「パウロの弁明②」
先回の説教では「パウロの弁明①」と題して、誤解の中から始まった暴動の中から、ローマ軍に保護されたパウロが、敵意むき出しのユダヤ人たちに福音の弁明をするところからお話ししました。
パウロの弁明は、上から目線ではなく、「みなさんと同じ」から始まりました。
私はここにおられる皆さんと同じく、律法に熱心なものでした。いや、その熱心さは皆さん以上だったのです。エルサレムのクリスチャンを迫害するにとどまらず、遠くダマスコまで行って、そこにいるクリスチャンたちを捕えて処罰しようとしていたのですから。ところが、ダマスコに行く途中、私は復活のイエスさまに出会います。出会ったとは言っても、天からのまばゆい光のために目が見えなくなりましたので、あの方の声を聴いただけでした。「サウロ、サウロ。どうしてわたしを迫害するのか」。私はあのお方のために、一生けん命クリスチャンを迫害してきたのに、なんとその迫害の対象がまさかのあの方ご自身だったのす。私は打ちのめされたました。そしてそのお方、ナザレのイエスに尋ねました。「主よ。私はどうしたらいいでしょうか」。するとイエスさまは私に言いました。「起きあがりなさい。そしてダマスコに行きなさい。そこであなたがすべきことを告げよう」。こうして私は目が見えなくなっていたので、一緒にいた人々に手を引かれながら、ダマスコに向かったのです。
パウロはダマスコに到着すると、ユダという人の家で、三日間飲まず食わずで祈っていました(9:9)。そしてそこに現れたのが、律法に従う敬虔な人、アナニアでした。彼はダマスコに住んでいるすべてのユダヤ人たち(ユダヤ教徒、キリスト教徒を問わず)に評判の良い人でした。実は、神さまは事前に幻でアナニアに現れており、ユダの家にいるパウロを訪ね、彼のために祈りなさいと告げていたのです。アナニアは、驚いたことでしょう。「いやいや、彼はクリスチャンの迫害者で、ここダマスコには我々を迫害するために来たと聞いています」と躊躇するのですが、それでも神さまがおっしゃるならと、勇気を振り絞ってパウロのところに来たのです。
自己紹介はあったのでしょうか。アナニアは、目の見えないパウロの傍らに立ち、「兄弟サウロ」と呼びかけました。「兄弟…」アナニアの心には葛藤があったはずです。かつて見ないほどの凄まじい迫害者を「兄弟」と呼ぶ時が来るなんて。そしてアナニアは「見えるようになりなさい」と命じました。再び目が見えるようになったら何をするかもわからない、彼らから見たら悪魔のような男に「見えるようになりなさい」と命じなければならない。アナニアがそれを成し得たのは、ひとえに神のことばへの信頼と従順があったからでした。意味も理由もわからない、正直彼が回心したなんて到底信じられない。けれども神がそうおっしゃるなら、私たちがそれを信じられるとか信じられないとか、同意できるとかできないとか、そういうことではない。ただ神のことばへの信頼だけで動くのです。信仰というのは、神のことばへの信頼、神のご人格へのです。神は善いお方で、いつも最善をなさる。だから神のみことばに乗っかる。それが信仰なのです。
アナニアが祈ると、パウロは見えるようになりました。9章の並行記事では、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになったと書いてあります。パウロの肉体の目が見えるようになっただけではない。彼の心の目も見えるようになって、一番初めに見たその人はアナニヤアでした。誰からも尊敬され、評判の良いアナニアです。パウロはどう思ったのでしょう。憎悪と偏見の色眼鏡を外した今、パウロはそこに愛すべき主にある兄弟を見たのです。いえ、その背後にあるイエスさまを見たのかもしれません。そして、かつて天を見上げながら、ユダヤ人たちに殺されていった、いや、自分が殺したあのステパノの目を思い出したかもしれません。
アナニアはパウロを見つめて言いました。(14、15)「私たちの父祖の神は、あなたをお選びになりました。あなたがみこころを知り、義なる方を見、その方の口から御声を聞くようになるためです。
あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです。」私たちはこの弁明がユダヤ人に向けて語られていることをもう一度思い起こしましょう。「私たちの父祖の神」そうです。ユダヤ人にとってもクリスチャンにとっても共通の信仰の対象、私たちの父祖の神です。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神です。そして「義なる方」は、旧約聖書で預言され、約束されているメシア、救い主のことです。ユダヤ人たちは「義なるお方」と聞くと、それが「約束の救い主」のことだとわかるのです。パウロはユダヤ人たちに、クリスチャンは、唯一真の神、イスラエルの神以外の神を神としているわけではない。同じ父祖の神を信じ、その父祖の神が私たちに与えてくださった約束のメシア、救い主が、私がダマスコ途上でお会いしたそのお方、ナザレのイエスなのだと知らせたかったのです。
アナニアはパウロに、神がなぜ彼を選んだのかを語ります。①あなたが神のみこころを知るため。神さまのみこころ。それは、パウロが神ご自身を迫害していたことを知って、悔い改める(向きを変えること)ことでした。②イエスさまに出会って、御声を聞くため。→ダマスコ途上でパウロはイエスの御声を聞いたのです。③あなたはイエスさまのために、すべての人に対して見聞きしたことを証しする証人となるため。「すべての人」にはユダヤ人も異邦人も含まれます。
ここで大切なことは、神さまの選びは、パウロが血眼になってクリスチャンを迫害しているその時からすでにあったということです。もっというと、パウロがキリキアのタルソで産声をあげたそのときからあった。もっと言うと、彼が母の胎に宿ったそのときから、いやいや、もっと言うと、彼がまだ存在しなかったときから、神の選びはあったのです。パウロ自身がエペソ書で告白しています。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:4-5)神が天地万物を創造される前から、パウロを選び、救い、ご自分の子にしようと、あらかじめ定めておられたのです。
うちの4番目の子、真依は、2002年、主人の留学のため家族でアメリカに住んでいるときに生まれました。彼女が小学校の低学年の頃でしょうか。家族で食卓を囲みながら、かつて住んでいた新潟亀田にいたときの話題で盛り上がることがありました。その時私は、ふと話題に入れない真依に気づいて言いました。「ああ、ごめんごめん、亀田の時には、真依はまだ影も形もなかったよね」。すると真依はこう答えました。「うん。でもまいまいが、この家族に生まれるってことは、もう神さまの中では決まってたからね。」と言ったのです。驚きでした。彼女の中には、すでに自分は神さまの選びと愛のご計画の中で生まれてきたんだという揺るがない確信があったのです。私たちの中には、イエスさまに出会って、救われる前、あの暗黒の中を歩んでいた時に、神はどこにいたのだと思う人もいるでしょう。けれども、神さまの選びは、永遠の選びであることを忘れないでください。世界の基が据えられる前から、神は私たちを、イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定められておられたのです。
こうしてアナニアは、パウロにバプテスマを授けます。恐らく以前のパウロは、苦々しい思いでクリスチャンたちがバプテスマを受けるのを見ていたことでしょう。アナニアが「何をためらっているのですか」と言っていますが、ひょっとしたらパウロの中にためらい、躊躇があったのかもしれません。けれども、彼はすでにイエスさまを信じて救われていました。信じた者にバプテスマを授けるというのは、復活のイエスさまが弟子たちを派遣するときに命じられたことです。そして実際使徒たちは、イエスさまの昇天後、「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」(2:38)と語りついでいます。アナニアは言います。16節「さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」と。「その方」とは、先ほども言及された「義なるお方」つまり、イエス・キリストのことです。パウロはイエスさまの御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流したのです。
あれ?と思われた方もおられるかもしれません。バプテスマによって罪を洗い流すの?バプテスマにそんな効力があるの? 結論から言うと、バプテスマを受けることによって罪がゆるされるわけではありません。イエスさまを信じたときに、私たちの罪は、イエスさまの十字架上で流された血と聖霊によって、すでに洗い流されています。けれども洗礼は「罪がゆるされ、救われている」ということのしるしであり、保証です。ハイデルベルグ信仰問答では、「わたしたちが現実の水で洗われるように、私たちの罪が霊的に洗われることもまた現実であるということを、神はこの神聖な保証としるしを通して、私たちに確信させようとしておられるのです。」とあります。見てごらん。私たちのからだの汚れがどんなにひどくても、水で洗われたら、こんなにきれいになるでしょう。それと同じように、あなたの罪は、イエスさまの血と聖霊によってすでに洗われたのですよと、洗礼を受ける人も、それを見守る人も、これを見て、救いの確信を得るのです。
また洗礼は救いの保証です。もしここにいるクリスチャンの皆さんが、イエスさまを信じても洗礼を受けていなかったとしたら、いったい今、何人ここに残っているのでしょう。また、洗礼を受けているけども、教会生活から離れているあの人この人。洗礼を受けているから、私たちは、やがては彼ら彼女らが帰ってくることを信じて待つことができるのです。洗礼が保証するのは、私たちの確かさではなく、キリストの確かさだからです。洗礼は、決して取り消されることのない救いの保証なのです。
大井恒代姉のことを思い出します。大井姉は今年91歳だそうです。私はお会いしたことがありませんが、以前は喜んで教会生活をしておられたと聞いています。ところが認知症を患い、施設に入られ、今は以前教会に来られていたことも、ご自分がクリスチャンであることも忘れてしまわれたということです。けれども、大井さんは確かにイエスさまを信じました。信じただけじゃない、洗礼を受けたのです。私たちはそこに希望を置くことができます。
「さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」お祈りします。
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