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パウロの弁明①(使徒の働き22:1〜11)

「パウロの弁明①」
使徒の働き22:1~11

 パウロは、第三次伝道旅行を終えて、エルサレムに帰って来ました。時は五旬節のシーズン、エルサレム神殿には、エルサレムのユダヤ人だけではなく、多くの外国に住むユダヤ人たちが巡礼のために訪れていました。エペソからきたユダヤ人たちもいました。彼らは、パウロがエペソ伝道をしていた頃から、彼のことを目の敵にしていましたので、ありもしない因縁をつけて、事もあろうかエルサレムの神殿内で暴動を起こしました。神殿内部は大混乱に陥りました。これを聞きつけた当時エルサレムを統治していたローマ軍の千人隊長が、兵を率いてすぐに駆け付け、パウロを担ぎ上げて安全な場所(アントニアの塔)まで連れて行き、事なきを得たのですが、その塔の階段を上り切ったところで、パウロは千人隊長に、少し話をしてもいいでしょうかと、丁寧なギリシア語で頼んだのです。彼が教養あるローマ市民だと知った千人隊長は、パウロを信頼し、群衆に話しをするのを許可しました。するとパウロは、群衆の方を向き直ると、今度は流ちょうなヘブル語で話し始めたというのです。群集はしんと静まり返りました。

それにしても、先ほどまで集団リンチをされていた群集を前に話しをしようと思うなんて、パウロという人は、なんて怖いもの知らずなんだろうと、私たちは驚きを通り越してあきれます。せっかくローマ軍に保護され、このまま要塞に入って、事情聴取を受ければ、誤解も解けて解放されるかもしれないのに、どうして、再び向き直って、敵意むき出しの群衆に話そうと思ったのか。

パウロは危機をチャンスに変えることのできる神さまに期待しました。危機と言えば、私たちにとっては、新型コロナウイルスのパンデミックです。世界中の人々にとっても危機でしたし、教会にとっても危機でした。先日もお話ししましたが、多くの教会が集まりをやめ、中にはそのまま教会を閉じてしまったところもあったと聞きます。けれどもこの危機をチャンスに変えた教会の話も聞きます。そんなことを思うと、最近の教会にとっての危機的状況、旧統一協会問題も、私たちキリスト教会にとっては逆風ですが、これさえも、主にあってチャンスに変えられると、私たちは信じて、萎縮することなく、さらに大胆に福音を発信していきたいと思うのです。

 

さて今日は、パウロの弁明というタイトルをつけました。「弁明」というのは、法廷で使われる言葉です。私たちは、クリスチャンとして弁明しなければならない立場に立たされることがあります。「あなたの教会は旧統一協会とどう違うのか」「何を信じているのか」などと聞かれたときに、私たちはどう答えるのでしょうか。いつでも弁明できるように、用意しておかなくてはいけません。Ⅰペテロ3:15~16にはこうあります。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。」弁明というのは議論を吹っ掛けて、相手を言い負かすことではありません。「柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって」語るべきことを語る。それがパウロの弁明であり、私たちの弁明であるべきです。

パウロの弁明は、まずは「皆さんと同じ」というところから始まりました。私たちも自分の信仰について、誰かに紹介するときに、この「皆さんと同じ」というところから始める必要があるでしょう。上から目線で、あなたは何もわかっていない、私こそ真理を知っている、そんな態度では、誰も話しを聞いてくれないからです。パウロははじめ、自分がどんなに律法に熱心なのかを語ります。生まれはキリキアのタルソですが、育ちはエルサレム。またユダヤ人なら誰もが尊敬しているラビ、ガマリエルの元で、律法について厳しく教育を受けたと言っています。「今日の皆さんと同じように、神に対して熱心なもの」だったのです。そして続けてその熱心さについて説明をしています。「この道を迫害し、男でも女でも縛って牢に入れ、死にまでも至らせました。」今のあなたたちと同じです。そしてこう付け加えます。「このことについては、大祭司や長老会全体も私のために証言してくれます。」当時有名なクリスチャンの迫害者だったと言うのです。そしてクリスチャンたちへの敵意は、エルサレムに住む彼らを迫害するだけには止まらず、遠くダマスコにまで行って、彼らを縛り上げ、エルサレムに引いて来て処罰する計画まで立て、実行に移そうするほどだったのだと。私はあなたがたと同じだった。むしろあなたがたよりも熱心だったとパウロは語るのです。

 

ところがその途上で、文字通り「晴天の霹靂」が起こります。6節、パウロが「道を進んで、真昼ごろダマスコの近くまで来たとき、突然、天からのまばゆい光が私の周りを照らしました」とあります。パレスチナの灼熱の太陽の光よりも更にまばゆい光とは何でしょうか。これこそが、「神の栄光」でした。人は「神の栄光」を見てなおも生き続けることはできないと言われているその光です。パウロはまばゆい光を受けて、地に倒れました。そして彼に語りかける声を聞いたのです。「サウロ、サウロ、どうしてわたしを迫害するのか」。パウロは思ったことでしょう。自分が迫害したのはクリスチャンだ。教会だ。しかしこのお方は「わたし」だとおっしゃる。パウロは声の方に顔を上げて尋ねます。「主よ、あなたはどなたですか」。彼はすでに「主よ」と呼んでいます。栄光の光を見たパウロは、この声の主は神、主であるとすでにわかったのです。すると、その方はパウロに言われました。「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである。」使徒の働き9章には、このダマスコ途上の出来事のオリジナル版が記されていますが、そこには、「ナザレの」がありません。パウロに直接語りかける時、「ナザレの」はいりませんでした。しかし今、ユダヤ人の群衆を前にしたときに、「ナザレのイエス」と補足する必要があったのでしょう。「イエス」自体はユダヤではありふれた名前。しかし「ナザレのイエス」と言えば、彼らが十字架に付けたあのお方しかいないからです。

「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである。」とイエスさまはおしゃいました。パウロは直接にはイエスさまを迫害していません。しかし、イエスさまは、わたしを迫害したとおっしゃった。そうなのです。教会を迫害するということは、イエスさまを迫害することなのです。つまり、教会が傷む時に、イエスさまも共に傷んでいたということです。教会が迫害に遭うとき、イエスさまは遠くにおられて、がんばれがんばれと傍観しているわけではない。私たちのすぐそばで、傍らで共に傷んでいるということを私たちは忘れてはいけません。

そして、この出来事は、パウロだけが体験したことでした。9節には、「一緒にいた人たちは、その光は見たのですが、私に語っている方の声は聞き分けられませんでした。」とあります。主は、いつも一人ひとりに語りかけられます。説教を聞く時もそうです。皆さんこうしていっしょに説教に耳を傾けておられますが、説教を聞いた後、分かち合いをすると、神さまがそれぞれに語ってくださるのがよくわかります。主はこうして、みなさん一人ひとりにみことばを通して語られるのです。

 

さて、パウロは主の栄光に打たれて倒れたままイエスさまに聞きました。「主よ、私はどうしたらいいでしょうか」。パウロは今まで、自分の信じるところに従って行動してきました。けれども今彼は「人生の主」に問うのです。「私はどうしたらいいのでしょうか」。イエスさまを主として生きる生き方は、自分のやりたいことをやる人生ではなく、自分のやりがい、自己実現のために生きる人生ではありません。主に問うて生きる人生です。何も自分の好きな事、楽しみを放棄しろと言っているわけではありません。私たちは自由です。けれども、朝ごとに、主日ごとに、「私はどうしたらいいでしょうか」と問いつつ、聖書を開く、祈る、説教を聞く。それが、イエス・キリストを主とするキリスト者の生き方なのです。

「主よ、わたしはどうしたら」の問いに、主はまず、こう答えられました。「起き上がりなさい」。実際パウロは、立ち上がれないぐらい打ちのめされていました。神のため、正義のためとやってきたことが、実は神に歯向かい、悲しませていたのです。クリスチャン作家の三浦綾子さんは、小学校の先生でした。神国日本。天皇は神。将来立派にお国のお役に立つように、国のためにいのちを捨ているようにと熱心に子どもたちを教育しました。ところが終戦を迎え、日本は負け、天皇が人間宣言をし、今まで熱心に教育してきたことは全部間違いだったと子どもたちに告げ、教科書に墨を塗らせたとき、綾子さんは立ち上がれなくなってしまいました。人生投げやりになり、二人の人と同時に結婚の約束をするような自暴自棄な生き方をするようになってしまったのです。ところが彼女は、前川正というクリスチャン青年を通して、イエスさまに出会います。そして「起き上がった」のです。私たちはいつまでも後悔の中にいてはいけません。起き上がりましょう。

そして次にイエスさまは「ダマスコに行きなさい」と言いました。イエスさまは立ち上がった私たちに、方向を示してくださいます。「悔い改め」は「向きを変えること」です。目的地は同じダマスコでした。けれども先ほどまでは、クリスチャンを殺そうとダマスコに向かっていましたが、今は違います。パウロは新しい人になり、新しい人生の出発点としてのダマスコに向かうのです。なぜなら、そこで主は、パウロが「行うように定められているすべてのこと」を告げられるからです。

これがパウロの人生を変えた、「ダマスコ途上」の出来事でした。そう思うと、私たちが日々聖書を開き祈る時、また主日にこうしてみことばに聞く時間は、私たちにとっては、「ダマスコ途上」と言えます。主の前に出て、その光に照らされ、自分の罪、汚れに打ちのめされ、そして「主よ、わたしはどうしたらいいでしょうか」と祈る。すると主は、あなたの罪は赦されている。さあ、起き上がりなさい。あなたが行うよう定められていること、あなたの使命、今日なすべきことをみことばと祈りの中で告げましょう、と私たちに語ってくださるのです。

最後、パウロは目が見えなくなっていたので、ダマスコに行きたくても行けませんでした。ですから一緒にいた人たちが手を引いてくれて、ダマスコに連れて行ってくれたのです。今までは、自分の人生は自分のものでした。自分の力で、自分の意志で歩いてきたパウロでしたが、今、人に手を引いてもらう中で、自分が主導権を握る人生ではなくて、主に主導権を握っていただく人生を学んだのかもしれません。もし私たちが、今日、イエス・キリストを人生の主とし、主に主導権を明け渡し、「私はどうしたらいいのでしょうか」と日々問う人生を生き始めるなら、ここが私たちの「ダマスコ途上」です。


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