『目を上げて、ともに喜ぶ』 ヨハネ4章27-38節
はじめに
23節(読む)
この時、イエスさまは、サマリアの女性と話していました。それは普通ではないことでした。当時のユダヤ人はサマリア人と絶縁状態で、話すらしなかったのです。
この女性は、いわゆる「わけありの人」です。バツイチどころか、バツゴ、かつて五人の夫がいて、今一緒に暮らしているのは夫ではない男性。人からは陰口を言われ、人目を避けながら生きていたようです。一方で心はカラカラに乾ききっていました。生命の潤いを必要としていました。
イエスさまはその女性に福音を語ったのです。そして霊とまことの礼拝に導き、救い主キリストであることを明らかにされたのでした。
1.
キリストに出会ったあとで
25-26節(読む)
このようにしてサマリアの女性はキリストと出会いました。「キリストに出会う」ことは特別なことです。その出会いには人を決定的に変えていく力がある。彼女もそうでした。しかもその変わりようが見事です。
28-29節(読む)
これまで人目を避けてきた彼女が、水がめをその場に置き、町に急いで人々にキリストに出会ったと告げていく。もう人目を避ける後ろめたさはもうありませんでした。「来て、見てください」とやや興奮気味です。そしてあふれる思いで語り出す。「もしかすると、この方がキリストなのでしょうか」。もしかすると、という言葉遣いとは裏腹に、口調は確信に満ちています。皆さん、これが「証し」というものです。キリストに出会った喜びに心が動かされ、もう語らずにはいられない。そういう証しには人を動かす力があるのです。そうやって動かされた人々は一人や二人ではありませんでした。大勢が押し寄せるようにしてイエスさまのもとに集まり、彼らもまたキリストに出会って変えられていくのです。キリストとの出会いは人を変え、そして他の人にも広がっていくのです。
どうかこれを、サマリアの女性だけに起こった特別な出来事だと思わないでください。私たちにも実は、このように他の誰かに語ることのできる証しがあるのです。思い返してみてください。最初にキリストを信じた時のことを。もちろん、この女性のようなドラマチックなストーリーではなかったかもしれない。でも、世界でその人だけが語れる特別な証しがあるのです。サマリアの女性の感動は、彼女にしか語れない。同じように私にも、私にしか語れない「出会いのストーリー」があります。そして、皆さん一人一人にもあって、それを語ることが出来る。たとえ町中に出て行って多くの人に語れなくても、身の回りにいる誰かに、語れる大事な証しがあるのです。それを語ってみてはどうでしょう。その証しに心動かされる人が、近くに必ずいるのです。
さて、聖書に戻ります。本日の箇所は、出会いの場面です。「あなたと話しているこのわたしがそれです」。そこには、キリストに出会った女性の喜び、いのちの水の湧き出る感動がありました。
ところが、ところが、、、この場所には、この感動から取り残された人たちがいたのです。それはイエスさまの弟子たち。弟子たちは食べ物の買い出しで町に出かけていました。そして、帰って来てみれば、イエスさまが見知らぬ女性と話している。サマリア人と話すこと自体が異例のことでしたし、加えて神の言葉を教える教師が、外で女性と立ち話しするなど言語道断という時代です。そのため弟子たちは随分と驚いたようです。でも、この場面、面白いですね。驚きながらも弟子たちは声をかけられずにいるのです。それは、これまでもイエスさまの御業を見てきたからだと思います。「イエスさまには、何かお考えがあるはず」と、口をはさむのを控えたのでしょう。 とは言え、置いてきぼり感は否めない。サマリアの女性がキリストと出会い、信じた、この喜びと感動を共有できないのです。
私たちは、こういう経験をしたことがなかったでしょうか。同じ教会、あるいは身の回りに信仰に燃やされている兄弟や姉妹がいるのです。でも、自分はそれについていけない。私には、そういう経験があります。 イエスさまが今、どのように働いておられるのかが分からない。何だか取り残されたようで、そのため会話が噛み合わない。そんな場面が31節以下に続いていきます。
2. 目を上げて畑を見なさい
31-34節(読む)
イエスさまと弟子たちの会話、何かがズレているでしょう。買い出しに行っていた弟子たち、イエスさまはさぞかしお腹を空かしておいでだろうと、しきりに食事を勧める。でもイエスさまは豊かに満たされているのです。イエスさまは言いました。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります」。それを聞いた弟子たち、自分たちのいない間に、誰かが食べ物を持ってきたかと、戸惑い始める。
弟子たちの知らない食べ物、とは何ですか。それはイエスさまを遣わした方、天の父のみこころを行うことでした。みこころを行う時に、イエスさまは満たされて、いのちが豊かにされていくのです。
この天の父のみこころとは、そもそも何であったでしょう。思い出されるのが、ヨハネ3章16節の有名な御言葉です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。天の父は、イエスさまを信じるものが永遠のいのちを持つようにと遣わしたのでした。そして、イエスさまはサマリアの女性に出会い、彼女の内に「いのちの水」がわいていくのです。それを見ながらイエスさまは、喜びで満たされ、いのちも潤っていたのです。それがイエスさまの「食べ物」でした。
イエスさまが、父のみこころを行うことを「使命」とも「仕事」とも言わず、食べ物と言う。これはいい表現です。普通、仕事を終えると、人は疲れます。でも、「食べ物」は違う。食べ終わると満たされていのちが息を吹き返す。 この場面、サマリアの女性をまことの神礼拝に導きながら、イエスさまのいのちが喜んでいるのです。「ああ、この世界に来て良かった。サマリアに来て良かった」。
イエスさまは、地上ではまことに厳しい日々を送りました。「わたしには枕するところもない」と言うほどの厳しさです。でも、そんな中、燃え尽きることなく、生き生きと福音を伝えることができたのは、みこころを行うという、この「特別な食べ物」潤っていたからです。これは素晴らしい食べ物です。
この特別な食べ物は、実はイエスさまだけのものではないのです。私たちも、この食べ物を頂くことができる。イエスさまの味わっていた充実、喜びを、私たちも経験することができるのです。実は、私たちはそれを味わい始めています。この特別な食べ物は、実はすぐ身の回りにあるのです。たとえば毎月のフードシェア、パントリーは、新船橋キリスト教会の5,000人の給食です。毎回の準備と奉仕は大変ですけれど、毎月、200名ほどの人たちに食べ物という形で「愛」を届けた後の充実感を味わう度、私は「ああ、この教会でこれからも生きていこう」と思いを新たにしています。先週の牧会コラムにも書いてありました。この働きを通して、多くの方が潤い、イエスさまの愛に触れている。特別な食べ物は、私たちの身の回りにある。そして、この食べ物を食べて喜ぶように、つまり人をキリストに導く魂の刈り入れに加わるようにと、イエスさまはキリストの弟子を招いていくのです。います。
35-36節(読む)
私たちは、「まだ四か月」、この特別な食べ物は自分とは関係ないし、まだ先の話と思っているかもしれません。でも、すでに刈り入れは始まっているという。急がないと遅れてしまう。そこでイエスさまは弟子たち、そして私たちの目をグンと上に引き上げていきます。「目を上げて畑を見なさい(ルックアップ)」。そうです。この主イエスの言葉に従い目を上げるなら、今まで気づかなかった景色が見えてくるのです。刈り入れに加わることは、特別な食べ物で、これに加わると私たちは、「ああ、生きて来て良かった」と満たされていく。そんな世界が遠い先ではなく、身の回りにあるのです。イエスさまが井戸の傍らで出会った女性に福音を伝えたように、私たちの周りにも福音を必要とする人がいます。そして、伝えるなら、私たちも潤っていくのです。これが不思議な食べ物です。目を上げた時に見えてくる、刈り入れの景色です。
36節は印象的ですね。「蒔く者と刈る者がともに喜ぶため」。これを読んだ時に、旧約のアモス書9章13節を思いました。「そのとき、耕す者が刈る者に追いつき、ぶどうを踏む者が種蒔く者に追いつく」。普通、耕し種を蒔くことと、刈り取りの間には、四か月から半年ぐらいの時間差があって、それぞれ別々に起こっていくのです。預言者アモスは言うのです。いつか将来、そのときがくると、耕し種を蒔くことと刈り取りの喜びが同時に起こっていく。種蒔きの汗を流した人と刈り取りをした人が、一緒に同時に喜ぶ日が来る。これは神の国が完成に向かう時に起こることなのです。
3. ともに喜ぶために
イエスさまは、この喜びに私たちを招いているのです。私たちには、この景色が見えているでしょうか。刈り取りは身の周りですでに始まっている。種蒔く者も刈り取る者もともに喜ぶ特別な時を迎えているのです。
でも、この世で普通私たちが見ているのは、これとは正反対の不公平さです。種蒔きしても徒労に終わる人がいます。その一方、大して汗をかかないのに得しているように見える人もいます。この不公平さは、人間の罪がもたらしました。イエスさまは、そんな不公平を終わらせるのです。十字架によって罪を解決し、復活して死に打ち勝ち、今や、蒔く者と刈る者が共に喜べる世界がある。この景色を見るには、イエスさまの言葉に従って目を上げることです。そして、神のみこころを行う、この特別な食べ物をいただくのです。すると、この不思議な食べ物が命を潤し、「ああ、生きていて良かった」と私たちの人生を豊かにしていくのです。
以前に分かち合ったことのある高橋勝美君の証しです。彼は18歳の高校生、私が三十年以上前に出会った時、彼は骨肉腫で片足を失い、余命あと半年の闘病生活の中でした。私はまだ二十代前半で、自分と同世代の中に、このような闘いをしている人がいることに驚きました。そして、彼のもとを訪ねては祈り、手紙をやり取りするようになったのです。私以外にもいろんな人が関わり、彼はイエスさまと出会いました。そして、自分がガンになったことにも意味があった。おかげでイエスさまを信じることが出来から、と希望を語りながら、地上の生涯を終えました。この出来事は、私の人生を変えました。そして三十数年、事あるごとに勝美君を救ったイエスさまを証ししてきたのです。彼との出会いは、今や私の人生の一部分。勝美君が自分の中に住んでいるような感覚です。これが私の特別な食べ物です。三十数年の伝道者生涯、いろんな苦労もありました。でも、この証しが私を潤し、支えてきました。「生きてきて良かった」と、心の底から思います。
結び
イエスさまは私たちを、この素晴らしい刈り入れに招いています。これは実に美味しい話です。本来なら、私たちが味わえない刈り取りの喜びへと、イエスさまは弟子たち、そして私たちを招いているのです。
38節(読む)
私たちは労苦したわけではないのに、刈り入れの喜びに与ることができるのです。私たちより以前に、種まきの汗を流した人たちがいます。本当はその人たちのものであるはずの、刈り入れの実を、イエスさまは私たちに下さるという。これは美味しい話です。
私たちの前に種まきをしたのは誰でしょう。いろんな人が種まきをしたと思います。古くはアモスのような旧約の預言者たちが命をかけて御言葉の種まきをしました。新約聖書の初めに出て来る洗礼者ヨハネもその一人です。彼もまた命をかけて種を蒔き、命を捧げました。そうです。いろな人が種を蒔いたのです。でも、最大の労苦を担った方を忘れないようにしたい。イエスさまです。一人でも多くの人を救うために人生のすべてを費やし、最後は十字架。十字架の御業を終える時、イエスさまは深い満足を味わいましたね。ヨハネ19章30節がイエスさまの最後の言葉を伝えます。「完了した!」種蒔きは終わった。あとは、刈り入れるばかりだと。
目を上げれば見えてくるのです。イエスさまの蒔いた種が色づいて、刈り入れの時を迎えている。それはどこか遠くにある刈り入れではないのです。まだ先の「いつか」の話ではないのです。目を上げれば、私たちの周りに、福音を必要とする人がいる。その人に自分だけが語れる「証し」を伝えたいのです。伝えるなら、私たちも潤っていく。「ああ、生きてきて良かった」と、そんな蒔く者と刈る者が共に味わえる喜びの中に、私たちも飛び込んでいきたいと願います。お祈りします。
天の父なる神さま、感謝します。目の前にある色づいた畑を私たちが見て、与えられた「証し」を語る中、共に喜びが溢れますように。この喜びを分かち合う教会として、私たちを聖霊によってお用いください。特別な食べ物を私たちに分け合ってくださった、救い主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
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