きの初めには、弟子たちたちが集まって、心を一つに祈っている。そういう場面が繰り返し描かれていくのです。 そのように心を合わせて祈る背景には、御言葉の約束がありました。 復活の後、天に昇られる前にイエスさまは約束されましたね。 使徒の働き1章 4 節、 5 節にこうありました。 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」  そうです。 イエスさまは命じられたのでした。「エルサレムに留まるように。聖霊を受けて、わたしの証人となるように」と。 この約束に応えて 120 名もの弟子たちは、共に集まり祈っていたのです。  これは麗しい姿でしょう。主イエスの言葉に、弟子たちが心を合わせる祈りで応答していく。 そして、そのように祈る交わりの上に聖霊がくだり、新約の教会が誕生するのです。    使徒の働きの初めに出てくる教会の姿は実に多様ですが、やはり印象に残るのは、彼らが心を合わせて祈っている姿です。多様な働きの中にあって、彼らはいつも心を一つに祈っている。 そこに聖霊が降り、神の御業が起こる。 こうした教会の本質は、今も変わらないのです。教会が一つ思いで祈るなら、そこに聖霊が豊かに臨み、働いていく。 この教会の生きた姿を、今朝は、まず心に留めておきたいのです。    私は 2004 年四月に、家族とともに国外宣教師として台湾に遣わされました。宣教師の仕事は、約三年の語学の学びから始まります。一年目、私は懸命に中国語の学習に励みました。無理をし

神の計画のために(第一列王記17:8〜16)

2023.06.11 新船橋教会礼拝説教 1列王記17:8-16  説教題「神の計画のために」  主題:神の計画は偉大である。人間は神さまへの信頼と信仰を通して神の計画のために用いられ ていく。 ・はじめに  おはようございます。  関東地方が梅雨入りしたというニュースを聞きました。 今年はもうすでに、大雨によってたくさんの被害が報じられています。 被害にあった方々の回復とみことばを聞く備えのために、祈りたいと思います。 天の父なる神さま (自由祈祷) ・雨が降らない!? まず、今日の聖書箇所の前提となっている状況を確認したいと思います。 17章1節「ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイス ラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降り ず、雨も降らない。」 エリヤは17章1節に突然登場する人物です。 列王記が書かれた当時、エリヤは有名人で、皆が知っているため、特に説明を加える必要はな かったのでしょう。  列王記は、17章から19章まで、エリヤを中心に進んでいきます。 そして、もう一人重要な登場人物がいます。それがアハブです。 アハブは、北イスラエル王国の七代目の王です。 アハブはイスラエルに軍事的、経済的に発展をもたらした人物ということができます。 しかし、神さまからの評価は、「彼以前の誰よりも主の目に悪であることを行なった。」 最悪の評価でした。 それは、外国から嫁いできたアハブの妻イゼベルが、アハブを偶像礼拝へと引き摺り込んでいった からです。 イゼベルは、イスラエルに自分の生まれ故郷であるバアル宗教を持ち込みました。 アハブは、北イスラエル王国の首都であったサマリアに、バアルの神殿を作り、そこにバアルの祭 壇を置いたのです。 民を導くべき王が偶像礼拝に傾いている。 民もまた、神さまから離れている状態でした。 このように信仰的に混乱した時代。 天地を造られた真の神さまへの礼拝が軽んじられた時代に、エリヤは神さまを信じる者として遣 わされたのです。 エリヤに託された第一の勤めは、イスラエルへのさばきを宣告することでした。 それは、雨が降らなくなるということです。 そして、このことばの通りにイスラエルに雨が降らなくなりました。 雨が降らないとどうなるか?  川が干上がり、水不足になり

カエサルに上訴(使徒の働き25:1〜12)

「カエサルに上訴」 使徒の働き25:1~12 今日は新しい総督が出てきます。先週までの総督フェリクスは、パウロについて、また「この道」と呼ばれるナザレ人イエスの教えについての知識が豊富で、興味関心もありました。ところが、今の地位や名声、富を失うことを恐れて、結局は悔い改めてイエスさまを信じることができず、2年の月日が空しく流れ、やがてはユダヤ総督の座から退くことになりました。 こうして新しくユダヤ総督として就任したのが、今日出て来るフェストゥスです。フェストゥス総督は、この時から3年、ユダヤ地方含むシリア州を治めることになります。 フェストゥスについての資料はあまりないのですが、今日の聖書箇所に記されている彼のふるまいを見るだけで、彼が職務に忠実で賢い総督であったことが想像できます。どうしてそう思うのか。いくつかのことがあげられます。 一つは、彼が着任三日後に、自らエルサレムに赴き、宗教的、また政治的指導者たちに会い、ユダヤ人たちと友好な関係を築こうとしているからです。何度も言うように、ユダヤ人というのは一筋縄ではいかない非常に統治するのに難しい民族です。民族意識が強く、律法に厳格で、創造主なる神を信じる民族。そして自分たちは他のどの民族よりもすぐれていると自負している誇り高き人々です。フェストゥスは、先のフェリクスと比べると、ユダヤ人に対する知識はなかったかもしれませんが、それでも、ユダヤ人たちが特異な民族であることは、よく承知していたので、自分が今後仕事がしやすいようにと、まずは、ユダヤ人の指導者たちにあいさつをするために、エルサレムに赴きました。 二つ目は、フェストゥスは、エルサレムに8日から10日滞在しました。その間、祭司長やおもだった者たちが、パウロの話しを持ちかけ、もう一度彼をエルサレムに呼び寄せてほしいと頼んだのですが、フェストゥスはそれを断りました。4節では、パウロはカエサリアに監禁されているし、自分も間もなく出発する予定だから無理だと言っていますが、本当のところは、パウロはローマ市民で、今ローマの法の下で裁きを受けているのに、今更エルサレムに戻すわけにはいかないというのが真意だったと思います。それをやんわりと、「いやいや、私はもう帰るから、そんな無理を言わないでくださいな」とユダヤ人たちの機嫌を損ねないように伝えたということでしょう。実