スキップしてメイン コンテンツに移動

思い起こさせてくださる聖霊(ヨハネの福音書14:25〜26)

同盟新船橋キリスト教会聖霊降臨節主日礼拝説教 2022/06/08
朝岡 勝 師

 『思い起こさせてくださる聖霊』
 ヨハネ福音書 14:25-26

  6 月第一の主日を迎えました。今日は「聖霊降臨節」の主日です。クリスマス、イー スターとともに教会にとって大切な記念の日であり、喜びの日です。その大切な礼拝 でこうして愛する新船橋キリスト教会の皆さんとともに主を礼拝できます恵みを心か ら感謝します。今日、ここに主によって招かれて集われたお一人一人に、主の豊かな 祝福がありますように。

 ①聖霊降臨の恵み 「聖霊降臨節」、ペンテコステとは、新約聖書の使徒の働き 2 章にありますように、 十字架に掛かって死なれ、三日目によみがえられ、天へと挙げられた主イエス・キリ ストが私たちのために助け主を送ると約束してくださった、その約束が実現して聖霊 が下り、教会が誕生した記念の日です。この聖霊の神が今日も私たちとともにあり、 主を礼拝する心を与え、教会を励まして福音を宣べ伝える業へと私たちを遣わしてく ださるのです。しかし聖霊の神はその業を秘やかな仕方で、背後に隠れるようにして 果たされるお方でもあります。実は私たちは父なる神、子なるキリストほどには聖霊 のことをよく知らないということがあり、それで時に聖霊のお働きについての誤解や 混乱が起こることがあるのですが、それはある意味致し方のないことで、聖霊の神ご 自身があまり自分を前面に出さない。むしろ背後に隠れて働かれるのです。だからこ そ私たちは聖書をよく読んで、そこに示された聖霊のあり様、また働き方というもの を理解しておきたいと思うのです。 今日開かれているヨハネの福音書 14 章には、主イエスご自身が教えてくださった 聖霊の神についての大事な情報が記されています。16 節から 18 節を読みます。「わた しが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつ までも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です」。 これは十字架の出来事を前にした主イエスが弟子たちに与えてくださったお約束の言 葉です。また続く 25 節、26 節でも聖霊の神についてこう教えてくださいました。「こ れらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。しかし、助け主、 すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのこ とを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」。 ここには聖霊の神がどのようなお方であるか。また聖霊の神がどのようなことをなさ るのかが端的に語られています。

 ②聖霊の神とはいかなるお方か 聖霊の神はいかなるお方か。四つの点を押さえておきましょう。第一は「助け主」 ということです。聖霊は私たちの助け主でいてくださる。助け主というのは新約聖書 の言葉で「パラクレートス」と言いますが、その意味は「傍らに呼ぶ」、「そばに呼ぶ」 という言葉から来ています。慰める、励ますとも訳される言葉です。聖霊はそのよう 2 に私たちをご自分のそばに呼んでくださる。そこに聖霊の神の深い慰めと助けがある のです。 それで第二に「いつまでもともにいる」ということです。私たちが本当に弱いとき、 励ましや慰めを必要とする時、そこでは何かアドバイスや教えがほしいわけではない。 無理矢理引っ張り上げられることでもない。ただじっと黙ってそばにいてくれる。そ ういうものでしょう。聖霊もそうやって私たちのそばに、傍らにいてくださる。しか も時間を気にしてとか、携帯をいじりながら、というのでない。「いつまでもともにい る」というのです。聖霊はいつも私たちとともにいてくださる。ここに真の慰め、助 けがあるのです。 第三は「真理の御霊」ということです。聖霊の神さまは私たちに真理を明らかにし てくださるお方です。そしてその真理を受け入れさせてくださるお方でもあるのです。 「真理」とは何か。これはまことに大問題ですが、ヨハネの福音書においては「真理」 が何を意味するかははっきりしています。主イエスは言われました。「わたしが道であ り、真理であり、いのちなのです」と。つまり聖霊は「真理」である主イエスを私た ちに証しして、私たちが真理である主イエスを信じ、受け入れることができるように してくださるのです。パウロが一コリント 12 章 3 節でこう言う通りです。「聖霊によ るのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」。 そして第四が「御父が御子の名によって遣わす聖霊」ということです。最初に聖霊 の神は秘やかに働かれると言いましたが、それは聖霊が御父が御子によって遣わした お方であるゆえです。聖霊は主役ではない。聖霊はあくまでも私たちに御父と御子を 示し、とりわけ私たちが御子イエス・キリストを信じることができるように、主イエ スを私たちに示し、証しし、信じ受け入れることができるようにと今日も働いていて くださるお方なのです。

  ③思い起こさせてくださる聖霊 このような真理の御霊、私たちとともにおられる助け主、そして御父と御子から遣 わされた聖霊の神さまはどのように働かれるのでしょうか。聖霊のお働きは実に豊か で自由で風のようなものだと聖書は語るのですが、その一つのことを今朝は確かめて よく心に刻んでおきたいと思います。もう一度 26 節をお読みします。「しかし、助け 主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべて のことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてください ます」。 ここには聖霊の神さまの主たるお働きが示されています。すなわち「あなたがたに すべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてく ださる」。そうです。聖霊の神は主イエス・キリストが私たちに話してくださったこと、 そのすべてのことを思い起こさせてくださるお方なのです。聖書を読んでも忘れてし まう。説教を聞いても半信半疑、祈っていても不安になり、主イエスの愛と恵みを教 えられても信じ切ることができない。そういう私たちの傍らにあり、ともにいてくだ さる真理の御霊、助け主なる聖霊は、何度でも何度でも、あきることなく見限ること なく、私たちに「イエスさまはあなたにこうおっしゃったよ」、「神さまはあなたにこ 3 う約束してくださったよ」、「だから大丈夫だよ」、「信頼したらいいんだよ」と語りか け、「ほら神さま、こう言われたではないか」、「イエスさまはこう教えてくださったで はないか」と御言葉を思い起こさせてくださるお方なのです。だから私たちは御言葉 に信頼することができるし、安心することができるし、確信することができる。キリ スト教信仰とは私のがんばりの世界でなく、神への信頼の世界です。私たちが神の御 前にどれほど罪深く、不真実で不忠実なものであるか。にもかかわらず神が御子イエ ス・キリストにあって私たちをどれほどに愛していてくださるか。そして私の罪を赦 すためにどれほどのことをしてくださったか。そうして罪赦された者を主イエスはど れほどにいつくしみ、尊んでくださるか。不信仰な私たちを何度も何度もはじめの愛 に立ち返らせ、その愛を確認してくださるために送ってくださったのが聖霊の神であ り、聖霊は私たちに「思い起こせ、神の愛を。思い起こせ、キリストの真実を」と語 りかけ続けていてくださるのです。

 ④あなたに言ったではないか 私たちはずいぶんと忘れやすいものです。診言葉を聞いているのにすぐ忘れる。あ るいは聞いているようで実は聞いていないということがある。今、TCU の「どこでも TCU エクステンション」という講座で「説教の聴き方」というクラスを担当している のですが、そこでも皆さんから身につまされるような感想を聞きます。4 月のイース ター礼拝で千恵子先生がルカ 24 章のエマオの途上を旅する二人の弟子に伴われた復 活の主イエスのお姿から説教を語ってくださいました。そのときにすっかり意気消沈 している弟子たちに主イエスが「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言 ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、そ れから、その栄光に入るはずだったのであはりませんか」との御言葉から、聞いてい たのに忘れてしまう弟子のことを語られて、ああ、これは自分自身の姿だなあと深く 教えられたことでした。 

  私は 2000 年の秋に徳丸町キリスト教会に赴任し、2022 年 3 月まで約 22 年間、牧 師としてお仕えしてきました。その間の約 18 年ほどかかったのが会堂建築事業でし た。2021 年 7 月に竣工し、11 月に献堂式をすることができ、ようやくこのプロジェ クトが完了したところでこちらにやって来たわけです。東京で新しい土地を得て、会 堂を建てるというのは本当に大変なことでした。教会の皆さんも本当によく祈り、さ さげて、このことを成し遂げられたと思います。その間のことを思い起こすといろい ろなことがあったのですが、とにかく何をするにも一筋縄でいかない。ちょっと進ん だと思うとブレーキが掛かる。次から次から難問が生まれてくる。何度「もう無理だ」、 「会堂は建たないのではないか」と思ったかしれません。しかしそのたびごとに主が 語ってくださった御言葉があります。ヨハネ 11 章 40 節。「信じるなら、神の栄光を見 る、とあなたに言ったではありませんか」。これは兄弟ラザロが死んで悲しみに沈むマ ルタ、マリア姉妹に主が語ってくださった言葉です。特に「あなたに言ったではない か」という言葉に何度も励まされてきました。まさにこれは聖霊のお働きです。聖霊 は私たちに主の約束を思い起こさせてくださる。「思い起こせ、神の愛を。思い起こせ、 キリストの真実を」と。この聖霊に導かれて進む一週間でありますように!

コメント

このブログの人気の投稿

クリスマスの広がり(使徒の働き28:23~31)

「クリスマスの広がり」 使徒の働き28:23~31 私が使徒の働きを松平先生から引き継いだのは、使徒の働き11章からでした。それ以来、少しずつ皆さんといっしょに読み進めてきました。これだけ長く続けて読むと、パウロの伝道の方法には、一つのパターンがあることに、皆さんもお気づきになったと思います。パウロは、新しい宣教地に行くと、まずはユダヤ人の会堂に入って、旧約聖書を紐解いて、イエスが旧約聖書の預言の成就者であることを説いていくという方法です。このパターンは、ローマでも変わりませんでした。もちろん、パウロは裁判を待つ身、自宅軟禁状態ですから、会堂に出向くことはできませんが、まずは、ローマに11あったと言われるユダヤ人の会堂から、主だった人々を招きました。そして彼らに、自分がローマに来たいきさつ語り、それについて簡単に弁明したのでした。エルサレムのユダヤ人たちから、何か通達のようなものがあったかと懸念していましたが、ローマのユダヤ人たちは、パウロの悪い噂は聞いておらず、先入観からパウロを憎んでいる人もいないことがわかりました。パウロは安心したことでしょう。これで、ユダヤ人たちからありもしないことで訴えられたり、陰謀を企てられたりする心配ありません。そして、今度は日を改めて、一般のユダヤ人たちも招いて、イエス・キリストの福音について、じっくり語ろうと彼らと約束したことでした。 けれども、みなさん疑問に思いませんか。パウロは異邦人伝道に召されていたはずです。自分でもそう公言しているのに、なぜここまでユダヤ人伝道にこだわるのでしょうか。今までも、新しい宣教地に入ると、必ずユダヤ人の会堂で説教するのですが、うまくいった試しがありません。しばらくすると必ず反対者が起こり、会堂を追い出され、迫害につながっているのです。それなのになぜ、ここまでユダヤ人にこだわるか、その答えは、パウロが書いたローマ人への手紙の9章から11章までに書かれています。 パウロの同胞、ユダヤ人への愛がそこにあります。パウロは9章2-3節でこう言います。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。」 凄まじいほどの愛です。そういえばモーセも同じような祈りをしま

イスラエルの望み(使徒の働き28:17~22)

さて今日の個所は、ローマに到着してから三日後から始まります。パウロはローマに到着すると、番兵付きながらも自分だけの家に住むことが許されました。当時ローマ市内には、11ものユダヤ人の会堂があったと言われています。パウロはさっそく、ローマに住むユダヤ人クリスチャンに頼んで、その会堂の長老たちなど、おもだった人たちを家に招いたのです。そして自分がエルサレムでユダヤ人たちによって告発されたことについての弁明と、これまでの裁判のいきさつについて語り始めました。 ここでのパウロの語りは、これまでのユダヤ人たちに対する少し挑発的な語りに比べると控え目で、ユダヤ人の誤解を解くことに終始しています。パウロは、自分がこのように捕らえられ囚人としてローマにやって来たのは、なにも、ユダヤ人に対して、また先祖の慣習に対してそむくようなことをしたからではなく、「イスラエルの望み」のためなのだと語っています。それこそパウロが伝えたい福音の中心だからです。旧約の預言者たちによって語られた「イスラエルの望み」、「救い主メシア到来の望み」が実はもう実現しているのだということです。パウロは実にこのことのために、今こうして、鎖につながれていたのでした。 パウロの弁明を聞いたユダヤ人のおもだった人たちの反応はどうだったでしょうか。彼らはまず、自分たちはパウロたちのことについてエルサレムからは何の知らせも受けていないこと、したがってパウロたちについて悪いことを告げたり、話したりしているような人はいないということ、ですから一番いいのは、直接パウロから話しを聞くことだと思っていることを伝えました。もちろん彼らの中には、パウロの悪いうわさを聞いていた人もいたでしょう。けれどもそうしたうわさ話に耳を傾けるより、本人から直接話を聞いた方がよいと判断したのです。彼らは言います。「この宗派について、至るところで反対があるということを、私たちは耳にしています。」実際、クラウデオ帝がローマを治めていたころ、キリスト教会とユダヤ人の会堂に集まる人々でごたごたがあって、「ユダヤ人追放令」が発布されました。そんなに昔のことではありません。彼らは、この宗派の第一人者であるパウロにから、直接話を聞いて、何が両者の違いなのか、ナザレのイエスを信じるこの宗派の何が問題なのかをつきとめたいとも思っていたことでしょう。 さて、パウロ

祝福の日・安息日(出エジプト記20:8~11)

「祝福の日・安息日」(出エジプト 20:8-11 ) はじめに  本日は十戒の第四戒、安息日に関する戒めです。この箇所を通して本当の休息とは何か(聖書はそれを「安息」と呼ぶわけですが)。そして人はどのようにしたら本当の休みを得ることができるかを、皆さんと学びたいと願っています。お祈りします。   1.        聖なるものとする 8-10 節(読む)  「安息日」とは元々は、神が世界を創造された七日目のことですが、この安息日を聖とせよ。特別に取り分けて神さまに捧げなさい、というのがこの第四戒の基本的な意味です。この安息日を今日のキリスト教会は日曜日に置いて、主の日として覚えて礼拝を捧げています。安息日という名前は、見てすぐに分かるように「休息」と関係のある名前です。でも、それならなぜ休息とは呼ばず、安息なのでしょう。安息とは何を意味するのか。このことについては、一番最後に触れたいと思います。  いずれにせよ第四戒の核心は、安息日を記念して、「聖とせよ」ということです。それは、ただ仕事を止めて休めばよいということではありません。この日を特別に取り分けて(それを聖別と言いますが)、神さまに捧げなさいということです。すなわち、「聖とする」とは私たちの礼拝に関係があるのです。  でもどうして七日目を特別に取り分け、神さまに捧げる必要があるのでしょう。どうしてだと思われますか。 10 節冒頭がその理由を語ります。「七日目は、あなたの神、主の安息」。この日は「主の安息」つまり神さまのものだ、と聖書は言うのです。この日は、私たちのものではない。主の安息、主のものだから、神さまに礼拝をもって捧げていくのです。   2.        七日目に休んだ神  七日目は主の安息、神さまのものである。でも、どうしてでしょう。その理由がユニークで面白いのです。 11 節に目を留めましょう。 11 節(読む)  神さまはかつて世界を創造された時、六日間にわたって働いて世界を完成し七日目に休まれました。だから私たちも休んで、七日目を「安息日」として神さまに捧げなさい、ということです。ここで深く物事を考える方は、神さまが七日目に休んだことが、なぜ私たちが休む理由になるのですか、と思われるかもしれません。そう思う方があったら、それは良い着眼です。