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あなたの足を洗う神(ヨハネの福音書13章1~11節)

  2026 年 3 月 29 日 新船橋キリスト教会 説教者:山口陽一師(市川福音キリスト教会) あなたの足を洗う神 ヨハネ 13 章 1 ~ 11 節 はじめに  受難週を迎えました。一世紀の末、 4 番目の福音書として記されたヨハネによる福音書からヨハネだけが記す洗足の記事を学びます。ヨハネはこれを十字架の愛として記しています。   1、最後まで愛された( 1 節)   1 節「さて、過越祭の前のこと 、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、 世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、 彼らを最後まで愛された 。」 ヨハネ福音書では 13 章から十字架の記事が始まります。全部で 21 章ですから十字架と復活の記事に 4 割以上をあてています。  ちなみに、 12 章までの前半には「 7 つのしるし(奇跡)」が記されています。カナの婚礼、役人の息子の癒し、 38 年間病気で苦しんだ人の癒し、 5 千人の給食、水の上を歩く、盲人の癒し、ラザロの復活です。これらはイエスが神であることのしるしです。 先週で、 NHK の朝ドラ「ばけばけ」が最終回となりました。ラフカディオ・ハーンは自然を神とする日本を慈しみました。これは日本人の琴線にふれることでした。しかし、聖書は世界を造られた神のほかに神はいないことを教えます。しかも、その神が人となってくださったこと、そればかりか、人の罪を背負って十字架に死んで下さったこと、そこに愛があることを語るのです。 十字架は神の愛の現れです。今日はその愛を、感謝をもって受け取らせていただきましょう。ヨハネの福音書は、イエス・キリストを「まことの光」「いのち」と紹介しましたが、 13 章からはキリストの「愛」が語られます。   2、洗足と十字架( 2 ~ 5 節)     2 節「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。」 ユダの裏切りは心に引っ掛かります。このユダのことは、最後にもう一度触れます。「夕食」はユダヤにとって最も大切な過越祭の食事です。祝いの席でユダは裏切りを心に決めていました。不...

わたしの羊を飼いなさい(ヨハネの福音書21:15~19)

「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ 21:15-19 )   1.     新たな派遣のために   14 節(読む)  主イエスと弟子たちは、三度目の再会をともにしていました。場所は、主と弟子たちが最初に出会った思い出のガリラヤの湖畔。そこは確かに思い出の場所なのですが、先週、私たちは学びました。弟子たちは、思い出ではなくて、復活し、今も生きてともにおられる主イエスと出会う必要があったのです。それがこのガリラヤ湖畔で実現したのです。  このように湖の畔で食事を共にするのは、以前もよくあったことだと思います。ペテロ、ヤコブ、ヨハネは漁師出身の弟子たちで、炭火で魚を焼いての朝食は、いわゆる「漁師めし」だそうです。そのように食事をしながら、彼らはかつて、ガリラヤで神の国の福音を伝えた日々を振り返っていたかもしれません。神の国を宣べ伝え始めたのは三年前のこと。この三年は密度の濃い日々でした。主イエスと寝食を共にし働く中、弟子たちはしばしば主の御業に驚き、その教えに学びながら過ごしたのです。でも、そんな日々の最後に挫折があったのでしたね。弟子のひとりが裏切り、主イエスは十字架に引き渡され、弟子たちは、主を見捨てて皆が逃げてしまった。振り返るほどに、苦々しい、心に痛みを覚える挫折でした。  しかし、そんな弟子たちを主イエスは再び、復活の後、最初に出会ったこのガリラヤに招いたのです。もう一度、このガリラヤから、という再出発。そして彼らは新たな派遣のときを迎えていたのでした。  しかし、ここに一つだけ、新たな派遣の前にどうしても取り扱わなければならないことがありました。それはまるで、喉に刺さった魚の骨のよう。それを抜かないと食事も喉を通らない。この朝食の炭火がそれを象徴的に物語っています。この「炭火」という言葉、実は新約聖書に二回しか出てこない珍しい言葉。一回目、つまりそれが最初に出てきたのはどこでしたか。それは18章18節、十字架前夜の大祭司の中庭での炭火でした。その炭火を前にペテロは、「自分はイエスを知らない」と三度にわたって否定してしまう。そう、あの忌まわしい傷が、ついに、このガリラヤ湖畔で取り扱われていくのです。この取り扱いの中で、一つのことにご注目ください。主はペテロに三度問うのですが、ただ同じ問いを繰り返...

イエスは岸辺に立たれた(ヨハネの福音書21:1~14)

「イエスは岸辺に立たれた」 ヨハネの福音書21章1~14節   21:1 その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。 「その後」というのは、復活されたイエスさまが、エルサレムで弟子たちに 2 回現れた後ということです。一回目は、イエスさまがよみがえられたその日、弟子たちが鍵のかけられた一つの部屋に集まっているときに、イエスさまは弟子たちの真ん中に立たれて、シャロームと言われたのでした。それから 8 日待って、今度は、もう一度同じところで、今度はほとんどトマスのために現れてくださいました。イエスさまは、トマスに、その両手の傷、脇腹の傷を示して、「あなたは見たから信じたのですか?見ないで信じる者は幸いです」と言われました。 そしてその後、弟子たちはガリラヤに移りました。なぜでしょうか。イエスさまの復活の第一目撃者でもあり、証言者でもある女性の弟子たちが、イエスさまが収められていた墓に現れたみ使いの伝言を弟子たちに伝えたからでした。その伝言については、ヨハネの福音書には書かれておらず、マタイの福音書とマルコの福音書に書かれています。マルコの方をお読みします。マルコの福音書16章7節「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」彼らは、この言葉を受けて、ガリラヤに来たのです。ガリラヤに来てどれぐらいたったのか、書かれていないのでわかりませんが、ほどなくして、ペテロが言います。「私は漁に行く」と。じっと家の中でイエスさまが現れるのを待っていても仕方ない。目の前には、広いティベリア湖畔(ガリラヤ湖畔)がある。イエスさまに呼ばれる前は漁師だった彼らの血が騒ぎます。ペテロが「私は漁に行く!」というと、待っていましたとばかりに、他の弟子たちも「私たちも一緒に行く!」と言って、総勢 7 人で、ぞろぞろと湖に向かいました。 この7人については、2節に記されています。まずは、シモン・ペテロ、そしてデドモと呼ばれるトマス、先週の説教に出てきた「見ないと信じない!」と言ったトマスです。ガリラヤのカナ出身のナタナエル。聞きなれない名前かもしれませんが、彼も十二弟子の一人で、バルトロマイという名前でも呼ばれています。はじめにイエスさまのことを紹介...

「見ないで信じる」(ヨハネの福音書20:19~29)

「見ないで信じる」 ヨハネの福音書 20 章19~ 29 節   1.       今日のお話のテーマは、「見ないで信じる」です。みんなは、見ないで信じるのは得意ですか?私は苦手です。そしてすぐに「証拠見せてよ!」と言います。今日のお話に出てくるトマスさんは、そんな先生にそっくりな人です。 2.       イエスさまは、神さまなのに、この地上に人間になって生まれてくださいました。みんなと同じように、おぎゃあ、おぎゃあと生まれて、おっぱい飲んで、おむつを替えてもらって、 1 歳ぐらいで歩けるようになって、そうやって大きくなったのです。そして 30 歳で、神さまのお仕事を始めました。神さまのお仕事というのは、「みんな神さまに愛されてるよ。自分勝手に生きないで、神さまのところに帰ろうよ」と呼びかけるお仕事です。そして、神さまがどんなにみんなのことを愛しておられるかをいつも語り、病気の人がいれば治してあげて、さびしい人のお友だちになってあげました。そうやって、神さまの愛を見せたのです。 3.       ところが、人々は、イエスさまが神さまの子だということを信じません。それどころが、自分を神の子だなんていうイエスは悪い奴だ!と言って、「死刑にしろ!」「十字架につけろ!」と言って、 4.       とうとう十字架につけてしまいました。こうしてイエスさまは、悪いことは何もしていないのに、それどころかいいことばかりしてきたのに、十字架につけられて殺されてしまったのです。 5.       イエスさまの遺体は、布でぐるぐる巻かれて、お墓の中に納められました。そして、大きな石で蓋をされたのです。 6.       そして、このお墓の前には、番兵が置がいて、だれもイエスさまの遺体を盗まないように、厳重に見張りをしていました。ところが…、 7.       3 日目の朝に、イエスさまの女のお弟子さんた...

わたしにとどまりなさい(ヨハネの福音書15:1~5)

聖書箇所 ヨハネの福音書  15 章 1 節~ 5 節 説教題「わたしにとどまりなさい」 説教者:山岡浩之実習生(TCU)   導入 皆様、おはようございます。先週お別れ会をして頂いたにも関わらず、あれ、まだ山岡神学生いるのと思われた方もいるのではないでしょうか?実は私はまだ礼拝の奨励という最後にして最大の奉仕が残っておりました。今日が本当の意味で 2024 年度実習神学生にとって最後の奉仕となります。改めて最初に一年間の礼拝と交わりの時を感謝させてください。ありがとうございました。 また、本日は最後ということで、どの聖書箇所から語るのが相応しいのだろうかと色々考えました。その中で頭に浮かんできたのはヨハネの福音書にある「まことのぶどうの木」のたとえです。ここはイエス様が神の民の共同体について語っている箇所です。イエス様の弟子たちへの愛が溢れている箇所です。また、イエス様が十字架に架けられる前に弟子たちと取った最後の食事の時に語られたことでもあります。そう考えると今年度最期の奨励としても、イエス様に愛されている新船橋キリスト教会にとっても相応しいみことばだと考えました。今日はこのイエス様の私たちへの愛を共に聞いてまいりましょう。   1節     わたしはまことのぶどうの木 それでは 1 節から確認していきましょう。 1 節「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」。まことのぶどうの木?一体どのような意味だろうかと、このたとえを初めて聞いた人は思うのではないでしょうか?しかし、イスラエルの民にとっては、「ぶどうの木」というのはとてもなじみ深い言葉でした。例えば、旧約聖書で登場するエレミヤという預言者は「純種の良いぶどう」というようにイスラエルをぶどうにたとえました。また、他にも詩篇の作者は、イスラエルは神がエジプトから救い出し、約束の地に植えられた「ぶどうの木」であると言っています。ですから、ユダヤ人であった弟子たちにとって、イスラエル=ぶどうというたとえは、スッと心に入って来るとても分かりやすいたとえであったのです。日本で言えば桜の木のようにぶどうはイスラエルを象徴するものでした。 しかし、一つ疑問があります。イエス様はただのぶどうの木ではなく、なぜ「まことのぶどうの木」なので...

上から来られる方(ヨハネの福音書3:22~36)

「上から来られる方」 ヨハネの福音書3:22~36  今日は、アドベントの第二週です。「アドベント」は「到来」という意味だと、先週もおはなししました。イエス・キリスト、神の御子が人となって、地上に到来してくださる。その目的は、私たちの救いのためだとう。このありえないほどの、破格の、すばらしい知らせの意味を、イエスさまがおられた当時、本当の意味で理解していた人は誰もいませんでした。そう、バプテスマのヨハネ以外は! ということで、今週も私たちは、このバプテスマのヨハネを通して、キリスト到来の意味を学びたいと思います。 3章22-23節を見ると、面白いことがわかります。なんと、ヨハネとイエスさまが同時期に宣教活動をしていたということです。ヨハネが投獄され、処刑される少し前の、彼にとっては最後の宣教期間でした。(24節)イエスさまは、エルサレムでニコデモと話しをし、あの有名な「聖書の中の聖書」と言われるみことば「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに…」と話してから、ユダヤ地方に行かれました。そして、そこで人々にバプテスマを授けておられたというのです。けれども、4章2節を見ますと、実際に洗礼を授けておられたのは、イエスさまではなくて、イエスの弟子たちでした。そして、ヨハネが1章33節で、イエスさまのことを「聖霊によってバプテスマを授ける者」と呼びましたが、聖霊がイエスさまを信じるすべての人にくだるのは、イエスさまが復活され、昇天された後のことなので、ここで、イエスさまの弟子たちが授けていたバプテスマは、ヨハネと同じ、悔い改めのバプテスマだったことがわかります。 さて、ヨハネとイエスさまの弟子たちが、同時期に、少し離れたところでバプテスマを授けていたということですが、一つ問題が起こりました。それは「ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした」(25節)というのです。ユダヤ人というのは、パリサイ人に代表される当時の宗教家だと思うのですが、彼らが、ヨハネのバプテスマとイエスのバプテスマの比較論争をしたということでしょう。そして、おそらくこの論争で、ヨハネの弟子たちはやり込められ、何か悔しい思いをしたのかもしれません。そこで彼らは、ヨハネのところに来て言うのです。26節「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの...

荒野で叫ぶ者の声(ヨハネの福音書1:19~28)

「荒野で叫ぶ者の声」 ヨハネの福音書1:19~28  アドベントに入りました。アドベントというのは、日本語では「待降節」と言い、クリスマス主日までのイエス・キリストの誕生を待ち望む期間を意味します。アドベントの語源はラテン語の「 Adventus (到来)」で、英語の「 Adventure( 冒険 ) 」の由来になります。  神が人となり、地上に生まれてくださる。これほどのアドベンチャーがあるでしょうか。そいう言う意味で、私たちは、このアドベントの期間をわくわく、どきどきする思いで過ごしたいと思うのです。 今日の登場人物は、イエスさまのご降誕を、わくわく、どきどきしながら待ち、イエスさまの通られる道を整えた最後のメシア預言者ヨハネです。ご存じのようにヨハネは、祭司ザカリヤ、また、イエスさまの母マリアの親戚、エリサベツの子どもとして生まれました。彼は生まれる前から、イスラエルが待ち望んでいたメシア(救世主)が、間もなく来られるということ、また彼はそのための道備えをするという使命が与えられていることを知らされて育ちました。親はそのように、ヨハネに特別の教育をしましたし、本人にもその自覚がありました。 子どもが生まれてくるときに、その子のアイデンティティの確立を助けてあげることは、とても大切なことです。「あなたは、何者なのか。何のために生まれてきたのか、生きる目的は何なのかを、親は子どもに教える必要があるのです。私も時々、「性教育」や「子育て」というテーマで講演をすることがありますが、このことをとても大切しています。子どもの人格教育は、子どもがおなかにいるときから始まっています。「あなたは、神さまから愛されているよ」「お父さん、お母さんもあなたを愛しているよ」「あなたの誕生を待っているよ」「あなたは、私たちの宝物だよ」「神さまの宝物だよ」「世界はあなたの誕生を待っているよ」「あなたは神さまの子どもだよ」。現代、多くの人は自分が何者かわからないで、心病んでいます。アイデンティティクライシスです。「あなたは神さまの子ども」「あなたは天地万物を創られた王なる神さまの王子、王女様」「あなたは高価で貴い」「あなたは愛されている」私たちは子どもたちをそうやって育てたいものです。 さて、前置きが長くなりました。ヨハネは、明確なアイデンティティを持っていました。です...

信じる者が受ける聖霊(ヨハネの福音書7:37~39)

「祭りの終わりの大いなる日」とは、いつのことでしょうか。この「祭り」は、「仮庵の祭り」のことです。「仮庵の祭り」は収穫の時期(9~10月)に行われます。当時は、収穫の時期になると、1週間畑にテントを張って、収穫のための作業をしました。ルツ記などを思い浮かべるといいでしょう。ですから、仮庵の祭りの目的の一つは、収穫を神に感謝することです。また、もう一つの目的は、神さまがイスラエルの民をエジプトから救出されたことを記念する目的です。イスラエルの民は、長い荒野の旅路の間ずっと、テント生活を送っていました。そして神さまは、その間も不思議な方法で水を与え、マナという食べ物をもってイスラエルの民を養ったのです。 この仮庵の祭りの最中に、イエスさまは、内密にエルサレムに上って行かれました。なぜ内密なのかというと、すでに当時の宗教家たちが、イエスさまの人気に嫉妬を感じ、何とかせねばと思い始めていたからです。イエスさまはお忍びで仮庵の祭りに行き、その割には大胆に宮に上って教え始められました。それから36節まで、ユダヤ人たちとの議論が続いています。 この7日続く祭りの間、祭司たちは、毎日行列を作ってシロアムの池まで出かけて行き、そこで黄金の器に水を汲んで、再び行列を作って神殿に戻り、祭壇のまわりを一周して、祭壇に水を注ぎました。それを6日間続けた後、最終日の7日目は、祭壇の周りを7周して、「ホザナ」と歌いながら祭壇に水を注ぎました。また、そのときには、 ゼカリヤ14:8 が朗読されたと言います。 「その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。」 こうして、雨を降らせ、豊かな収穫を与えてくださった神に感謝するのと同時に、翌年の豊かな雨を願うのでした。そして祭りがクライマックスに達した時に、イエスは立ち上がって、大きな声でこう言われたのです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」イエスさまが水に言及されたのは、こんな背景があったからなのです。 そして、イエスさまは言うのです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て、飲みなさい!」と。しかも当時のラビたちは、座って説教をする習わしだったのに、イエスさまはいきなり立ち上がって、大きな声で話し始めたのです。ひょっとしたらちょっと異...

目を上げて、ともに喜ぶ(ヨハネの福音書4:27~38)

『目を上げて、ともに喜ぶ』  ヨハネ4章27 -38 節 はじめに   23 節(読む)  この時、イエスさまは、サマリアの女性と話していました。それは普通ではないことでした。当時のユダヤ人はサマリア人と絶縁状態で、話すらしなかったのです。  この女性は、いわゆる「わけありの人」です。バツイチどころか、バツゴ、かつて五人の夫がいて、今一緒に暮らしているのは夫ではない男性。人からは陰口を言われ、人目を避けながら生きていたようです。一方で心はカラカラに乾ききっていました。生命の潤いを必要としていました。  イエスさまはその女性に福音を語ったのです。そして霊とまことの礼拝に導き、救い主キリストであることを明らかにされたのでした。   1.      キリストに出会ったあとで 25-26 節(読む) このようにしてサマリアの女性はキリストと出会いました。「キリストに出会う」ことは特別なことです。その出会いには人を決定的に変えていく力がある。彼女もそうでした。しかもその変わりようが見事です。 28-29 節(読む)  これまで人目を避けてきた彼女が、水がめをその場に置き、町に急いで人々にキリストに出会ったと告げていく。もう人目を避ける後ろめたさはもうありませんでした。「来て、見てください」とやや興奮気味です。そしてあふれる思いで語り出す。「もしかすると、この方がキリストなのでしょうか」。もしかすると、という言葉遣いとは裏腹に、口調は確信に満ちています。皆さん、これが「証し」というものです。キリストに出会った喜びに心が動かされ、もう語らずにはいられない。そういう証しには人を動かす力があるのです。そうやって動かされた人々は一人や二人ではありませんでした。大勢が押し寄せるようにしてイエスさまのもとに集まり、彼らもまたキリストに出会って変えられていくのです。キリストとの出会いは人を変え、そして他の人にも広がっていくのです。 どうかこれを、サマリアの女性だけに起こった特別な出来事だと思わないでください。私たちにも実は、このように他の誰かに語ることのできる証しがあるのです。思い返してみてください。最初にキリストを信じた時のことを。もちろん、この女性のようなドラマチックなストーリーではなかったか...