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9月, 2022の投稿を表示しています

試みにあわせず、悪からお救いください(マタイ6:8~13)

「試みにあわせず、悪からお救いください」(マタイ 6:9 ~ 13 )   1.       罪との戦いの現実   今日は主の祈りの最後、六番目の願いに目を留めます。この願いの直接の前提となっているのは、前回に学んだ第五の願いです。   12 節「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」    この第五の願いが、気づかせてくれるのは、私たちの日常が「罪」との戦いに囲まれているという事です。私たちの身の回りには、いつも罪との戦いがある。 「私たちの負い目をお赦しください」という願い、これは私たち自身が日々神に赦しを願わなければならない罪人であることを思い至らせてくれるでしょう。私たちは、思いと言葉と行いにおいて、罪を犯さない日は一日もない。だから日々、神に赦しを願うのです。  続く願いの後半はどうですか。 「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」 私たちは自分自身が罪人で、おまけに周りを見回せば、そこには現実として、私たちを不快な思いにさせる人間関係の軋轢があります。しかもその中で、私たちは、人の罪を赦すことが求められている。神に赦された者として、私たちもまた、人を赦していくのです。  そう、これが私たちの生きる現実です。私たち自身が罪人であり、それでも恵みによって赦されていますから、今度は、他の人の罪を赦していく。 私たちの生活の中には、絶えずこうした罪との戦いがあるのです。 だから、今日の第六の願いです。この願いをもって、私たちは罪から守られるように祈っていくのです。   2.       「試み」の中で知る、人の弱さと不確かさ   13 節「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」   「試みにあわせないで」との祈りの前半を聞いて、聖書の様々な箇所を思い起こし、一つの疑問を抱く方もおられると思います。 これは、他の聖書箇所と矛盾しているのではないかしらんと、、、。   なぜなら聖書には、神が信仰者に試みや試練を与える実例が少なくないのです。例えば創世記 22 章 1 節にこうあります。「神がアブラハムを試練にあわせられた。」 神がアブラハムを試みて、息子イサクを犠牲にすることを求めた有名な出来事。これは大きな大きな信仰のテストでした。 その他にも申命記8章を読むと、出エジプトの民が四十年荒野を旅し

パウロの弁明②(使徒の働き22:12〜16)

「パウロの弁明②」 使徒の働き22:12~16  先回の説教では「パウロの弁明①」と題して、誤解の中から始まった暴動の中から、ローマ軍に保護されたパウロが、敵意むき出しのユダヤ人たちに福音の弁明をするところからお話ししました。 パウロの弁明は、上から目線ではなく、「みなさんと同じ」から始まりました。   私はここにおられる皆さんと同じく、律法に熱心なものでした。いや、その熱心さは皆さん以上だったのです。エルサレムのクリスチャンを迫害するにとどまらず、遠くダマスコまで行って、そこにいるクリスチャンたちを捕えて処罰しようとしていたのですから。ところが、ダマスコに行く途中、私は復活のイエスさまに出会います。出会ったとは言っても、天からのまばゆい光のために目が見えなくなりましたので、あの方の声を聴いただけでした。「サウロ、サウロ。どうしてわたしを迫害するのか」。私はあのお方のために、一生けん命クリスチャンを迫害してきたのに、なんとその迫害の対象がまさかのあの方ご自身だったのす。私は打ちのめされたました。そしてそのお方、ナザレのイエスに尋ねました。「主よ。私はどうしたらいいでしょうか」。するとイエスさまは私に言いました。「起きあがりなさい。そしてダマスコに行きなさい。そこであなたがすべきことを告げよう」。こうして私は目が見えなくなっていたので、一緒にいた人々に手を引かれながら、ダマスコに向かったのです。   パウロはダマスコに到着すると、ユダという人の家で、三日間飲まず食わずで祈っていました(9:9)。そしてそこに現れたのが、律法に従う敬虔な人、アナニアでした。彼はダマスコに住んでいるすべてのユダヤ人たち(ユダヤ教徒、キリスト教徒を問わず)に評判の良い人でした。実は、神さまは事前に幻でアナニアに現れており、ユダの家にいるパウロを訪ね、彼のために祈りなさいと告げていたのです。アナニアは、驚いたことでしょう。「いやいや、彼はクリスチャンの迫害者で、ここダマスコには我々を迫害するために来たと聞いています」と躊躇するのですが、それでも神さまがおっしゃるならと、勇気を振り絞ってパウロのところに来たのです。 自己紹介はあったのでしょうか。アナニアは、目の見えないパウロの傍らに立ち、「兄弟サウロ」と呼びかけました。「兄弟…」アナニアの心には葛藤があったはずです。かつて見な

それが彼の義と認められた(創世記15:1〜6)

説教題:それが彼の義と認められた 本文:創世記15:1−6   今日の説教題はそれが彼の義と認められた」です。 創世記15章は“これらの出来事の後。。。”から始まります。今日の本文を理解するためにはこの前の文脈に注目する必要があります。本文を遡ってみると、“これらの出来事”は創世記12章から14章の中で起きた出来事です。12章で神様はアブラムに生まれ故郷、父の家を出て、神様が示す地へ行くと神様はアブラムを大いなる国民とするという大きな約束をされます。“わたしが示す地に行きなさい”という命令に従って旅立ちますが、その道が順調なわけではありませんでした。エジプトでは自分の妻を妹と嘘をつくほど身の危険を感じる経験をします。13章で無事にエジプトを出たアブラムはベテルまできました。しかし、彼らの持ち物は多すぎてアブラムとロトの間に争いが起こり、ロトはよく潤っていたソドムとゴモラの地を選びます。跡継ぎとして考えていた甥ロトと別れた直後、神様は創世記13章14から17節で大いなる子孫が与えられることを再び約束されます。14章に入るとロトは王たちの戦いに巻き込まれおいロトは全財産を奪われとりこになってしまいます。自分から離れてしまったロトであったが、愛するロトを救うために僕ども318人を招集して敵を打ち破り、全ての財産を取り戻すようになります。 今日の本文15章に戻ります。1節です。これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。 「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」アブラムは神様の命令に従って生まれ故郷、父の家を出て神様が示す地に向かって旅立ちました。数え切れないほどの多くの子孫と見渡している全ての地を与えるという神様からの約束を得ているのに妻を奪われる危機にあったり、愛する甥ロトと別れる悲しみもありました。大きい心の支えだったロトと別れて悲しむことも束の間、事件は続いて、ロトは拉致され、アブラムは命賭けでロトを救出します。国と国の争いの中でロトを救出しようとするのにわずか318人の僕らと戦いに向かったアブラムの心境はどのような もの だったでしょうか。死を覚悟して挑んだ戦いであることは間違いありません。また、戦いには勝利し、神の祝福を受けたアブラムでしたが、熾烈な戦いの後の疲れが残っていたかもしれません。神

パウロの弁明①(使徒の働き22:1〜11)

「パウロの弁明①」 使徒の働き22:1~11  パウロは、第三次伝道旅行を終えて、エルサレムに帰って来ました。時は五旬節のシーズン、エルサレム神殿には、エルサレムのユダヤ人だけではなく、多くの外国に住むユダヤ人たちが巡礼のために訪れていました。エペソからきたユダヤ人たちもいました。彼らは、パウロがエペソ伝道をしていた頃から、彼のことを目の敵にしていましたので、ありもしない因縁をつけて、事もあろうかエルサレムの神殿内で暴動を起こしました。神殿内部は大混乱に陥りました。これを聞きつけた当時エルサレムを統治していたローマ軍の千人隊長が、兵を率いてすぐに駆け付け、パウロを担ぎ上げて安全な場所(アントニアの塔)まで連れて行き、事なきを得たのですが、その塔の階段を上り切ったところで、パウロは千人隊長に、少し話をしてもいいでしょうかと、丁寧なギリシア語で頼んだのです。彼が教養あるローマ市民だと知った千人隊長は、パウロを信頼し、群衆に話しをするのを許可しました。するとパウロは、群衆の方を向き直ると、今度は流ちょうなヘブル語で話し始めたというのです。群集はしんと静まり返りました。 それにしても、先ほどまで集団リンチをされていた群集を前に話しをしようと思うなんて、パウロという人は、なんて怖いもの知らずなんだろうと、私たちは驚きを通り越してあきれます。せっかくローマ軍に保護され、このまま要塞に入って、事情聴取を受ければ、誤解も解けて解放されるかもしれないのに、どうして、再び向き直って、敵意むき出しの群衆に話そうと思ったのか。 パウロは危機をチャンスに変えることのできる神さまに期待しました。危機と言えば、私たちにとっては、新型コロナウイルスのパンデミックです。世界中の人々にとっても危機でしたし、教会にとっても危機でした。先日もお話ししましたが、多くの教会が集まりをやめ、中にはそのまま教会を閉じてしまったところもあったと聞きます。けれどもこの危機をチャンスに変えた教会の話も聞きます。そんなことを思うと、最近の教会にとっての危機的状況、旧統一協会問題も、私たちキリスト教会にとっては逆風ですが、これさえも、主にあってチャンスに変えられると、私たちは信じて、萎縮することなく、さらに大胆に福音を発信していきたいと思うのです。   さて今日は、パウロの弁明というタイトルをつけました。「