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キリストのからだ(Ⅰコリント12:20~27)

 

「キリストのからだ」(第一コリント12:20-27

 

お祈りします。

「光、あれ」との御言葉をもって私たちを照らしてくださる父なる神さま、神の言葉に耳を傾けるこの時、どうか聖霊によって私たちの心を照らし、この礼拝のうちに、生ける御言葉なるキリストと出会うことができますように。救い主、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン!

 

1.    多様だけれど1

20節:しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。

 

  今、私は、「教会の交わりは何と多様なのだろう」と思っています。私たちのような小さな教会でも、礼拝に集う皆さんの背景を思うと、いろんな方々がおられることに気づきます。

  パウロがこの手紙を書き送ったコリントの教会は、さらに多様でした。いろんな人々がいたのです。貧しい人々、豊かな人々 … わずかな数の身分の高い人たちもいれば、そうではない多くの人々もいた。また教会の中で大活躍の「賜物豊かな人々」もいれば、一見、そうは見えない人たちもいました。人々が多様ですと、当然、教会が一致するのにもそれなりのエネルギーが必要になります。ですからパウロは、教会を何とか一致させたいと、13節でも1つ、1つ、1つ、と繰り返し、お読みした20節でも「からだは一つ」、2627節でも1つ、1つ、と訴えかける。

  この教会は一つになることに困難を抱えていたのです。教会が一つになるのは、本来、簡単なことではないのですが、この教会はいよいよ難しかった。でも、パウロがこうやって繰り返し語るということは、たとえ難しくとも、教会を一つに結んでいく務めは、汗を流すに値することなのだと言うことを物語っています。

  パウロは、教会を「からだ」にたとえました。こういう発想は、お医者さんで友人のルカとの交わりの中で生まれたのかもしれません。

この、教会という「からだ」を一つに結んだのは誰でしょう。それは人ではなくて「神」ご自身です。神が人々を集めて、教会という「からだ」にした。ここにこの世のサークルやクラブとの決定的な違いがあります。教会は気の合う仲間や、趣味を同じくする友だちの集まりではないのです。教会に誰を集めるか、私たちは選り好みできません。神が集めてくださったのです。皆が一つ御霊によるバプテスマ、洗礼を受けて教会に繋がっているのです。

 

  24節は、神が「からだを組み合わせられました」と語りますが、組み合わせるというこの言葉、「多様なものをミックスして、合わせる」というような意味を持っています。イメージとしては、絵描きがパレットの上で、多彩な絵の具を混ぜ合わせ、色を豊かにしていく感じです。

  教会のメンバーをこのようにお集めになったのは、神である。しかし、たとえ「神」がルーツでも、教会が実際に一致するのは、なかなかに難しいことです。それは人というものは、集まるとすぐに他の人と自分を比較してしまうからです。パウロは、からだの部分、目や手、頭、足等のたとえを使いますが、これらは教会のメンバーそれぞれに与えられた異なる賜物、才能の違いを描き出そうとするものです。教会の兄弟姉妹それぞれに与えられた賜物が違う、ということは皆さんもお気づきだと思います。本来は、多様な賜物で互いに支え合い、補い合うために違っているのですけれど、悲しいかな、人はすぐに比較してしまう。だって、主イエスの十二弟子たちでさえ、最後の晩餐の席で、誰が偉いかと比べ始めてしまうのです。持ってる賜物が違うと、人はすぐに比べる。

  この賜物は、神から与えられるものなので、本来はどれも素晴らしいのですが、人の現実を思えば、やっかいでもあります。私たちが、それぞれの異なる賜物を謙遜に神からのものと受け止めて、誰かを助け、また誰かに安心して助けられる、そういう謙遜さを持っていればいいのですけれど、なかなかそうはいかない。むしろ人は多くの場合、他人と比べて高ぶるか、或いは反対に「私なんて」と卑屈になることが多いのです。

  このコリント教会で起きていたのは、まさにそういう問題でした。しかも、問題の程度が大きかった。実はこの教会は、大変難しい教会です。教会の中で激しい、度を越した賜物比べが起こっている。牧会者パウロは、いつも心を痛めていました。だから何とか教会を一つにしたいと、たとえをもって語り掛けていくのです。

 

2.弱い部分とは

21-24節: 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。

 

  一読して分かるのは、ここに語られていることが、この世の考え方とは大きく違っている、ということだと思います。パウロが「からだ」のたとえに込めたメッセージは、確かにこの世一般の価値観とは、かなり違うものです。

  この「からだ」のたとえを十分理解するために、この「弱く見える部分」とは一体何かを考えたいと思います。この「弱く見える部分」とは何でしょう。からだのどこを指しているのでしょう。

 

  当時の文化や習慣に照らして、一般に言われるのは、ここでイメージされているのは内臓、つまり心臓とか、肺、胃や腎臓、肝臓などであろう、ということです。内臓は目に見えませんから、地味で、普段は何をしているのか分からない。心臓は鼓動がありますから、意識すれば動きを感じますが、肝臓や腎臓が何をしているか、いつも感じているという人はいないと思います。でも、地味だから重要でないかと言えば、とんでもない。からだの目立つ部分、手とか足とか目や耳がなくても、不便ですが、人は生きていけるのです。でも、内臓なしには生きられません。手足、目や耳と言った目立つ部分は、実は見えない部分に支えられて働いている。でも、内臓のような見えない部分に支えられていることを、人はすぐに忘れてしまう。

 

  私も約30年、教会の働きに関わってきましたが、痛感しているのは、教会における目に見えない部分の大切さです。教会に、大胆に語ることのできる雄弁な「舌」があれば、素晴らしいことですが、それ以上に肝心なのは、集まる人々の「心」です。また、教会にテキパキ仕事をこなす、働く「手」があれば、それはまことに感謝なこと。でも、それ以上に尊いのは、見えない所で教会を支える、兄弟姉妹の「祈り」だと思います。私の出身の教会は横浜にありますが、年配の方々の祈りに支えられていたことを思い出します。若い時は皆さん、いろんな奉仕を担ったのですが、年齢とともに、見えない祈りの奉仕に力を注ぐようになりました。そんな祈りに支えられ、教会は約七十年、今も立ち続けています。でも、隠れた見えない奉仕ですので、私たちはともすると忘れてしまう。

 

  「からだ」が生きていくために「内臓」は不可欠です。でも、同時に内臓は弱さをもっています。骨と筋肉にしっかり守られ、支えられないと、内臓は働くことができません。こうやって見える部分も見えない部分も支え合いながら、からだは生きていく。不思議なことです。神がそのように人を造ったのです。そして、このからだの不思議は、そのまま教会に当てはめることができるのです。

  教会もまた、神が組み合わされました。目立つ部分と目立たぬ部分が支え合い、祈り合い、「からだ」として不思議に、美しく成長していくためです。パウロは、この「からだ」のたとえをもって、コリントの兄弟姉妹に語ります。皆さんの中に誰一人、必要でない人はいないのだ、と。そして私は今朝、皆さんに語りたいのです。皆さんの中に、必要でない人は一人もいない。姉妹方も兄弟方も、若い人もベテランも、教会員も客員も、会堂の人もオンラインの人も、文化や背景も超えて、一つ御霊に結ばれて礼拝をしている。それが私たちの教会です。

  この不思議な交わりを、パウロは「キリストのからだ」と呼びました。組み合わせたのは世界を造られた神、そして結び目は聖霊です。そのように私たちが共に生きていく時に、この教会の存在が、からだとなって、キリストを証しし始めるのです。

 

3.ともに苦しみ、ともに喜ぶ

  25-26節:それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

 

  他の人の苦しみを皆がともに苦しみ、他の人の喜びをみながともに喜ぶ。26節を読んで皆さんは何を思われたでしょう。私は思いました。こんなことができる人の集まりが、本当にこの世の中にあるんだろうか、と。たとえ一緒に仕事をしていても、人の苦しみ、喜びは「うわべ」はどうあれ、心の中では他人事として受け流す。それが世間一般だろうと思います。でも、共に苦しみ、共に喜ぶ、これを自然に行っている集まりがあるでしょう。それは「家族」です。多くの場合、親は子どもの苦しみや喜びを、自分のことのように共感していくでしょう。家族は、こういう生き方が自然にできる。そして、神が与えてくださった、もう一つの家族も、それがきっと出来ると私は信じます。それは「キリストのからだ」という、神の家族です。

  私たちは、一つの「からだ」になるために共に生きています。だから共に苦しみ、共に喜ぶ。それが「からだ」です。皆さんも経験あるでしょう。家の中で、足の小指を何かの角や突起物にぶつけると、足の小指はあんなに小さいのに、私たちは全身で「痛い、痛い」と大騒ぎする。これが「からだ」です。美味しいものを口にすればどうでしょう。味わっている舌だけが「美味しい」と感じるのではなく、全身で幸せを感じる。それが「からだ」です。

 

  私たちがそうやって仕え合い、支え合う時に、私たちは誰が、この教会の弱い部分で、だれが強い部分なんだろうと考える必要はありません。あの人は強いけれど、あの人は弱いとか、考える必要はない。手足や内臓の関係がそうだったように、実は皆が、誰かの支えを必要としているのです。そして、さらに言えば、実は皆が「弱い」人間だからです。

  パウロが、同じこのコリント教会に書いた第二の手紙の十二章で言っています。パウロが体に弱さを抱えていた時、主がパウロに語った言葉です。「わたしの恵みは十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と。人は皆弱く、しかし、その弱さの中でキリストの恵みに出会い、パウロは、その恵みを分かち合いながら、教会を一つにしようと汗を流している。

  昨年のクリスマスに千恵子牧師が語った紙芝居、ゴロー君のホットケーキ、覚えていますか。強い兄貴のゴロー君が、弱くなった時、兄弟姉妹は優しくなって、一つになっていくのでしょう。そしてそのように、イエスさまも弱くなって弟子たちの足を洗い、十字架にかかり、豊かな恵みを分かち合ってくださいました。まさに主が「仕えられるためではなく、仕えるために」来たと言われた通りです。

  「弱さ」は、恵みが現れる場所なのです。教会には、いつも誰かしら病を背負っている方がおられます。すると教会には、祈りが生まれてくる。そんな、弱さを覚えて祈り合う交わりなので、誰かに嬉しいことがあると一緒に喜べる。花田兄の手術が上手くいった。私たちは共に喜びました。星君が刑務官の試験に合格した。私たちは喜びました。虎之介君の大学神学の折りには、皆が共に心配し、そして合格した時には、大いに喜んだのです。

  教会に、苦しみを背負う誰かがいる時に、教会には優しい祈りの風が吹いていく。そして、私たちもまた、自分が弱い時には、誰かの祈りによって支えられていくのです。この「からだ」としての不思議なハーモニーは、この世には見当たらないものです。こうした私たちの生き方の中に、人々はキリストを見つけます。そうです。私たちは確かに、「キリストのからだ」なのです。お祈りします。

 

父なる神様、私たちを「からだ」としてくださり感謝します。共に苦しみ、共に喜ぶ中で、私たちをいよいよ、キリストに似た者へと成長させてください。教会のかしら、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン!



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