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6月, 2022の投稿を表示しています

みこころが行われますように(マタイ6:9-10)

「みこころが行われますように」(マタイ 6:9 ~ 10 ) 齋藤 五十三 師   1.      神の国とみこころ  9節(読む)  私たちは主の祈りを通し、神の子どもの祈りを学んでいます。「主の祈り」は、私たちの目標の祈り。神と人を愛するための祈りです。今日は、第三の願いに、目を留めていきます。    第一の願いは「御名が聖なるものとされますように」でした。神の名が賛美され、礼拝され、尊ばれるように。 神を中心にした生き方を願う。それが第一の願いです。  第二、第三は 10 節です。(読む)    最初に、今お読みした二つの願いが、切り離せない関係にあることを覚えたいと思います。御国が来るようにと求めることは、神のみこころがなることと、切っても切り離せないのです。  御国、すなわち神の国とは何でしたか。 それは、神が中心におられ、治めているところ。 この神の国は、御言葉と聖霊によって導かれていきます。 私たちが御言葉と聖霊に従うならば、神の国は、私たちの心の中にも訪れ、愛、喜び、平安をもたらしていくのです。  そう考えると、神の国と、神のみこころの間にある密接さがよく分かるでしょう。神の国は、御言葉と聖霊によって導かれます。そうであるなら、そこでは当然、神のみこころが成っていく。 御言葉を生きる私たち、神の子どももまた、神のみこころが成るのを、そこで経験していくのです。ああ、神は生きて働いておられると、そんな確かな経験が残るのです。  神の国がそうだったように、みこころもまた、オートマチックに実現するわけではありません。私たちはこれを祈るわけですから、具体的にみこころにコミットし、関わっていくことになるのです。それが、この第三の願いです。私たちが「神のみこころ」の実現に関わっていくのです。 2.      自分の思い・願い  主の祈りは、神の子どもの祈り。ですから、「みこころが行われますように」と祈るのは、当然のことだろうと思います。 神の子どもなのですから。 しかし、どうでしょう。 正直、胸に手を置けば、これを素直に祈れないと、ある種の躊躇を覚えることがあります。 そう、「みこころ」と祈る時に、妨げる力がある。 それは、どうしても手放せない、自分の願いや思いがあることに気付くからです。   「ここも神の御国な

神と恵みのみことばにゆだね(使徒の働き20:28〜32)

「神と恵みのみことばにゆだね」 使徒の働き20:28~32 使徒の働き20章18節からは、パウロのエペソ教会への告別説教でした。パウロは、まずはエペソ伝道の振り返りをしました。彼はエペソで、時がよくても悪くても、いつでもどこでもイエスさまの救い、福音を宣べ伝えてきました。そしてそれが自分に与えられたレースなのだから、命がけでこのレースを走り尽くすと語ったのです。そして、今日の箇所では、長老、つまり教会のリーダーの役割とパウロが去った後で、教会が受けことになる試みについて語っています。   教会が受ける一つ目の試みは、29節にあります。「狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回る」 パウロは、自分がいる間は、この凶暴な狼から守ってあげられるけれど、いなくなったら自分たちで対処しなければいけないよと忠告しています。「凶暴な狼」とは何でしょうか。「偽預言者」とか「偽教師」とか呼ばれる人々のことです。彼らは間違った教えを教会の中に持ち込んで来ます。間違った教えと言うのは、24節にあるような「神の恵みの福音」から引き離す教えです。「神の恵みの福音」とは何でしょうか。それは、人間の行いにはよらず、イエスさまを信じるだけで救われるということです。「恵み」はプレゼントです。何の代価もいらない、ただありがとうございますと受け取るだけのものです。けれども、人は「恵み」ということに慣れていません。高価なものをタダでくれるなんで、胡散臭く感じてしまうのです。そして偽教師が入って来て、「そんなタダなんてありえない。あれもしなければ。これもしなければ」と言うと、その方がもっともらしく感じてしまうのです。また、狼が狼らしく群れに入って来れば、羊たちは慌てて逃げるのですが、彼らは羊の皮をかぶって群れに紛れ込んできます。悪魔が天使の様相で入って来るのです。 先日、夜の祈祷会に参加したいという方から電話を受けました。キリスト教に関心があるから、祈祷会に参加させてくれないかということでした。けれども今、私たちの夜の祈祷会は、Zoomで行っており、参加者は実習生と五十三先生、そして朝岡先生ですし、しかも「ネヘミヤ記」を学んでいて、初心者には難しいし。また、祈祷会では教会の皆さんの名前をあげてお祈りしているので、個人情報が満載です。外部の人が入るのはあまりよくないと思われたの

走るべき道のりを走り尽くし(使徒の働き20:13〜27)

「走るべき道のりを走り尽くし」 使徒の働き20:13~27 5月29日の説教は、20章1~12節でした。パウロとの別れを惜しんで、夜中まで語り合ったトロアスの兄弟姉妹たちでしたが、途中若者ユテコが、居眠りをして、窓から下に落ちてしまいました。ところが、パウロがユテコの上に身をかがめ。「心配することはない。まだいのちがあります」と皆を励まし、実際ユテコは息を吹き返したというお話でした。 こうしてパウロも集まった兄弟姉妹も、その晩は一睡もしないで翌朝を迎え、人々はそれぞれの仕事に。パウロたち一行は、エルサレムに向かったのでした。当時は大型船でエルサレムまで直行!というわけにはいかず、彼らの小さな船は、岸に沿うようにして、あちこちに寄港しながら、ゆっくりとエルサレムに向かうのでした。 ところが、トロアスでパウロは船に乗っていません。13節を見ると、船に乗り込んだのは、ルカと数人の同行者たちです。パウロ自身は陸路でアソスに向かい、そこで彼らと落ち合ったというのです。パウロがなぜ一人、陸路で30キロもの道のりを歩いたのか。何も書いてないのでわかりませんが、イエスさまもよく一人になって祈る時間を持っていたことを考えると、パウロも一人で歩きながら、祈りながら、主との交わりを楽しみ、充電し、これからのことを主と相談したのではないかと思うのです。こうしてアソスに到着。他の仲間と落合い、今度はいっしょに船に乗り込み、ミティレネに行き、翌日そこから船でキオスの沖に達し、その次の日にサモスに立ち寄り、さらにその翌日にミレトスに着きました。 ミレトスは、パウロが3年近く滞在して、福音を宣べ伝え、心血注いで育てたエペソ教会(ひとつとは限なない)のすぐ近くでした。近くとは言っても50~65㎞の距離があったようです。本当は、パウロ自身がもう一度エペソに寄って、彼らを励ましたかったのですが、16節を見ると、「できれば五旬節の日にはエルサレムに着いていたいと急いでいた」とありますから、エペソに寄るのはやめにしました。そしてその代わりに、エペソの長老たちにミレトスまでご足労願ったのです。今のように LINE で「すぐにミレトスに来て」なんて呼べませんので、使いの者を送るのに1日。彼らがミレトスに来るのに1日。こうしてエペソ教会の長老たちがミレトスに到着したのは3日目になっただろうと思われます

思い起こさせてくださる聖霊(ヨハネの福音書14:25〜26)

同盟新船橋キリスト教会聖霊降臨節主日礼拝説教 2022/06/08 朝岡 勝 師  『思い起こさせてくださる聖霊』  ヨハネ福音書 14:25-26   6 月第一の主日を迎えました。今日は「聖霊降臨節」の主日です。クリスマス、イー スターとともに教会にとって大切な記念の日であり、喜びの日です。その大切な礼拝 でこうして愛する新船橋キリスト教会の皆さんとともに主を礼拝できます恵みを心か ら感謝します。今日、ここに主によって招かれて集われたお一人一人に、主の豊かな 祝福がありますように。  ①聖霊降臨の恵み 「聖霊降臨節」、ペンテコステとは、新約聖書の使徒の働き 2 章にありますように、 十字架に掛かって死なれ、三日目によみがえられ、天へと挙げられた主イエス・キリ ストが私たちのために助け主を送ると約束してくださった、その約束が実現して聖霊 が下り、教会が誕生した記念の日です。この聖霊の神が今日も私たちとともにあり、 主を礼拝する心を与え、教会を励まして福音を宣べ伝える業へと私たちを遣わしてく ださるのです。しかし聖霊の神はその業を秘やかな仕方で、背後に隠れるようにして 果たされるお方でもあります。実は私たちは父なる神、子なるキリストほどには聖霊 のことをよく知らないということがあり、それで時に聖霊のお働きについての誤解や 混乱が起こることがあるのですが、それはある意味致し方のないことで、聖霊の神ご 自身があまり自分を前面に出さない。むしろ背後に隠れて働かれるのです。だからこ そ私たちは聖書をよく読んで、そこに示された聖霊のあり様、また働き方というもの を理解しておきたいと思うのです。 今日開かれているヨハネの福音書 14 章には、主イエスご自身が教えてくださった 聖霊の神についての大事な情報が記されています。16 節から 18 節を読みます。「わた しが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつ までも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です」。 これは十字架の出来事を前にした主イエスが弟子たちに与えてくださったお約束の言 葉です。また続く 25 節、26 節でも聖霊の神についてこう教えてくださいました。「こ れらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。しかし、助け主、 すなわち、父がわたし