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6月, 2021の投稿を表示しています

アンティオキア教会への手紙(使徒の働き15:22~29)

  「アンティオキア教会への手紙」 使徒の働き15:22~33 エルサレム会議は、聖霊の導きの中で無事終わりました。決議事項としては、「異邦人には割礼や律法の負担を負わせない。ただし4つのこと、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避ける」ということでした。わざわざアンティオキア教会まで行って、「割礼を受けなければ救われない」とふれ回った人々は、この決議を前に恥じ入ったことでしょう。  今日のテキストでは、この決議事項をアンティオキア教会に伝える場面が描かれています。今みたいに、メールで議事録を添付して送るわけにはいきませんから、手紙を書きました。そして配達人も厳選したようです。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダ、そしてシラスの二人でした。大事な内容ですし、補足説明や質疑応答もあるでしょうから、信頼できる人でなくてはなりません。22節では「全教会とともに」とありますし、 25 節でもこの二人を送ることを「全会一致で決めました」とあります。とても慎重に人選をしたことが分かります。こうして選ばれた二人はどんな人だったのでしょうか。  この二人は共に預言者だったと32節に書かれています。「預言者」とは文字通り、神のみことばを預かって解き明かす人です。聖書から、また時には直接神のことばを聞き、それを教会の人々に解き明かしていました。信仰も成熟しており、神さまとの深い親密な関係を持っており、教会では指導的立場にあった人たちです。 25 、 26 節では、「主イエス・キリストのためにいのちをささげている、バルナバとパウロと一緒に」彼らを送るのだとありますから、この二人は、バルナバやパウロと比べても引けを取らない忠実な主のしもべだったことわかります。  さて、この選ばれた二人のうち「ユダ」ですが、彼は「バルサバと呼ばれる」と言われています。聖書に精通している人は、「あれ聞いたことあるぞ」と思ったかもしれません。そうです。イエスさまが昇天し、御霊が下り、教会が誕生したあと、12使徒を補充する必要が出ました。その時の候補にあがっていたのが、「バルサバと呼ばれ、別名ユストというヨセフ」(2:23)でした。このヨセフはユダの兄弟ではないかというのが一般的な見方です。結局くじによって選ばれたのはもう一人の候補者マッティアでしたが、それでも使徒の候補

エルサレム会議②(使徒の働き15:12~21)

  「エルサレム会議 ② 」 使徒の働き15:12~21  世界初の教会会議がエルサレムで行われました。事の発端は、エルサレム教会からアンティオキア教会に下って来たユダヤ人クリスチャンが、「割礼を受けなければ救われない」と主張したことにあります。多くの異邦人クリスチャンたちは、割礼を受けていませんでしたから、「自分たちは救われていないのか!?」と不安になりました。これを聞いたパウロとバルナバは、これは早急に解決しなければならない問題だということで、他の教会の代表者も連れてエルサレム教会へ向かいます。こうして第一回エルサレム会議が行われたのでした。いわゆる割礼派の人々は、何とか異邦人たちにも割礼を受けさせ、律法を守るよう命じるようにと主張するのですが、バルナバやパウロは断固として「信じるだけで救われる」という線を譲りません。ついにペテロが立ち上がり、自分の意見を述べます。神は確かに異邦人にも聖霊を与えられた。自分はそれを見た。聖霊が与えられたということは、救われたということ。これで神が差別しないお方だということが証明された。それに、そもそも割礼や律法というのは、あなたがたユダヤ人が負いきれなかったくびきではないか。どうしてそれを彼らに負わせようとするのか、と指摘します。そして最後に「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです!」と一撃を加えると、割礼派の人々はもう何も言い返せなくなり、場内はシーンと静まり返りました。するとその隙にということでしょうか、バルナバとパウロが、先の伝道旅行で神が自分たちを通して異邦人の間で行われたしるしと不思議について話し、人々はそれに耳を傾けました。     こうして二人が話し終えると、ヤコブが手を挙げて発言を求めました。議長が誰だったのは分かりませんが、「はい、ヤコブくん」と指名して、彼は、「兄弟たち、私の言うことを聞いてください。」と話し始めたのです。   ところでこのヤコブとは、どのヤコブなのでしょう。以前12章でペテロが迫害にあって牢に入れられた時、御使いが彼を牢から救い出して難を逃れたことがありました。その時ペテロは、エルサレムを一時立ち去るのですが、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください」と言づけます。それがこのヤコブです。エルサレム教会のリーダーです。また彼は

キリストのからだ(Ⅰコリント12:20~27)

  「キリストのからだ」(第一コリント 12:20-27 )   お祈りします。 「光、あれ」との御言葉をもって私たちを照らしてくださる父なる神さま、神の言葉に耳を傾けるこの時、どうか聖霊によって私たちの心を照らし、この礼拝のうちに、生ける御言葉なるキリストと出会うことができますように。救い主、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン!   1.     多様だけれど 1 つ 20 節:しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。     今、私は、「教会の交わりは何と多様なのだろう」と思っています。私たちのような小さな教会でも、礼拝に集う皆さんの背景を思うと、いろんな方々がおられることに気づきます。   パウロがこの手紙を書き送ったコリントの教会は、さらに多様でした。いろんな人々がいたのです。貧しい人々、豊かな人々 … わずかな数の身分の高い人たちもいれば、そうではない多くの人々もいた。また教会の中で大活躍の「賜物豊かな人々」もいれば、一見、そうは見えない人たちもいました。人々が多様ですと、当然、教会が一致するのにもそれなりのエネルギーが必要になります。ですからパウロは、教会を何とか一致させたいと、 13 節でも 1 つ、 1 つ、 1 つ、と繰り返し、お読みした 20 節でも「からだは一つ」、 26 、 27 節でも 1 つ、 1 つ、と訴えかける。   この教会は一つになることに困難を抱えていたのです。教会が一つになるのは、本来、簡単なことではないのですが、この教会はいよいよ難しかった。でも、パウロがこうやって繰り返し語るということは、たとえ難しくとも、教会を一つに結んでいく務めは、汗を流すに値することなのだと言うことを物語っています。   パウロは、教会を「からだ」にたとえました。こういう発想は、お医者さんで友人のルカとの交わりの中で生まれたのかもしれません。 この、教会という「からだ」を一つに結んだのは誰でしょう。それは人ではなくて「神」ご自身です。神が人々を集めて、教会という「からだ」にした。ここにこの世のサークルやクラブとの決定的な違いがあります。教会は気の合う仲間や、趣味を同じくする友だちの集まりではないのです。教会に誰を集めるか、私たちは選り好みできません。神が集めてくださったの

エルサレム会議① (使徒の働き15:1~11)

  「エルサレム会議①」 使徒の働き15:1~11 さて、パウロとバルナバは第一次伝道旅行を終えて、アンティオキア教会に帰って来ました。そして旅の疲れを癒しつつ、伝道旅行で神さまが行ってくださった救いのみわざ、特に多くの異邦人が救われたことについて報告しました。ところが、パウロたちが旅行に行っている間に入り込んでいたのか、パウロたちが帰って来てから入り込んだのかわかりませんが、パリサイ派から改宗したクリスチャンたちがユダヤからやって来て、「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていたというのです。アンティオキア教会は、離散のユダヤ人、つまり外国育ちのユダヤ人たちの伝道によって形成された教会でした。教会の中には多くの異邦人がおり、彼らには割礼を受けるように強要してきませんでした。彼らにとって「割礼」は、「救い」の条件ではなかったのです。これは由々しき問題だということで、パウロとバルナバと教会の代表者何人かが、いわゆる総本山のエルサレム教会に向かいました。こうして世界ではじめの教会会議が行われたのです。この後も、教会は間違った教えや異端が出て来ると、そのたびに軌道修正のために教会会議をするようになります。私たちは会議と言うと、何か事務的な、血の通わない、冷たいイメージがあるかもしれませんが、教会の会議は、世の中一般の会議とは違います。世の中の会議は、人々が知恵を出し合って意見を出し合い、それらの意見を調整する場です。しかし教会の会議は、祈りつつ、聖霊の導きの中で、神のみこころを求めていく場なのです。今日も礼拝後に役員会がもたれます。私たちは必ず祈って始め、御霊の導きの中で、神のみこころがなるように求め、様々なことを話し合い、決議するのです。   パウロとバルナバはエルサレムに向かう道々も、伝道しながら旅をしました。また第一次伝道旅行で、多くの異邦人が救われたことなどを報告しました。すると行くところどこででも、異邦人が救われたというその報告は朗報として迎えられ、人々に大きな喜びをもたらしたのです。パウロたちは、神が異邦人たちに救いをどんどん拡大しようとしておられることを確信して、エルサレムに向かうのでした。 エルサレム教会で、二人は歓迎されました。彼らは例のごとく、伝道旅行で神さまが自分たちを通してなさったすばらしいみわざや、