「みこころが行われますように」(マタイ6:9~10)
齋藤 五十三 師
1. 神の国とみこころ
9節(読む)
私たちは主の祈りを通し、神の子どもの祈りを学んでいます。「主の祈り」は、私たちの目標の祈り。神と人を愛するための祈りです。今日は、第三の願いに、目を留めていきます。
第一の願いは「御名が聖なるものとされますように」でした。神の名が賛美され、礼拝され、尊ばれるように。 神を中心にした生き方を願う。それが第一の願いです。
第二、第三は10節です。(読む)
最初に、今お読みした二つの願いが、切り離せない関係にあることを覚えたいと思います。御国が来るようにと求めることは、神のみこころがなることと、切っても切り離せないのです。
御国、すなわち神の国とは何でしたか。 それは、神が中心におられ、治めているところ。 この神の国は、御言葉と聖霊によって導かれていきます。 私たちが御言葉と聖霊に従うならば、神の国は、私たちの心の中にも訪れ、愛、喜び、平安をもたらしていくのです。
そう考えると、神の国と、神のみこころの間にある密接さがよく分かるでしょう。神の国は、御言葉と聖霊によって導かれます。そうであるなら、そこでは当然、神のみこころが成っていく。 御言葉を生きる私たち、神の子どももまた、神のみこころが成るのを、そこで経験していくのです。ああ、神は生きて働いておられると、そんな確かな経験が残るのです。
神の国がそうだったように、みこころもまた、オートマチックに実現するわけではありません。私たちはこれを祈るわけですから、具体的にみこころにコミットし、関わっていくことになるのです。それが、この第三の願いです。私たちが「神のみこころ」の実現に関わっていくのです。
2. 自分の思い・願い
主の祈りは、神の子どもの祈り。ですから、「みこころが行われますように」と祈るのは、当然のことだろうと思います。 神の子どもなのですから。 しかし、どうでしょう。 正直、胸に手を置けば、これを素直に祈れないと、ある種の躊躇を覚えることがあります。 そう、「みこころ」と祈る時に、妨げる力がある。 それは、どうしても手放せない、自分の願いや思いがあることに気付くからです。
「ここも神の御国なれば」という賛美があります。 その美しい賛美のように、「神の国が来ますように」と。 私たち、ここまではアーメン、その通りですと素直に祈れると思う。でも、その先の祈りを、素直に口にできるでしょうか。もし、皆さんがアーメンと、すなおに祈れるなら幸いです。 それは本当に幸いなこと。
けれども、もし私たちが、神の国の喜びや平安は求めることができても、その先、つまり「みこころ」が成ることを素直に祈れないとしたら、これは苦しい祈りになってしまう。 私も正直、これまでいろんな葛藤を経験してきました。 人生にはいろんな事が起こるもので、その中で私たちは、ああなって欲しい、こうなったらいいと、いろんな願いを持つでしょう。その思いや願いを手放して、神のみこころの通りに、と祈れるかどうか。これは、なかなかに難しいことだろうと思います。
私も七年以上前に、苦しいことがありました。五年以上の月日を費やして書いた学位論文が、審査を通らず、大幅な書き直しを求められた。 それまで費やした時間やエネルギーが大変なものでしたから、ひどく落ち込んで眠れなくなりました。 書き直す気力を取り戻すのに一か月。 書き直して再提出するまでさらに半年を費やしました。 あの時はさすがに、「みこころがなりますように」と祈る言葉が詰まった。 「みこころ」が私の願いと違って、万が一論文が通らなかったらどうしようと、葛藤に継ぐ葛藤だったのを覚えています。
「みこころが行われますように」と祈ることがどうして苦しいのだろう。 私たちは、これを祈る中で、二つのことに気付いてしまうのです。 一つは、自分の優先順位がどこにあるか。神の国とその義を第一に、と口では言いつつも、自分が本当は何を一番大事にしている人間なのかわかってしまう。だから苦しい。
もう一つの気付きは、「古い自分」が残っていることです。神の子となり、新しく生まれた私たちですが、そんな私たちの中にも、古い罪の性質、古い自分がまだ残っていると気付く。だから苦しくなるのです。
どうしたらいいでしょう。 もちろん信仰者は、たとえ苦しくとも「みこころが行われますように」と祈ることで成長できるのですが、祈ることは、容易くない。どうしたらいいのか。今日は、二つの励ましを伝えたいと思います。
3. 父を信じ、イエスを見つめる
「みこころが行われますように」と祈るための励まし。その第一は、当たり前のことですが、信仰を持つことです。私たちの天の父を信頼しよう、ということです。天の父は、私たちの必要を、私たち以上にご存じのお方だからです。
前の頁の8節後半にこうあります。「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」 天の父は私たちの必要を知っている。私たちの幸いのために本当に必要なものを知っている。 「求める前から」とありますから、天の父は、私たち以上に、私たちの本当の必要を知っているのです。そして私たち自身が、自分の本当の必要に気づいていないことも多いのです。 だから、父を信頼して任せたらいい。「みこころが行われますように」と、父を信頼すれば祈れます。 このお方は、私たちが本当の意味で幸いになる道を知っているのです。
ことわざで「親の心 子知らず」と言いますね。 親というものはまことに歯がゆい。 子どもを真剣に思っているのに、その思いをなかなか理解してもらえない。親は、この歯がゆさに耐えなければなりません。 でも、天の父が、私たち神の子どもに抱いている歯がゆさは、私たち以上だろうと思います。私たち神の子どもは、父がすばらしい計画を持っていることに気付かぬまま、自分の願いを押し通そうとしてしていることがあるのです。
だから皆さんを励ましたい。天の父を信頼し、自分の思いを手放しましょうと。 手放すと、神の最善が成っていく。私たちが予想もしなかった恵みを経験することすらあるのです。
もう一つの励ましは、キリストを見つめることです。 この第三の願いを、原文から直訳すると、次のようになります。お聞きください。「あなたのみこころがなりますように。 天におけるのと同じく、地においても。」
この「あなたのみこころがなりますように」という部分は、ギリシャ語の単語で四つですが、これをそのまま、繰り返すように祈った人がいます。誰だかお分かりでしょう。 そう、イエスさまです。イエス・キリストは、十字架前夜のゲッセマネの園で祈りました。マタイ26章42節「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように。」 この最後の部分は、主の祈りの第三の願いと全く同じです。「あなたのみこころがなりますように。」
イエスさまは最初、「杯」つまり十字架の苦しみを思いながら、十字架を負わないで済む道はないものかと祈りました。 「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」 少し驚きですが、イエスさまにさえ、父のみこころを素直に祈れない躊躇があった。 主イエスは、「みこころ」を素直に祈れない、私たちの弱さをご存じです。
でも、でも、、イエスさまは祈りの中で乗り越えていく。 眠りこける弟子たちの中、イエスさまは一人で祈り続けます。そしてついに自分の思いを手放し、「あなたのみこころがなりますように」と、すべてを父に任せていく。 その翌日、何が起こったのですか。 ご存じでしょう。イエスさまは「完了した」と十字架の上で救いの御業を成し遂げ、罪の赦し、救いの恵みを私たちに分かち合ってくださったのでした。 イエスさまが、みこころを祈ることができたから、救いの恵みが私たちに注がれている。
そんなイエスさまは、本当に、私たちの祈りの教師だと思います。葛藤を覚えながらも、イエスさまがみこころを祈ると、救いが成り、本当の祝福が多くの人に注がれていく。 それと同じように、このイエスさまに学んで、私たちが、神のみこころを求めるなら、私たちを通してもまた、神の祝福が、私たちの周りにいるあの人、この人を潤していくことになるでしょう。 イエスさまは、みこころを祈ることの幸いを、その後ろ姿で教えてくださいました。
もちろん、私たちとイエスさまでは、担える重荷の重さが違います。 安心してください。天の父は、私たちが負いきれない重荷を負わせることはありません。御言葉の約束があるでしょう。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。」(Ⅰコリント10:13)
天の父は、私たちが背負える重荷を、そのみこころの中で負わせます。だから安心して欲しい。 そして、みこころが成ると、私たちを通して、神の祝福が周囲に流れていくのです。
一つの証しをして終わります。私が神学校で学んでいた、約三十年前の話。 同じ学年に(下の名前は明かしませんが)川村さんという女性がいたのです。 とても賢い方で、しかも自分は生涯結婚せず、伝道者として生きていく、という強い意志を持った方でした。 私は、川村さんとの結婚を願い一年ほど祈った。 そして卒業後にプロポーズ。 しかし、自分には使命があるからと、即座に断られました。 私も引き下がれずに、せめて祈るだけ祈って欲しいと、粘って、何とか説き伏せた。お互いに祈ろうと。 ところが、祈れども何の進展もない。 その反対に私自身、約半年の間に自分の罪深さや弱さに気付き、打ちのめされるようなこともあって、「自分は彼女に相応しくない」と諦め、思いを手放して、それを手紙に書いたのです。握りしめていた思いを手放すという、そういう経験をしました。
手紙を出してから一週間ほど経って、川村さんから電話が来たのです。電話が来るというのは、初めての経験で驚きました。 しかも何と、「もう一度、考え直して欲しい」と言うのです。その後、二人は、結婚へと導かれます。(後で牧師にアナザーストーリーを聞いてください。)
この経験は、私にとって大きな学びでした。「何だ、願った通りになったじゃないか」と思われるかもしれない。でも、私にとって全く違う結果だったのです。 自分の思いを手放したことで、私が変わったのです。 自分の思いをどうしても手放せないでいた自分と、 手放した後の自分が、変えられていた。 私は学んだのです。 天の父は、私の必要をすべて知っている。 頑なな思いを解き、父の前に手放して委ねることの幸いを、天の父は教えてくださいました。 この学びは、若い時に学び得た信仰の財産です。思いを手放し委ねていくと、そこに神の最善がなっていく。 私は知りました。「みこころを祈る」ことは、積極的な祈りだと。それは、自分の思いを諦めるという、消極的な、苦しい祈りではない。それは本当は、前向きの祈りなのだと。
結び
「親の心 子知らず」とのことわざを申し上げました。主の祈りに照らせば、「父の心 子知らず」でしょう。 心に留めたいと思います。天の父のみこころが成ると、本当の幸いが訪れる。そして、私たちが、周囲の人々に祝福を届ける「通りよき管」ともなっていく。 だから、あきらめからではなく、信仰をもって「みこころがなりますように」と祈りたいと思います。 もちろん、祈れない自分を責める必要もありません。主は、そんな私たちの弱さもご存じです。 とにもかくにも祈って欲しい。「みこころがなりますように」と。 イエスさまは、私たちの祈りの教師。みこころを祈る中、私たちはキリストに似た者へと成長していくのです。お祈りします。
「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」
天の父よ、感謝します。 自分の思いを手放せない時には、聖霊によって私たちの心を柔らかくしてください。そして、信頼をもって、前を向きながら、みこころを願っていく。 そんな祈りの中で、愛するイエスさまに似た者の交わりへと、私たち新船橋キリスト教会を成長させてください。
祈りの教師、私たちの主、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
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