「神は死んだ、God is dead」と言ったのは、ドイツ人の哲学者であり、虚無主義者(ニヒリズム)でもあるフリードリヒ・ニーチェでした。また、最近ですと、2014年に「神は死んだのか?God's Not Dead」という映画が放映されました。ご覧になったでしょうか。アメリカの大学で実際に起こった訴訟事件を題材に、大学生と無神論者の教授が神の存在を証明できるか否かで対立する姿を描いた映画です。大学に入学したジョシュは、ラディソン教授が教鞭をとる哲学の授業を受講しますが、無神論者の教授は初日の授業で「God is dead.(神は死んだ)」という、神の存在を否定する宣言書を提出するよう生徒に強要します。単位を落としたくない生徒たちは言われた通りに提出しますが、ジョシュはそれを拒否します。そんなジョシュに、教授は「神の存在を全生徒の前で証明してみせろ」と迫り、ジョシュはそれに応じるという映画です。
クリスチャンである私たちは、「神は死んだ」とは思っていないはずです。けれども果たして私たちは、本当に「神が生きている」と信じている生き方をしているでしょうか。心のどこかに虚しさを抱え、未来に希望が持てず、自分が生きていることに意味を感じられないなら、私たちは実は「神は死んだ」と思っているのです。今日のテーマは「イエスが生きている」と主張したパウロのお話です。
さて、新しい総督フェストゥスは仕事の早い男で、着任三日後には、エルサレムへ表敬訪問に行き、統治が難しいとされるユダヤ人の政治的、宗教的指導者たちに挨拶をしました。そして、エルサレムに10日ほど滞在し、カエサリアに帰ってくると、さっそく翌日にはパウロの裁判を開きます。ユダヤ人指導者たちもそのために、カエサリアまで下ってきました。原告である彼らは、2年前と同じようにパウロを訴えるのですが、やはり証拠と呼べるものは今も何一つなく、総督フェストゥスは、困ってしまいます。おそらくフェストゥスは、前総督のフェリクスがこの問題を二年も放置した理由がなんとなくわかったのではないでしょうか。ユダヤ人の訴えを聞く限り、パウロはローマ法に抵触するような罪は全く犯していない。できればパウロを無罪にして釈放し、この裁判を終わらせたいのですが、ユダヤ人の手前それもできない。フェストゥスは、この件はどうしたらいいものかと頭を抱えます。すると、パウロが思いもしなかった発言をします。パウロはローマ市民なので納得できない裁判には不服申し立てをし、ローマの最高司法機関であるローマ皇帝カエサルに上訴する権利を有しています。そしてパウロは、「私はカエサルに上訴します!」と言うのでした。
フェストゥスは、パウロのこの申し出を内心喜んだのではないでしょうか。何の罪も認められないパウロを本当は無罪放免できればいいのですが、それはユダヤ人の手前できない。しかもパウロはローマ市民なので、正当な理由もないのにいつまでも拘束しておくのもよくない。そんなジレンマの中、パウロが「カエサルに上訴します!」と言ってくれたのです。そうか、その手があったか!と、思わぬところからの助け舟に、フェストゥスは喜んだと思うのです。それなら自分のするべきことは、ローマ市民であるパウロの安全を確保し、無事にローマに行きの船に乗せてしまうこと。それさえ終われば自分の責任は果たしたことになる!これは妙案だと思いました。
けれども、ここでもう一つ大きな問題があります。それは、上訴するためには告訴理由が必要です。まさか、なんの訴えるべき罪状もないまま、ローマ皇帝カエサルのところに送るわけにはいきません。それこそ、フェストゥスの信頼に関わります。そんなところに表れたのが、今日登場するアグリッパ王でした。彼はヘロデ・アグリッパ一世の息子、ヘロデ・アグリッパ二世で、現ユダヤ人の王です。彼なら、ユダヤ人の信仰についての知識が豊富なので、きっと何かよいアドバイスがもらえるだろう、そう思ったのです。
さてここで、アグリッパ王と彼に同行してきたベルニケ(女性)について補足説明します。このベルニケも実はユダヤ人で、アグリッパ一世の娘、先回出てきたフェリクスの妻ドルシラの姉です。つまり、ここに出てくるアグリッパ二世とベルニケは夫婦ではなく、兄と妹なのです。なんだか怪しい匂いがしませんか。ベルニケは、はじめ父アグリッパ一世の兄弟、つまり彼女の叔父にあたるカルキスの王と結婚したのですが、間もなく死別し、21歳の時に、兄アグリッパ二世のもとにやってきたのです。ところが兄との関係が噂になり、側近の者たちの忠告も受け、やむなく、キリキアの王ポレモンと再婚しますが、うまくいかず、離婚してまたもや兄のもとに舞い戻ってきて今に至るという、実に複雑な関係なのです。
この二人が、新しい総督フェストゥスに表敬訪問に来て何日かカエサルに滞在したのです。フェストゥスはこれはチャンスと捉え、早速パウロの件を話題に出します。それが15節から21節に書いてあることです。正直、パウロが訴えられている内容については、もう何回となく見てきましたので、新しい事は特にありません。ただフェストゥスはここで、パウロの件について個人的な見解を述べているのでそれを見てみましょう。二つの見解を述べています。
一つは19節で、「彼について私が予測していたような犯罪についての告白理由は、何一つ申し立てませんでした」ということ。もう一つは19節で、この裁判の争点は、「彼らの宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張している」のだということです。
一つ目のフェストゥスの見解については、もう何度も扱っているので、今日は触れません。アグリッパ王もこの後のパウロの弁明を一通り聞いた後で、「あの人は、もしカエサルに上訴していなかったら、釈放してもらえたであろうに」と言っています。パウロは明らかに無罪です。ですから、今日は特に二つ目のフェストゥスの見解を見てみたいと思います。
「彼らの宗教に関すること」の「宗教」は、言語のギリシア語では、「迷信」という意味もあるようです。「死んでしまったものが、生き返り、今も生きている」確かに、現代人にとっては、迷信じみたことかもしれません。当時も同じです。当時の人々は現代人と違って、単純で迷信じみた事を信じやすかったという人がいますが、とんでもありません。当時の人にとっても「死んでしまったものが生き返り、今も生きている」というのは信じ難い事だったのです。しかし、これは歴史的事実でした。Ⅰコリント15章3~6節「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。」そうです。イエス・キリストは歴史的事実として甦られました。けれども、パウロが主張したかったことはそれだけではありません。イエス・キリストのよみがえりは、歴史的事実であった以上に、イエス・キリストを信じた者に起こったことでもありました。パウロは、ダマスコ途上で確かによみがえったイエスさまにお会いしたのです。そして彼の人生は180度変わりました。クリスチャンの迫害者から、誰よりも熱心にイエス・キリストを宣べ伝える伝道者に変わったのです。イエス・キリストは、信じる者の心の中に御霊によって生まれ、生きて働き、私たちを変えることがおできになります。イエス・キリストは、信じる者の内で、リアルに働かれるお方なのです!
私はクリスチャンホームで育ちましたので、天地万物を創造された神さまがおられること、そしてイエス・キリストが歴史上に存在しておられたこと、十字架にかかって死んでよみがえられたことを歴史的事実として、ずっと信じており、疑ったことがありません。けれどもこれを「信じている」と言えるのか、それが私の中学生の時の悩みでした。そして、中学生の夏に参加した松原湖バイブルキャンプで、講師の下川友也先生に相談したことがあります。その時先生は、「いつまでもそこにとどまっていないで、クリスチャンとして歩みだしなさい。」と言われました。そして洗礼を受け、信仰生活を歩み出したときに、よみがえったイエスさまが、リアルに私に働きかけてくださったのです。
今日の応答の賛美として教会福音讃美歌314番を選びました。この曲の作者は、ウィリアム・ゲイザーというアメリカ人の作曲家です。1960年代後半、ベトナム戦争の暗い影がアメリカ全体を覆う中、彼自身も、当時のこのような社会に失望して、作曲への情熱を失っていました。そんな中、ゲイザー夫妻に赤ちゃんが生まれます。彼らは、幼い我が子を抱いたときに、「主が生きておられる」と歌う勇気が与えられました。妻のグロリアも、この子の将来はどうなってしまうのだろうかという不安の中、「それでも主はよみがえられて、今も生きておられる。ここに希望がある!」との確信が与えられ、力が湧いてきたというのです。また彼らは、事務所の裏手の駐車場のアスファルトの隙間から芽を出した一本の雑草に目を留めます。そしてそこに主の勝利を見て、この歌詞とメロディーを創り出しました。この賛美のもともとの英語のタイトルは「彼は生きているから(Because He lives)」です。そしてこの歌の折り返し部分は、直訳すると、こうなります。「彼(主イエス)が生きているから、私は明日に向き合うことができる。彼が生きているから、すべての恐れは消え去る。彼が未来を握っていることを知っているので、人生は生きる価値がある。それはただ彼が生きているから。」
フェストゥスは、「そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです」と言いました。「神は死んだ」と虚無が覆うこの世界で、私たちは「イエスが生きておられる」と告白することができます。「イエスはよみがえった。そして今も生きておられ、私の内に住んおられる。そして私に罪のゆるしと、生きる希望と力を与えてくださっている。そしてこの生ける主は、私の地上での生涯が終わるときに、勝利のうちに私を御国に連れて行ってくださる」そう告白できるのです。「イエス・キリストはよみがえられました。そして今も生きています。」私たちは、心からそう告白しつつ、主にある希望を語っていきましょう。
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