スキップしてメイン コンテンツに移動

「見ないで信じる」(ヨハネの福音書20:19~29)


「見ないで信じる」

ヨハネの福音書20章19~29 

1.      今日のお話のテーマは、「見ないで信じる」です。みんなは、見ないで信じるのは得意ですか?私は苦手です。そしてすぐに「証拠見せてよ!」と言います。今日のお話に出てくるトマスさんは、そんな先生にそっくりな人です。

2.      イエスさまは、神さまなのに、この地上に人間になって生まれてくださいました。みんなと同じように、おぎゃあ、おぎゃあと生まれて、おっぱい飲んで、おむつを替えてもらって、1歳ぐらいで歩けるようになって、そうやって大きくなったのです。そして30歳で、神さまのお仕事を始めました。神さまのお仕事というのは、「みんな神さまに愛されてるよ。自分勝手に生きないで、神さまのところに帰ろうよ」と呼びかけるお仕事です。そして、神さまがどんなにみんなのことを愛しておられるかをいつも語り、病気の人がいれば治してあげて、さびしい人のお友だちになってあげました。そうやって、神さまの愛を見せたのです。

3.      ところが、人々は、イエスさまが神さまの子だということを信じません。それどころが、自分を神の子だなんていうイエスは悪い奴だ!と言って、「死刑にしろ!」「十字架につけろ!」と言って、

4.      とうとう十字架につけてしまいました。こうしてイエスさまは、悪いことは何もしていないのに、それどころかいいことばかりしてきたのに、十字架につけられて殺されてしまったのです。

5.      イエスさまの遺体は、布でぐるぐる巻かれて、お墓の中に納められました。そして、大きな石で蓋をされたのです。

6.      そして、このお墓の前には、番兵が置がいて、だれもイエスさまの遺体を盗まないように、厳重に見張りをしていました。ところが…、

7.      3日目の朝に、イエスさまの女のお弟子さんたちが、お墓の前に行ってみると、お墓の前の石が取り除けられていて、イエスさまの遺体がそこになかったのです!ところが、そこに天使が現れて、「イエスさまはここにはいませんよ。よみがえられたのです。このことを他のお弟子さんたちに伝えなさい」と言いました。

8.      男のお弟子さんたちは、みんなしょんぼりしています。女の人が「イエスさまはお墓にいませんよ。よみがえったのです!」と言っても、だれも信じません。「これからどうする?」「見つかったら俺たちも捕まるのかな…」なんて言いながら、びくびくして一つのお部屋にいました。

9.      「あーあ、俺たちってだめだめだったよな~。イエスさまが捕まるとき、怖くて逃げちゃったんだよな~」「俺なんか、イエスさまが裁判をしている中庭まで行ったんだけどさ、そこで、『あなたもイエスの仲間でしょ』って言われて、思わず、そんな人全然知らない!」って言っちゃったんだよな~」「イエスさまの遺体はどこに行っちゃったんだろうね。だれが盗んだんだろうね」そんなことを言いながら、過ごしていました。

10.  すると、「シャローム!(平安がありますように、大丈夫、大丈夫、安心してね)」とイエスさまが、みんなの真ん中に立たれました。みんなびっくりです!えっ?ちゃんとドアには鍵がかかっていたのに!イエスさまは、きょとんとしているお弟子さんたちに、十字架にかかったときのけがを見せてくれました。ほら見てごらん。ここに傷跡があるでしょ?(手の傷をみせて)ほらここにも(脇腹の傷を見せて)。

11.  でも、困ったことが起こりました。その場にいなかった人がいました。トマスさんです。トマスさん、どこにいっていたんでしょうか。ちょっと買い物に出ていたのか、長いトイレに行っていたのか…。とにかくトマスがいないときにイエスさまが来たのです。そしてトマスが帰ってきました。「おい、トマス! お前どこに行ってたんだ! 今イエスさまが、シャローム!って言って、ここの真ん中に立たれたんだぞ。手のくぎの後を見せてさ。イエスさまは復活したんだよ!生きておられんだ!」

「えっ?なんだって!イエスさまが現れた?ぼくのいないときに!うそだろ?なんだよ、よりによって、ちょっと席を外したすきに…。お前たちばっかり。」「もう、うるさいな。ふん!おれは信じないぞ。イエスさまのからだの手や足の釘あとを見ないとね。あと、脇腹にローマの兵隊に槍で刺された傷があるはずだよ。あれを見ないと。いや、見るだけじゃない、触ってみないと信じないよ!!」

12.  「ちぇ、なんだよ、ぼくがいないときに…」「ぼくだって、イエスさまに会いたかったよ」「なんでイエスさまは、ぼくのいないときに来たんだよ…」

13.  「あれのせいかな…。イエスさまのお友だちのラザロが死んだとき、イエスさまはエルサレムに行くっておっしゃった。そのときみんなは、危険だからってイエスさまを止めたんだ。

14.  でも、ぼくは言った。「いや、私たちも行って、主と一緒に死のうではないか!」それなのに、ぼくは、自分の命が惜しくて、イエスさまを見捨てて逃げたんだ!

15.  いや、でもイエスさまは、ぼくのこと愛してくれていた。けっしてぼくを避けてるわけじゃない…。きっとぼくがいるときに、もう一度現れてくれる! 待とう。よし、待つぞ! イエスさまがぼくに現れてくれるまで待つ!」こうして、一日がたち、二日たち、三日、四日。全然来ないな…。五日、六日、七日…。

16.  そして、八日目。「シャローム!」イエスさまが現れたのです。またも、ドアのカギは締まっていたのに、みんなの真ん中にすっと立たれました。

17.  そして、イエスさまは、振り返ってじっとトマスを見つめました。トマスはドキッとしました。イエスさまの目はきよらかで、やさしくて、思わずトマスは目を伏せました。「トマス、さあ、あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

18.  トマスは、思わずイエスさまの方に駆け寄り言いました。「私の主!私の神!」イエスさまは言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

みんなは、どう思う?トマスは、イエスさまがよみがえったっていうことを信じられなかったのかな?他のお弟子さんたちが、みんな見たって言うのだから、本当によみがえったイエスさまがこのお部屋に来たってことは、まあ、そうなんだろうな~と思ったんじゃないかなって先生は思うのです。お弟子さんたちがみんなして、トマスをだまそうとしてる…なんてありえないからね。じゃあ、トマスは何を信じられなかったのか。先生は、イエスさまの愛が信じられなくなっちゃったんじゃないかなって思う。イエスさまが、自分のいないときに現れたってことは、自分のことを怒っているんじゃないのか、もう自分のことなんて見捨てたんじゃないかな…、そんな風に思ったと思うの。だから意固地になって、「見ないと信じない!」「触らないと信じない!」って言ったんじゃないかな。でも、トマスはイエスさまを信じたかったのよね。だから、待った。「絶対ぼくにも現れてくれる!ぼくのこときらいになってない!ぼくのこと捨てない!」そう信じて待ったんだよ。そうしたら、イエスさまは、本当にトマスに現れてくださった。そして、他の人にはできないチャレンジを与えたよ。それは、見ないで信じること。他のお弟子さんは、みんな見て信じたんだよ。でも、トマスだった。トマス、君なら見なくても信じられるよね。わたしの愛を疑わないで信じて待てるよね。

19.  みんなも、イエスさまが見えなくなることあるかな?いじめにあっとき。お父さん、お母さんとうまくいかないとき、受験に失敗したとき、フラれちゃったとき、病気になったとき。ああ、イエスさまが見えない!本当にイエスさまは私のこと愛してるの?もう自分は見捨てられちゃったの?そう思うとき。トマスのことを思い出してほしい。イエスさまはあなたにも言っています。「見ないで信じなさい。待つかもしれないけど、ぜったいあなたの祈りに答えるから。わたしの愛は変わらないから。信じていいんだよ。」

20.  暗唱聖句

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」ヨハネの福音書2029 


コメント

このブログの人気の投稿

人生の分かれ道(創世記13:1~18)

「人生の分かれ道」 創世記13:1~18 さて、エジプト王ファラオから、多くの家畜や金銀をもらったアブラムは、非常に豊かになって、ネゲブに帰って来ました。実は甥っ子ロトもエジプトへ同行していたことが1節の記述でわかります。なるほど、エジプトで妻サライを妹だと偽って、自分の命を守ろうとしたのは、ロトのこともあったのだなと思いました。エジプトでアブラムが殺されたら、ロトは、実の親ばかりではなく、育ての親であるアブラムまでも失ってしまうことになります。アブラムは何としてもそれは避けなければ…と考えたのかもしれません。 とにかくアブラム夫妻とロトは経済的に非常に裕福になって帰って来ました。そして、ネゲブから更に北に進み、ベテルまで来ました。ここは、以前カナンの地に着いた時に、神さまからこの地を与えると約束をいただいて、礼拝をしたところでした。彼はそこで、もう一度祭壇を築き、「主の御名を呼び求めた」、つまり祈りをささげたのです。そして彼らは、その地に滞在することになりました。 ところが、ここで問題が起こります。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。理由は、彼らの所有するものが多過ぎたということでした。確かに、たくさんの家畜を持っていると、牧草の問題、水の問題などが出てきます。しかも、その地にはすでに、カナン人とペリジ人という先住民がいたので、牧草や水の優先権はそちらにあります。先住民に気を遣いながら、二つの大所帯が分け合って、仲良く暮らすというのは、現実問題難しかったということでしょう。そこで、アブラムはロトに提案するのです。「別れて行ってくれないか」と。 多くの財産を持ったことがないので、私にはわかりませんが、お金持ちにはお金持ちの悩みがあるようです。遺産相続で兄弟や親族の間に諍いが起こるというのは、よくある話ですし、財産管理のために、多くの時間と労力を費やさなければならないようです。また、絶えず、所有物についての不安が付きまとうとも聞いたことがあります。お金持は、傍から見るほど幸せではないのかもしれません。 1900年初頭にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、略して『プロ倫』という論文を出しました。そこに書かれていることを簡単にまとめると、プロテス...

まいごのひつじ(ルカの福音書15:1~7)

①「不良ひつじのジョニー」 みことば:ルカの福音書15: 1~7   ②ひつじ園という羊の牧場があります。 ここで羊たちは毎日遊んだり勉強したりお仕事したりしながら暮らしています。 お仕事と言っても、毛を刈ってもらったり、お乳を搾ってもらったり、お世話されることがお仕事です。 強いて言えば、もぐもぐたくさん食べることが、ひつじさんたちの一番のお仕事かもしれません。 ここには羊飼いのおじさんがいて、いつも悪いオオカミから守ってくれて、おいしい草がたくさんあるところに連れて行ってくれるので安心です。 ときどき、ひつじ同士ケンカすることもあるけれど、おじさんが助けてくれるので、みんな平和に暮らすことができます。   ③ひつじ園には一匹の不良羊がいます。 名前はジョニーです。 ジョニーはいつもイライラしています。 だから他の羊たちはジョニーが苦手です。 ジョニーに近づくといじめられてしまうので、みんなジョニーから遠くに離れてしまいます。   ④ジョニーは自分よりも力の弱い羊をいじめたり、仕事をさぼったり、他の羊のお菓子をとったり、いつも自分勝手です。 「フン!強い者が一番偉いんだぜ! お利口さんなんてかっこ悪いぜ! 俺は別に友だちなんかいらないぜ!」 ジョニーはそう言って暴れます。   ⑤ある日、羊飼いのおじさんが羊たちに言いました。 「今日はみんなで隣の草原に遠足に行きまーす。 みんな列になってついてきてくださーい。」 わーい。羊たちは大喜びです。 隣の草原には、とっても美味しいクルクル草があるのです。 でもジョニーは… 「ケッ。かったるいなー」 またブツブツ文句を言っています。 ⑥みんなでゾロゾロと列になって隣の草原に向かいます。 しかしジョニーは、 「みんなでチンタラ歩きたくねーぜ! 俺はバイクで行くぜ!」と言って、 自分だけバイクに乗ってビューンと行ってしまいました。 「おーい!ジョニー!道はちゃんと分かるのか~?」 ひつじかいのおじさんは叫びますが、 「へっ。隣の草原なんてしょっちゅう一人で行ってるんだぜ。 道ぐらい分かるに決まってるぜ!」 ジョニーはそう言って走って行ってしまいました。 ...

心から歌って賛美する(エペソ人への手紙5:19)

「心から歌って賛美する」 エペソ人への手紙5:19 今年の年間テーマは、「賛美する教会」で、聖句は、今日の聖書箇所です。昨年2024年は「分かち合う教会」、2023年は「福音に立つ教会」、2022年や「世の光としての教会」、2021年は「祈る教会」、 20 20年は「聖書に親しむ教会」でした。このように振り返ってみると、全体的にバランスのとれたよいテーマだったと思います。そして、私たちが、神さまから与えられたテーマを1年間心に留め、実践しようとするときに、主は豊かに祝福してくださいました。 今年「賛美する教会」に決めたきっかけは二つあります。一つは、ゴスペルクラスです。昨年一年は人数的には振るわなかったのですが、個人的には、ゴスペルの歌と歌詞に感動し、励ましを得た一年でもありました。私の家から教会までは車で45分なのですが、自分のパートを練習するために、片道はゴスペルのCDを聞き、片道は「聞くドラマ聖書」を聞いて過ごしました。たとえば春期のゴスペルクラスで歌った「 He can do anything !」は、何度も私の頭と心でリピートされました。 I cant do anything but He can do anything! 私にはできない、でも神にはなんでもできる。賛美は力です。信仰告白です。そして私たちが信仰を告白するときに、神さまは必ず応答してくださいます。 もう一つのきっかけは、クリスマスコンサートのときの内藤容子さんの賛美です。改めて賛美の力を感じました。彼女の歌う歌は「歌うみことば」「歌う信仰告白」とよく言われるのですが、まさに、みことばと彼女の信仰告白が、私たちの心に強く訴えかけました。   さて、今日の聖書箇所をもう一度読みましょう。エペソ人への手紙 5 章 19 節、 「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」 「詩と賛美と霊の歌」というのは何でしょうか。「詩」というのは、「詩篇」のことです。初代教会の礼拝では詩篇の朗読は欠かせませんでした。しかも礼拝の中で詩篇を歌うのです。確かにもともと詩篇は、楽器と共に歌われましたから、本来的な用いられ方なのでしょう。今でも礼拝の中で詩篇歌を用いる教会があります。 二つ目の「賛美」は、信仰告白の歌のことです。私たちは礼拝の中...