「祭りの終わりの大いなる日」とは、いつのことでしょうか。この「祭り」は、「仮庵の祭り」のことです。「仮庵の祭り」は収穫の時期(9~10月)に行われます。当時は、収穫の時期になると、1週間畑にテントを張って、収穫のための作業をしました。ルツ記などを思い浮かべるといいでしょう。ですから、仮庵の祭りの目的の一つは、収穫を神に感謝することです。また、もう一つの目的は、神さまがイスラエルの民をエジプトから救出されたことを記念する目的です。イスラエルの民は、長い荒野の旅路の間ずっと、テント生活を送っていました。そして神さまは、その間も不思議な方法で水を与え、マナという食べ物をもってイスラエルの民を養ったのです。
この仮庵の祭りの最中に、イエスさまは、内密にエルサレムに上って行かれました。なぜ内密なのかというと、すでに当時の宗教家たちが、イエスさまの人気に嫉妬を感じ、何とかせねばと思い始めていたからです。イエスさまはお忍びで仮庵の祭りに行き、その割には大胆に宮に上って教え始められました。それから36節まで、ユダヤ人たちとの議論が続いています。
この7日続く祭りの間、祭司たちは、毎日行列を作ってシロアムの池まで出かけて行き、そこで黄金の器に水を汲んで、再び行列を作って神殿に戻り、祭壇のまわりを一周して、祭壇に水を注ぎました。それを6日間続けた後、最終日の7日目は、祭壇の周りを7周して、「ホザナ」と歌いながら祭壇に水を注ぎました。また、そのときには、ゼカリヤ14:8が朗読されたと言います。「その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。」こうして、雨を降らせ、豊かな収穫を与えてくださった神に感謝するのと同時に、翌年の豊かな雨を願うのでした。そして祭りがクライマックスに達した時に、イエスは立ち上がって、大きな声でこう言われたのです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」イエスさまが水に言及されたのは、こんな背景があったからなのです。
そして、イエスさまは言うのです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て、飲みなさい!」と。しかも当時のラビたちは、座って説教をする習わしだったのに、イエスさまはいきなり立ち上がって、大きな声で話し始めたのです。ひょっとしたらちょっと異様な光景だったかもしれません。イエスさまは続けます。「わたしを信じる者は、聖書が言っている通り、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」。人々は黄金の器に入れられ、祭壇に注がれた聖い水を思い浮かべたことでしょう。そしてイザヤ書にあるように、そのいのちの水はあふれ出して、流れ、広くまわりを潤していくのをイメージしたかもしれません。そんな生ける水をイエスさまは持っておられる。そして、渇いている者はだれでも、イエスさまのもとに行けば、それをいただけると招いておられるのです。
「渇いている者」が招かれています。周りを見渡せば、現代人はみんな渇いて、うめいているように見えます。渇いて、干からびて、ミイラのようになって、水を求めて、さ迷い歩いている人がなんと多いことでしょう。そして、その渇きを見当はずれなもので潤そうとするので、ますます渇くのです。神さまは、そんな私たちを招いて、その心を潤そうとされます。私たちの渇きをいやすことができるお方は、イエスさまだけだからです。1度潤すだけではない、潤し続けてくださるのです。「わたしから飲む者」、つまり、イエスさまを信じる者は、イエスさまを心にお迎えする者は、「聖書が言っている通り、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るように」なるのです。
「聖書が言っている通り」というところの「聖書」の右上に1)とありますね。その脚注を見ると、旧約聖書イザヤ書の3か所が記してあります。見てみましょう。イザヤ書44章3節、55章1節、58章11節です。「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、乾いたところに豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたの子孫に、わたしの祝福をあなたの末裔に注ぐ。」(44:3)、「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。」(55:1)「【主】は絶えずあなたを導いて、焼けつく土地でも食欲を満たし、骨を強くする。あなたは、潤された園のように、水の涸れない水源のようになる。」 (58:11)イエスさまは、ユダヤ人が親しんでいるこれらのイザヤの預言を思い起こさせ、それが今、実現しようとしているなのだ!と言っているのです。
「生ける水」とは何でしょうか。イエスさまご自身を表すこともありますが、ここでは、「聖霊」を指しています。39節で記者ヨハネは、「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」と言っています。イエスが栄光を受けるとき、それは、イエスさまが苦難の果てに十字架にかけられて殺され、死んで、葬られ、三日目によみがえり、天に昇られる、その時のことです。一見、栄光からはかけ離れているように見えますが、ヨハネの福音書では、イエスさまが「栄光を受ける」と言うのは、いつも十字架と復活、昇天を意味するのです。イエスさまが栄光を受けられるとき、聖霊が与えられます。そして、それは本当に実現しました。その時の様子は、使徒の働き2章1節から4節に記されています。「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」そして、この時以来、聖霊は、イエスさまを信じるすべての者に与えられるようになりました。
私はペンテコステ以降に生まれて、本当に良かったと思います。ペンテコステ以前は、聖霊は選びの民イスラエルの特別な王や預言者にしか与えられなかったからです。そして、このすべての人に聖霊が注がれるということは、旧約聖書でずっと預言されてきたことでした。先ほど読んだイザヤ書の預言もそうですが、ヨエル書にも預言されています。2章28-29節「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。」ヨエルは、すべての人に聖霊が注がれることを預言したのです。イエスさまご自身も言いました。ヨハネ16章7節「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」イエスさまが地上におられたとき、イエスさまは父なる神のご性質、その愛と、聖さを、また栄光を、そしてみこころを、見えるように示してくださいました。けれども聖霊は、私たちの内側で働いてくださって、神さまの愛と聖さ、栄光、みこころを豊かに示してくださいます。私たちが聖書を読む時に、またこうして説教を聞くときに、ああそうだったのかと真理を悟らせてくださるのです。そしてある時には、私たちに罪を示し、悔い改めに導き、イエスさまの十字架によるゆるしを確信させてくださるのです。
こうして聖霊が与えられるとき、「心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(38節)のです。聖霊が心に住まわれる時に、私たちの心の奥底にこんこんと湧き上がる水源、泉が生まれます。私たちはもう渇かなくていい。見当違いのところに行って水を求めなくていい。飲めば飲むほど、渇くような偽の水を飲まなくていい。私たちの心には、生ける水であられる聖霊がこんこんと湧き出ているからです。
そしてこの水は、私たちの心の中だけにとどまっていません。「生ける水の川が流れ出るようになる」とあります。仮庵の祭りの時に、祭壇に注がれた水があふれ出て流れ出し、まわりを潤して行くように、自分のところだけにとどまっていることはないのです。またこの「川」は複数形です。思い出してください。エデンの園から4つの川が流れ、その豊かな流れが地の全面を潤していました。そのように、私たちは小さな存在ですが、聖霊によってこの小さな存在がまわりの人を潤していくようになるのです。
聖霊は聖書の中で風にたとえられています。自由に、思いのままに吹くからです。聖霊は、「生ける水」なので、動きます。生きているので流れるのです。自由に流れ、まわりの人々も潤していきます。私たちのするべきことは、聖霊の流れを邪魔しないことだけです。私たちの方が、聖霊の自由なお働きに合わせるのです。「御霊によって歩みなさい」とは、そういうことではないでしょうか。
今日はペンテコステです。イエスさまを信じるすべての人に聖霊が降られた日です。聖霊は私たちの心の中に住んでくださいます。そして、今日行われる洗礼は、聖霊による救いの保証、契約の捺印です。聖霊は私たちの心を神の愛で、潤します。それだけではありません。聖霊は「生ける水」なので、流れます。自由に働かれます。そして、私たちのまわりの人々も潤していくのです。祈りましょう。
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