スキップしてメイン コンテンツに移動

荒野で叫ぶ者の声(ヨハネの福音書1:19~28)


「荒野で叫ぶ者の声」

ヨハネの福音書1:19~28

 アドベントに入りました。アドベントというのは、日本語では「待降節」と言い、クリスマス主日までのイエス・キリストの誕生を待ち望む期間を意味します。アドベントの語源はラテン語の「Adventus(到来)」で、英語の「Adventure(冒険)」の由来になります。神が人となり、地上に生まれてくださる。これほどのアドベンチャーがあるでしょうか。そいう言う意味で、私たちは、このアドベントの期間をわくわく、どきどきする思いで過ごしたいと思うのです。

今日の登場人物は、イエスさまのご降誕を、わくわく、どきどきしながら待ち、イエスさまの通られる道を整えた最後のメシア預言者ヨハネです。ご存じのようにヨハネは、祭司ザカリヤ、また、イエスさまの母マリアの親戚、エリサベツの子どもとして生まれました。彼は生まれる前から、イスラエルが待ち望んでいたメシア(救世主)が、間もなく来られるということ、また彼はそのための道備えをするという使命が与えられていることを知らされて育ちました。親はそのように、ヨハネに特別の教育をしましたし、本人にもその自覚がありました。

子どもが生まれてくるときに、その子のアイデンティティの確立を助けてあげることは、とても大切なことです。「あなたは、何者なのか。何のために生まれてきたのか、生きる目的は何なのかを、親は子どもに教える必要があるのです。私も時々、「性教育」や「子育て」というテーマで講演をすることがありますが、このことをとても大切しています。子どもの人格教育は、子どもがおなかにいるときから始まっています。「あなたは、神さまから愛されているよ」「お父さん、お母さんもあなたを愛しているよ」「あなたの誕生を待っているよ」「あなたは、私たちの宝物だよ」「神さまの宝物だよ」「世界はあなたの誕生を待っているよ」「あなたは神さまの子どもだよ」。現代、多くの人は自分が何者かわからないで、心病んでいます。アイデンティティクライシスです。「あなたは神さまの子ども」「あなたは天地万物を創られた王なる神さまの王子、王女様」「あなたは高価で貴い」「あなたは愛されている」私たちは子どもたちをそうやって育てたいものです。

さて、前置きが長くなりました。ヨハネは、明確なアイデンティティを持っていました。ですから、当時の「ユダヤ人たち」つまり、宗教指導者たち(パリサイ人)が、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか?(Who are you?)」と聞いた時に、きっぱりと答えることができました。「私はキリストではありません。」それがヨハネの答えです。当時、ヨハネの人気は絶大でした。彼の評判についての歴史的文書は、たくさん残っていて、当時はちょっとした旋風を巻き起こしていました。ですから、祭司、レビ人たちの「あなたは誰か?」との問いは、実は、「あなたはキリスト、つまりユダヤ人が待望しているメシア(救世主)か?」という問いだったのです。ヨハネは、それに対してきっぱりと答えます。「私はキリストではありません」と。祭司、レビ人たちは、これで帰るわけにはいかないと、質問を続けます。あなたはエリヤですか?ヨハネはこれにも「違います」と答えます。メシアが来る前には、まずエリヤが来て予告すると言われていましたので、ある意味、ヨハネは、「エリヤの再来のようなものだ」と答えてもよかったと思うのですが、もしここでそのように答えてしまえば、人々の注目を集め、ますますもち上げられてしまうことを恐れて、きっぱりと「違います」と答えたのです。すると、祭司、レビ人たちは、更に聞きます。「では、あの預言者ですか?」。「あの預言者」とは、モーセが語った預言者のことです。申命記18章15節で、モーセはこのように言いました。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」ですから、「あの預言者」というのは、モーセのような預言者のことです。これに対しても、ヨハネは「違います」ときっぱりと否定しました。これはヨハネにとって大きな誘惑でした。そうです。イエスさまも公生涯の初めに荒野でサタンの誘惑にあいました。サタンは、こうして、巧妙に神さまの使命を果たそうとする人を誘惑します。もし、この時、ヨハネが少しでも、自分を前面に出したらどうなっていたでしょうか。最近はやっている言葉に「承認欲求」というものがありますが、もしヨハネが、自分を見てほしい、自分を認めてほしいという誘惑に駆られて、「そういう面もあります。」「そうとも言えます。」というような、あいまいな答えをしたら、どうなったでしょうか?イエスさまが受ける栄光を少しでも自分に当てたらどうなったでしょうか。彼は、メシアに仕立て上げら、それこそ「教祖」のようになっていたかもしれないのです。ですから、彼はきっぱりと宣言しました。「私はキリストではない」「違います」「違います」と。人類の救いについて、私は全く関係ない。「救い」についてできることは何もない。「救い」については、それをなされるお方がおられる。その方が来られる。私はその準備をするだけなのだと言うのです。

22-23節「あなたは誰ですか。私たちを遣わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか」ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」 「私は声」人格さえ持たない単なる「声」。「伝える」だけの存在。駅伝のとき、沿道には多くの観戦者や応援団が先頭を走る選手を待っています。その時に、声がします。「来るぞ!来るぞ!先頭の選手が来るぞ!」そう叫ぶ声です。その時、だれもその人には注目しません。人々の目線は、その声を越えて、こちらに走って来るはずの先頭選手を捉えようと、目を凝らすのです。自分はそのような「声」なのだと、ヨハネは言うのです。それでいい。それがいい。それが自分の役割であり、使命なのだから。

ヨハネは続けて言います。26-27節「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとに来られる方で、私にはその方の履物の紐を解く値打ちもありません。」 「水のバプテスマ」、それは悔い改めときよめを象徴しています。私たちの王が来られる、そのお方は、私たちを罪の縄目から救い、新しいいのちをお与えくださるお方。だから、深い罪の自覚の中で、悔い改めをもって、このお方を待つのです。それが私の役目なのだからとヨハネは言います。

また、「私は、そのお方の靴の紐を解く値打ちもない」とヨハネは言います。靴の紐をほどくというのは、当時、奴隷の仕事でした。けれども、ヨハネは、自分はイエスさまの奴隷の仕事の一つを担う資格もないのだと言うのです。どこまでも、自分を小さくします。謙遜です。ヨハネの風貌は、ラクダの毛衣を着て、野蜜とイナゴを食べ、荒野に住んでしました。非常にストイック(厳格)で、清貧で素朴な生活です。それが彼のスタイルで、多くの人は、この厳格かつ清貧なヨハネのことを尊敬していたのです。ところが、そのヨハネが「靴の紐を解く値打ちもない」と言った、当の本人、イエスさまは、厳格かつ清貧からは程遠い人でした。「食いしん坊の大酒飲み」と言われたこともあります。イエスさまの周りにいたのは、罪人と呼ばれる取税人、遊女、宗教的に汚れていると言われる病気の人たちでした。そして多くの厳格な宗教家たちは、そんなイエスさまにつまずいたのです。けれども、ヨハネは自由人のイエスさまに躓きませんでした。彼は、自分が何者か、自分の役割と使命を心得ていたので、イエスさまへの誹謗中傷を聞いても、動じることは全くなかったのです。ヨハネは、自分が何者か、何のために生まれてきたのか、自分は何をするべきなのかを明確に知っていたからです。そして、自分の役割を淡々と果たしたのです。

イエスさまご自身もそうでした。神の子救い主としての使命が明確でした。そして、時満ちて、この地上にお生まれになりました。イエスさまが生まれた目的は、受難と十字架と復活でした。地上の生涯で一度も罪を犯すことなく、その生涯を全うし、人としての弱さと苦悩を体験することによって、堕落した世で、人として生きることはこういうことなのかと、身をもって経験し、人を愛し、憐みつつ、その生涯を全うしました。そしてその最後は、人の罪を一身に背負い、贖いの死をとげたのです。そして、三日目に墓からよみがえり、その使命を完全に全うされました。クリスマスは、イエスさまがご自身に与えられた使命を全うするための第一歩だったのです。今日の牧会コラムに書いたように「十字架への歩みを始めたその夜」でした。

私たちはどうでしょうか。私たちは「あなたは何者なのか」の問いに何と答えるのでしょうか。正解を言いましょう。「私は神に愛されている神の子どもです」と答えればいいのです。「神の子ども」それを私たちのアイデンティティです。また、私たちの使命は何でしょうか。「使命」をは「命を使う」と書きます。私たちは何のために命を使うのでしょう。自分を楽しませるためでしょうか?自分の家族を幸せにするためでしょうか。社会に貢献することでしょうか。どれもとてもいい使命です。命を使う価値があることでしょう。けれども、これらを究極の使命にするなら、私たちは行き詰まることでしょう。自分も家族も社会も、私たちがどんなにそこに命を使っても、満たされることはないからです。では、私たちは、何のために命を使うべきなのでしょう。それは「神さまの栄光を映し出すこと」です。ウエストミンスター小教理問答では、「神の栄光をあらわすため」と表現しています。私たちは、神さまの善さを、神さまの愛を、神さまのあわれみを、神さまのきよさを映し出すために生かされているのであり、それが私たちの使命です。

先日「心の時間」という番組で、神戸の「マナ助産院」の院長、永原郁子さんのドキュメンタリー(インタビュー番組)を見ました。彼女は、産みたくても産めないお母さんと赤ちゃんの命を守るために、「いのちのドア」を始めました。彼女は最後にこんなことを言っていました。「私は、毎朝こう祈ります。『主よ。今日も、私がするべきことを教えてください。今日一日、あなたが私にしてほしいと思っておられることをすることができますように。私の命を何に使ったらいいのか、教えてください」そして彼女は言うのです。「私の人生は、神さまに運ばれ、転がされてきた人生だと思う。自分では何もしていない。」私たちもそんな生き方をしませんか。このアドベント、私たちは、何者なのか、何のためにこの命を使うのかを祈りつつ、考えつつ過ごしませんか。祈ります。


コメント

このブログの人気の投稿

人生の分かれ道(創世記13:1~18)

「人生の分かれ道」 創世記13:1~18 さて、エジプト王ファラオから、多くの家畜や金銀をもらったアブラムは、非常に豊かになって、ネゲブに帰って来ました。実は甥っ子ロトもエジプトへ同行していたことが1節の記述でわかります。なるほど、エジプトで妻サライを妹だと偽って、自分の命を守ろうとしたのは、ロトのこともあったのだなと思いました。エジプトでアブラムが殺されたら、ロトは、実の親ばかりではなく、育ての親であるアブラムまでも失ってしまうことになります。アブラムは何としてもそれは避けなければ…と考えたのかもしれません。 とにかくアブラム夫妻とロトは経済的に非常に裕福になって帰って来ました。そして、ネゲブから更に北に進み、ベテルまで来ました。ここは、以前カナンの地に着いた時に、神さまからこの地を与えると約束をいただいて、礼拝をしたところでした。彼はそこで、もう一度祭壇を築き、「主の御名を呼び求めた」、つまり祈りをささげたのです。そして彼らは、その地に滞在することになりました。 ところが、ここで問題が起こります。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。理由は、彼らの所有するものが多過ぎたということでした。確かに、たくさんの家畜を持っていると、牧草の問題、水の問題などが出てきます。しかも、その地にはすでに、カナン人とペリジ人という先住民がいたので、牧草や水の優先権はそちらにあります。先住民に気を遣いながら、二つの大所帯が分け合って、仲良く暮らすというのは、現実問題難しかったということでしょう。そこで、アブラムはロトに提案するのです。「別れて行ってくれないか」と。 多くの財産を持ったことがないので、私にはわかりませんが、お金持ちにはお金持ちの悩みがあるようです。遺産相続で兄弟や親族の間に諍いが起こるというのは、よくある話ですし、財産管理のために、多くの時間と労力を費やさなければならないようです。また、絶えず、所有物についての不安が付きまとうとも聞いたことがあります。お金持は、傍から見るほど幸せではないのかもしれません。 1900年初頭にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、略して『プロ倫』という論文を出しました。そこに書かれていることを簡単にまとめると、プロテス...

心から歌って賛美する(エペソ人への手紙5:19)

「心から歌って賛美する」 エペソ人への手紙5:19 今年の年間テーマは、「賛美する教会」で、聖句は、今日の聖書箇所です。昨年2024年は「分かち合う教会」、2023年は「福音に立つ教会」、2022年や「世の光としての教会」、2021年は「祈る教会」、 20 20年は「聖書に親しむ教会」でした。このように振り返ってみると、全体的にバランスのとれたよいテーマだったと思います。そして、私たちが、神さまから与えられたテーマを1年間心に留め、実践しようとするときに、主は豊かに祝福してくださいました。 今年「賛美する教会」に決めたきっかけは二つあります。一つは、ゴスペルクラスです。昨年一年は人数的には振るわなかったのですが、個人的には、ゴスペルの歌と歌詞に感動し、励ましを得た一年でもありました。私の家から教会までは車で45分なのですが、自分のパートを練習するために、片道はゴスペルのCDを聞き、片道は「聞くドラマ聖書」を聞いて過ごしました。たとえば春期のゴスペルクラスで歌った「 He can do anything !」は、何度も私の頭と心でリピートされました。 I cant do anything but He can do anything! 私にはできない、でも神にはなんでもできる。賛美は力です。信仰告白です。そして私たちが信仰を告白するときに、神さまは必ず応答してくださいます。 もう一つのきっかけは、クリスマスコンサートのときの内藤容子さんの賛美です。改めて賛美の力を感じました。彼女の歌う歌は「歌うみことば」「歌う信仰告白」とよく言われるのですが、まさに、みことばと彼女の信仰告白が、私たちの心に強く訴えかけました。   さて、今日の聖書箇所をもう一度読みましょう。エペソ人への手紙 5 章 19 節、 「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」 「詩と賛美と霊の歌」というのは何でしょうか。「詩」というのは、「詩篇」のことです。初代教会の礼拝では詩篇の朗読は欠かせませんでした。しかも礼拝の中で詩篇を歌うのです。確かにもともと詩篇は、楽器と共に歌われましたから、本来的な用いられ方なのでしょう。今でも礼拝の中で詩篇歌を用いる教会があります。 二つ目の「賛美」は、信仰告白の歌のことです。私たちは礼拝の中...

ヘロデ王の最後(使徒の働き12:18~25)

「ヘロデ王の最後」 使徒の働き12:18~ 25   教会の主なるイエス・キリストの父なる神さま、尊い御名を賛美します。雨が続いておりますが、私たちの健康を守り、こうして今週もあなたを礼拝するためにこの場に集わせて下さり心から感謝します。これからみことばに聞きますが、どうぞ御霊によって私たちの心を整えてくだり、よく理解し、あなたのみこころを悟らせてくださいますようにお願いします。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン   エルサレム教会では、それまでのユダヤ人からの迫害に加えて、その当時領主としてエルサレムを治めていたヘロデ王(ヘロデ・アグリッパ 1 世)からの弾圧も加わり、まずは見せしめとして使徒ヤコブが殺されました。それがユダヤ人に好評だったので、ヘロデ王はさらにペテロも捕らえ、投獄しました。ところが公開処刑されることになっていた日の前の晩、獄中にみ使いが現れ、厳重な監視の中にいるペテロを連れ出したのでした。ペテロのために祈っていた家の教会は、はじめはペテロが玄関口にいるという女中ロダの証言を信じなかったのですが、実際にペテロの無事な姿を見て大喜びして神を崇めたのでした。ペテロは事の一部始終を兄弟姉妹に報告して、追手が来る前にそこから立ち去りました。   「朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間で大変な騒ぎになった。ヘロデはペテロを捜したが見つからないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じた。そしてユダヤからカイサリアに下って行き、そこに滞在した。」( 18 ~ 19 節)   結局番兵たちは朝になるまで眠りこけていたようです。朝起きてみると鎖が外れており、ペテロがいなくなっていました。 4 人ずつ 4 組、 16 人いたという兵士たちは、おそらくエルサレムの城門をロックダウンし、都中を駆け巡りペテロを捜しますが、もう後の祭りでした。こうしてペテロはまんまと逃げきったのです。 3 年ほど前「逃げ恥」というドラマが流行りました。これはハンガリーのことわざ「逃げるは恥だが役に立つ」から来ていますが、確かに私たちの人生で、逃げた方がいい場面というのは少なからずあります。特に自分の命を守るために逃げることは恥ずかしいことでもなんでもありません。そういえばイエスさまの...