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神と恵みのみことばにゆだね(使徒の働き20:28〜32)

「神と恵みのみことばにゆだね」
使徒の働き20:28~32

使徒の働き20章18節からは、パウロのエペソ教会への告別説教でした。パウロは、まずはエペソ伝道の振り返りをしました。彼はエペソで、時がよくても悪くても、いつでもどこでもイエスさまの救い、福音を宣べ伝えてきました。そしてそれが自分に与えられたレースなのだから、命がけでこのレースを走り尽くすと語ったのです。そして、今日の箇所では、長老、つまり教会のリーダーの役割とパウロが去った後で、教会が受けことになる試みについて語っています。 

教会が受ける一つ目の試みは、29節にあります。「狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回る」 パウロは、自分がいる間は、この凶暴な狼から守ってあげられるけれど、いなくなったら自分たちで対処しなければいけないよと忠告しています。「凶暴な狼」とは何でしょうか。「偽預言者」とか「偽教師」とか呼ばれる人々のことです。彼らは間違った教えを教会の中に持ち込んで来ます。間違った教えと言うのは、24節にあるような「神の恵みの福音」から引き離す教えです。「神の恵みの福音」とは何でしょうか。それは、人間の行いにはよらず、イエスさまを信じるだけで救われるということです。「恵み」はプレゼントです。何の代価もいらない、ただありがとうございますと受け取るだけのものです。けれども、人は「恵み」ということに慣れていません。高価なものをタダでくれるなんで、胡散臭く感じてしまうのです。そして偽教師が入って来て、「そんなタダなんてありえない。あれもしなければ。これもしなければ」と言うと、その方がもっともらしく感じてしまうのです。また、狼が狼らしく群れに入って来れば、羊たちは慌てて逃げるのですが、彼らは羊の皮をかぶって群れに紛れ込んできます。悪魔が天使の様相で入って来るのです。

先日、夜の祈祷会に参加したいという方から電話を受けました。キリスト教に関心があるから、祈祷会に参加させてくれないかということでした。けれども今、私たちの夜の祈祷会は、Zoomで行っており、参加者は実習生と五十三先生、そして朝岡先生ですし、しかも「ネヘミヤ記」を学んでいて、初心者には難しいし。また、祈祷会では教会の皆さんの名前をあげてお祈りしているので、個人情報が満載です。外部の人が入るのはあまりよくないと思われたので、祈祷会ではなく、他の時に来ませんか?個人的に聖書を学びましょう。日曜日の礼拝はいかがですか?と尋ねたのですが、その方は、祈祷会に参加したいとおっしゃるのです。ちょっとおかしいなとは思ったのですが、祈祷会のZoomのリンクを教えました。けれども、五十三先生と相談したところ、やはり気を付けた方がいいということで、結局はその日はその方に遠慮していただいたのです。そして後に、千葉宣教区の牧師先生に聞いたら、おそらくその人は「新天地」という異端の人だろうということでした。「新天地」という異端は、韓国で生まれたイ・マンヒをメシヤとするキリスト教を装ったカルト集団です。彼らの手法は、クリスチャンの小さな集まりに潜入し、中にいる人と友達になり、いっしょに聖書の勉強をしようと誘い出し、自分たちのところに取り込んでいくというものだそうです。危ないところでした。このように、外から凶暴な狼が群れに入り込む危険は、身近にあるということです。 

30節「また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。」 凶暴な狼は、外から入って来るだけではありません。私たちの中からも、いろいろと曲がったことを語って、信徒たちを自分の方に引き込もうとする者たちが出て来るというのです。そういう人は、たいてい熱心で、聖書知識もあり、人望も厚かったりします。牧師の可能性もあるので、要注意です。パウロは言います。彼らは「弟子たちを自分の方に引き込もうとする」。「イエスさまではなくて、自分の方に」。それが彼らの特徴です。さあ、そうは言ってもどうやって見分けたらいいのでしょうか。それについてはイエスさまが教えてくださっています。マタイ7:15~20「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。…こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。」教会を私物化していないか、支配的でないか、自分の名声を求めていないか、教会の一致を妨げていないか、何よりも罪の中にいないか。そのような実で、私たちは彼らを見分けることができます。

そして、私たちは防御策として、教理を身に着けましょう。よく、教理は苦手という方がいますが、教理は聖書のエキスです。キリスト教2000年の歴史の中で、多くの異端が現れては消えて行きましたが、その度に、何が正統で、何が間違っているのかを何度も話し合い、神とは何か、キリストとは何か、教会とはなにか、救いとは何かなどをまとめてきたのです。わたしたちは教理が身に着いていないと、曲がった教えを見分けることができません。エペソ4:13~15にはこうあります。「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。」神の御子に対する信仰と知識とにおいて一つになるためには、教理の学びは必須です。大丈夫です。子どもに薬を飲ませる時に、よく薬をプリンに混ぜたり、ジュースに混ぜたりして飲ませるように、牧師たちは説教に教理を混ぜ込んで、抵抗なく皆さんが吸収できるようにしています。また、もともと「信仰問答」は子どもの信仰教育のための教材です。子どもは、意味が解らないまま、繰り返し学び、暗唱します。そうすると知らない間にそれが身に着いていきます。そうしてあるとき聖霊が働いて、ああこういうことかとわからせてくださるのです。そして、異なった教え、曲がった教えを見分けることができるようになり、骨太の足腰の強いクリスチャンになるのです。 

そして、パウロはそこに集まっている長老たちに語ります。28節「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。」自分自身に気を配る…、案外これが牧師たちに欠けていることかもしれません。自分の信仰がずれていないか、絶えず学んで、吟味して、鍛錬すること、そして心身が健やかであるように気を配ることも必要でしょう。その上で群れ全体に気を配るのです。ところがこれが難しい。牧師夫妻がいっしょうけんめい牧会しても、30人が限界だとよく言われます。確かに、日本の教会は30人ぐらいで頭打ちになることが多いようです。けれども、パウロは長老たちにこれを語っているということを思い出してください。役員就任式の文を覚えているでしょうか。「2.あなた(がた)は、日本同盟基督教団の教憲・教規、および(             )教会の規則に従い、役員会を重んじ、牧師とともに教会を治める務めを果たすことを約束しますか。」牧師とともに教会を治める務めを果たすのが役員の役割です。これが機能すれば、100人教会になろうが、200人教会になろうが、群れ全体に気を配ることができるのです。教会は単なる組織ではありません。群れのお一人お一人は、イエス・キリストの貴い血によって買い取られたおひとりお一人なのです。教会は神さまの宝箱です。心して牧するようにと求められています。

そして31節、「ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」ユダヤ人たちからの迫害、そしてこの後に起こるローマ皇帝崇拝へのプレッシャーと迫害、そして先ほど触れた凶暴な狼が群れに入ってくる状況の中で、パウロが訓戒してきたことを思い起こして、目を覚ましていなさいと言うのです。もちろんこれは、眠るなということではなく、霊的に目を覚ましていなさいということです。警戒を怠るなということです。 

最後、パウロは言います。「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。」パウロは、エペソ教会の群れをあなたがた長老たちにゆだねますとは言いませんでした。むしろ長老たち、牧師や役員たちを「神とその恵みのみことばにゆだねます」と言っています。そして続けます。「みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」教会は、恵みのみことばの上に立つのです。教会が、そして教会に連なるお一人お一人が、みことばに立つならば、必ず成長し、きよめられ、やがては御国を受け継ぐことができるのです。私たちは自分自身をみことばに漬け込みましょう。理解できてもできなくても、絶えずみことばに浸るのです。そうすれば、知らない間に神さまの心が私たちの心になります。神さまの視点で私たちは物事を見られるようになります。そして羊の皮をかぶった狼が群れに入り込んでも、見分けることができます。こうしてイエスさまの血で買い取られたこの宝箱のお一人お一人を私たちは守ることができるのです。祈りましょう。


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