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わたしにとどまりなさい(ヨハネの福音書15:1~5)


聖書箇所 ヨハネの福音書 151節~5

説教題「わたしにとどまりなさい」

説教者:山岡浩之実習生(TCU)

 導入

皆様、おはようございます。先週お別れ会をして頂いたにも関わらず、あれ、まだ山岡神学生いるのと思われた方もいるのではないでしょうか?実は私はまだ礼拝の奨励という最後にして最大の奉仕が残っておりました。今日が本当の意味で2024年度実習神学生にとって最後の奉仕となります。改めて最初に一年間の礼拝と交わりの時を感謝させてください。ありがとうございました。

また、本日は最後ということで、どの聖書箇所から語るのが相応しいのだろうかと色々考えました。その中で頭に浮かんできたのはヨハネの福音書にある「まことのぶどうの木」のたとえです。ここはイエス様が神の民の共同体について語っている箇所です。イエス様の弟子たちへの愛が溢れている箇所です。また、イエス様が十字架に架けられる前に弟子たちと取った最後の食事の時に語られたことでもあります。そう考えると今年度最期の奨励としても、イエス様に愛されている新船橋キリスト教会にとっても相応しいみことばだと考えました。今日はこのイエス様の私たちへの愛を共に聞いてまいりましょう。 

1節    わたしはまことのぶどうの木

それでは1節から確認していきましょう。1節「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」。まことのぶどうの木?一体どのような意味だろうかと、このたとえを初めて聞いた人は思うのではないでしょうか?しかし、イスラエルの民にとっては、「ぶどうの木」というのはとてもなじみ深い言葉でした。例えば、旧約聖書で登場するエレミヤという預言者は「純種の良いぶどう」というようにイスラエルをぶどうにたとえました。また、他にも詩篇の作者は、イスラエルは神がエジプトから救い出し、約束の地に植えられた「ぶどうの木」であると言っています。ですから、ユダヤ人であった弟子たちにとって、イスラエル=ぶどうというたとえは、スッと心に入って来るとても分かりやすいたとえであったのです。日本で言えば桜の木のようにぶどうはイスラエルを象徴するものでした。

しかし、一つ疑問があります。イエス様はただのぶどうの木ではなく、なぜ「まことのぶどうの木」なのでしょうか。ぶどうの木とは先ほども話した通り、旧約の時代のイスラエルの民たちを示す言葉です。彼らは神の民として相応しく生きることを望み、また、神にもそのように生きることを望まれながらも、自分たちの力では神の民として完全に生きることが出来ませんでした。この自分たちの力だけでは神の民として完全に生きることが出来なかったということがポイントです。つまり、イスラエルが神の民として完全となるためには、「まことのぶどうの木」であるイエス様が必要だということです。イエス様だけがイスラエルを完全な神の民の共同体として下さるお方であり、生きる力を与えて下さるお方なのです。 

そして、このたとえは同じく神の民の共同体である教会にも当てはめることが出来るでしょう。なぜなら、私たちはイエス様によって罪を赦され、イエス様から力を受けて日々の生活を送り、イエス様によって日々きよめられ、信仰者として成長していくからです。教会の働きや私たちの生活は、すべてイエス様を中心にして、イエス様から力を頂いて行われることであり、それ以外の他の何かに頼っては神の民の共同体である教会は成り立たないのです。

また、私は実習神学生の集まりも小さな神の民の共同体だと思わされました。私たちの実習の中心にはいつもイエス様が共にいて下さいました。今回の実習神学生たちは教団、年齢、性別、生まれた背景とそれぞれに多様性がありました。しかし、イエス様を救い主として信じ、イエス様を中心にして生きるということは皆同じでした。そして、それは今日もイエス様によって集められた新船橋キリスト教会の皆様方も同じなのではないでしょうか?約1年間の交わりでしたが、多様な背景を持つ兄弟姉妹がこの新船橋キリスト教会におられることがよく分かりました。またゲストも良く来ますよね。新船橋キリスト教会は色々な人々が集まれる教会だと私は思います。だからこそ、今日はこの「イエス様を中心にして生きる」ということを改めて覚えたいと思うのです。教会の働き、そして、私たちの生活、生きることすべてはイエス様が中心です。イエス様がいなければ成り立たないのです。そして、そのイエス様によって私たちは一つとされているのです。そして、このように「まことのぶどうの木」であるイエス様を中心にして生きるということは、同時に1節に「わたしの父は農夫です。」とあるように、ぶどう園の農夫である父なる神様のご支配の下で生きることでもあります。 

2節、3節 多く実を結ぶように刈り込をなさる父なる神 

2節「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」これはイエス様に繋がっている私たちが多くの実を結ぶように、農夫である父なる神様が私たちを刈り込まれるということですが、具体的には一体どのような意味なのでしょうか?確認していきましょう。

まず、「実」とは私たちがイエス様と親しく繋がって生きることで、私たちが結ぶ良い行いのことです。具体的には、隣人への愛を示すことや社会においてクリスチャンとして誠実に生きることなどが挙げられます。では、どうしたら私たちはそのような多くの実を結ぶことが出来るのでしょうか?それは「刈り込みをなさいます」とあるように、日々私たちが神様によってきよくされ続けていくことによって実を結ぶ生き方が可能となっていきます。このように神様によってきよくされることを、神学の言葉では聖化と言います。聖書の聖に、変化の化で聖化と書きます。ですがここで疑問も出てきます。私たちはイエス様を信じた後も、日々きよくされ続ける必要があるのでしょうか?私たちはイエス様の十字架の贖いを信じ告白した時にすでにきよくされたはずです。この一回だけでは私たちはきよくされないのでしょうか。

 いいえ、そうではありません。3節で「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」とあるように、私たちはすでにイエス様のみことばを信じたことによってきよくされています。しかし、救われたばかりの私たちはどうだったでしょうか?それは、とてもきよい姿とは言えないような自分だったのではないでしょうか。私も救われたばかりの頃を思い出すと、とても未熟で恥ずかしい姿だったなと思います。私の救いの証を教会実習のはじめに語りましたが、神様に従っていると言いながらも神様のみことばに背いた生き方をしているそのような人間でした。皆さんも救われたばかりの時を思い出して下さい。またこれから救いに与かろうとしている方は、教会に来る前、イエス様と出会う前を思い出して下さい。どうでしょうか?以前は本当に未熟で罪深かった自分、それが、徐々に、教会で、日々の生活で、イエス様と交わりを深め、様々な出来事を通して訓練されることできよめられ、一歩一歩イエス様のお姿に近づいて来たのではないでしょうか。私たちがいま、イエス様を信じる前より、少しでもイエス様のお姿に近づいているのはこのイエス様から受けた力によるのです。このように、父なる神様は、ぶどうの枝を刈込み整えるように、私たちを信仰の完成者であるイエス様に似た姿へときよめて下さいます。そして、これもまた「父が」とあるように、自分の努力では出来ないことであり、ただ「まことのぶどうの木」であるイエス様に「枝」である私たちはとどまる必要があるのです。

4節、5節 イエス様にとどまる

ですから、イエス様はこう言われます。4節、5節「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」その通りです。イエス様を離れては、私たちは何もできないのです。今日、私は改めて「アーメンそうです、その通りですイエス様」と思います。

そして、これはお勧めではなく「わたしにとどまりなさい」とあるように、イエス様からの命令です。つまり積極的にイエス様にとどまろうという姿勢をイエス様は私たちに求めておられるのです。しかし、「とどまる」と聞くと、じっと忍耐して一つのところで我慢するというイメージがあって嫌だなと思う方もおられるかもしれません。ですが、この「とどまる」という言葉は、新約聖書が書かれた言葉である古代ギリシャ語では他にも「滞在する」とか、「住み続ける」というように使用されることがある言葉でもあります。例えば皆さんは人の家に滞在する時、じっと同じ場所にいるということはないはずです。そこでは、お風呂に入ったり、一緒に食事をしたり、テレビを見たり、ゲームをして遊んだりという交わりがあるはずです。 

私たち実習神学生もこの一年間の間に、新船橋キリスト教会で様々な交わりを持たせていただきました。主日礼拝、水曜日の齋藤家での祈祷会、クリスマスの賛美集会のトラクト配布、ハレルヤタイム、フードシェアと数えきれないほど多くの楽しい愛のある交わりを持たせていただきました。同じ様にイエス様にとどまるということも、ただじっとして、我慢して、必死で留まるということではないのです。イエス様にとどまることには喜びがあります。礼拝や、祈り、そして生活の中で、イエス様と楽しく交わり、その中で、イエス様と共に生きることをこの箇所は私たちに教えているのです。このようにして私たちは多くの実を結びます。繰り返しますが私たちはイエス様を離れては何もできません。なぜなら、イエス様は「まことのぶどうの木」であり、私たちはイエス様に繋がることでいのちを得る「枝」だからです。私たちはこれからもイエス様にとどまり続けることで、この祝福を受け取り続けてまいりましょう。

結び 

結びます。今日、主は私たちに「キリストにとどまる」ことを命じています。これは「やってみて」というお願いでも、「こうしたらいいよ」というお勧めでもなく、これはイエス様から私たちへの命令です。しかし、確認してきたように、私たちは自分たちの力ではキリストにとどまることは出来ません。けれども、恐れることはありません。まことのぶどうの木であるイエス様に祈り求めるのであればこのことも私たちに必ず与えられます。なぜなら、これはイエス様ご自身が私たちに求めておられることだからです。イエス様は私たちに必要なものを必ず与えて下さるお方です。

また、今日の聖書箇所を読んで気付かれた方もいると思いますが、今日の聖書箇所では一貫して、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」というようにわたしとあなたがたという関係が繰り返し強調されています。なぜなら、イエス様との関係は、イエス様と私という一対一の個人的な関係だけでなく、神の民の共同体である教会として、私たちが「互いに愛し合い」ながらイエス様と共に生きるということが一対一の関係と同じ様に大切だからです。さきほども申し上げましたが、新船橋キリスト教会は様々な年齢、仕事、国籍と非常に多様性のある背景の人々がイエス様によって集められている教会だと思います。その様な中で一人一人が深く交わるということは、決して簡単ではないかもしれません。しかし、この一年間の交わりの中で新船橋キリスト教会の兄弟姉妹達は一人一人がまずイエス様を中心にして生きておられる方々であると私は思いました。ですから、そのようなイエス様を中心にして生きる兄弟姉妹達が、まことのぶどうの木であるイエス様に繋がっている枝として、今後もそれぞれが自分の与えられている良い実を、他の兄弟姉妹のために自分から喜んで用いることで、互いに愛し合い続けていってほしいと、今日私はみことばを取り次ぎながら心から神様に願っています。

なぜなら、イエス様のみことばに従って互いに愛し合うこと、その愛によってイエス・キリストの福音がこの新船橋からそして世界へ伝えられていくからです。これからも場所は違えども、イエス様の福音を共に証ししてまいりましょう。 

お祈り 

恵み深い私たちの天の父なる神様。今日はまことのぶどうの木のたとえから、イエス様にとどまること、そして互いに愛し合うことを確認いたしました。どれも私たちの力だけでは出来ませんが、イエス様あなたに繋がって生きるのであれば全てのことが出来ると信じます。どうか今日ここに集められているキリストにとどまり続けている枝である兄弟姉妹一人一人がイエス様に愛されている神の民の共同体として互いに愛し合いながら、キリストの福音をこの世界に現わし続けていくことが出来ますように今後も変わらず良いお導きをお願いいたします。このお祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン



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